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慌ててバスルームを出たところで佑は足を止めた。のんびりとした挙動で順が歩いてくるのが見える。佑は先ほどのことを思い出して顔を歪めてから思い直して順に駆け寄った。足音を聞きつけた順が呼びかける前に振り返る。
「あんれー? どったの?」
佑とバスタオルに包まれた水輝とを見比べて順が呑気に言う。よれた煙草が順が喋るたびに口許で不安定に揺れる。見目は整っているのだから格好くらいはまともにすればいいのに、と佑はいつものことを思いながら水輝を見下ろした。
「水輝さんが、また熱を出したんです。呉羽さんを呼んで来てもらえます?」
「やだな、優一郎くん。呉羽ちゃんは昨日から学会で」
そう言って順が片手をひらひらとさせる。そういえば、と佑は困った顔になった。学会で論文を発表するとかで、呉羽は昨日から海外に出張しているのだ。三人の犬も引き連れていったから問題はないだろうが、今すぐに戻らせる訳にもいかない。ちなみにこの犬、というのは文字通りの意味で冥界の犬というモノを示す。
「どれ、ちょっと貸してごらん」
唇から煙草を引き剥がし、握り潰して焼き尽くしてから順が手を伸ばす。佑は差し出された手と水輝とを見比べて眉を寄せた。
「お願いします」
悔しさを滲ませて佑は渋々と水輝を差し出した。軽々と両腕に抱えたところで順が困ったように笑う。
「そんなイヤそーにしなくてもいいっしょ?」
身体を丸めて目を閉じた水輝は苦しそうな呼吸を繰り返している。順は軽く腕を曲げて水輝の額に手をあてがった。すると水輝が小さく呻いて順の胸に顔を傾ける。おりょ、と笑って順は水輝の髪を撫でた。
「何か猫みたいだねぇ」
そう言った順の目が何故か嬉しそうに笑っている。佑は眉を寄せて腕組みをした。
「やっぱり、わたしじゃ駄目なの……?」
自然と俯きながら佑は小声で呟いた。それまで嬉しそうに水輝を見つめていた順が首を傾げて佑を見る。視線を感じた佑は慌てて顔を上げた。
「誰がいいとかじゃないと思うけどねぇ。水輝ちゃんのコレは弊害出てるだけっしょ」
そう言いながら順が歩き出す。自然と後ろをついて行きながら佑はぼんやりと順の背中を見つめた。アロハシャツにズボンというラフな格好をした順は、何故かこうして時折屋敷に現れる。
「いつも、ありがとうございます」
消沈した面持ちで思案しつつ、佑は前を行く順に声をかけた。どうやら順はこのまま水輝の部屋に向かうつもりらしい。振り返って苦笑してから順がまた前を向く。
「ま、オレは好きでやってるだけだしねぇ。そうだ」
ふと、途中で声音を強くして順が立ち止まる。何事かと思いつつも佑はつられて足を止めた。嬉しそうな顔をして振り返った順が片目を閉じてみせる。
「熱下げたげるからさあ。ちょっと水輝ちゃん連れ出していい?」
言われた意味がすぐに理解出来ず、佑は何度か瞬きをした。
「何処へ、ですか?」
「イ・イ・ト・コ・ロ」
ひと言ずつ区切りながら順が嬉しそうに言う。佑はうろんな眼差しでしばし順を見つめた。何故かは判らないが、順に抱えられた水輝は先ほどよりは少しだけ落ち着いたように見える。
「わかりました……。おまかせします」
「ありゃ。やけに素直だねぇ。どったの?」
すぐに佑が頷くとは思っていなかったのか、順が驚いたような顔で言う。佑はため息を吐いて順から目を背けた。どう答えるべきか、佑が考えている間に順が言葉を継ぐ。
「もしかしたらとおーいトコへ連れてっちゃうかも知れないのにねぇ?」
くすくすと笑いながら順がわざわざ佑の顔を覗き込む。佑は唇を噛んで涙ぐんだ。堪えきれずに涙が落ちそうになったところで順が慌てたように詫びる。
「うわ、泣くの反則だよぉ。どったの? 優一郎くんも体調悪い?」
今度は気遣うような顔をして順が訊ねる。佑は深く息を吐いてこみ上げてきたものを何とか堪えて首を横に振った。
「大丈夫です。それではわたし、部屋に戻ります」
返事を待たずに踵を返し、佑は自分の部屋に向かって駆け出した。ちょっとお、という順の声を無視して廊下を走り、逃げるようにして自分の部屋に飛び込む。ドアを閉めて寄りかかったところで佑は涙を拭った。
こんなことではいけないと思うのだが、どうしても涙が出てくる。佑はスカートのポケットからハンカチを出して顔を拭った。涙を拭いて息を吐いてから何気なくハンカチを見る。いつだったか水輝がくれた花柄のハンカチを見ていると余計に涙が込み上げてくる。
どうして水輝は何も言わないのだろう。あの事件を境に……いや、もっと前からだ。水輝は自分からは何も言わなくなってしまった。一時的に水輝は奈月とは仲直りをしたことにはなってはいるが、本心がどこにあるのかは怪しいものだ。勿論、水輝は奈月を好いてはいるだろう。だがもっと別の、口に出来ないものを抱えているような気がしてならないのだ。
水輝の思考の周辺には完璧な防御が築かれていて、こちら側からは読むことが難しい。言葉にして出してくれれば、佑の本来の属性である誓約に関わるために見ることは出来る。だが水輝はそれを知っているからなのか、近頃は本当に言葉が少なくなってしまっているのだ。
不安に思っているのは佑だけではない。やはり奈月も気にはしているようだ。伴侶である佑とは別の意味で奈月は水輝と深く結びついている。
「結局、おじさまに帰ってきていただくしか、ないのね」
諦めをこめて佑は呟いた。佑がおじさまと呼ぶのは立城のことだ。立城は一度は水輝にその身を散らされ、今はこの世には存在はしていない。少なくとも器はない。だが佑はそれが真実でないこともよく知っていた。
立城は居るのだ。時折聞こえる声のことを思い出して佑は唇を噛んだ。もし、自分の胎にあるのが全く別の存在であれば、ここまで考えることもなかったのだろう。佑は下腹に手をあてがって俯いた。そして立城が早く世に現れるには、どうしても順の協力が必要らしい。
「彼は彼の理屈で動いてるけど、水輝さんにとって、ある意味、味方であることは揺るがないわ」
青の宝珠の示す青龍神と紅の赤龍神は表裏一体と言われている。青龍神である水輝と赤龍神の順は、本人が意図するかどうかとは全く関わりのない部分で深く繋がっているのだ。互いがどう感じていても、互いを助け合うようになっている。
「あー、そうそう。一つ訊き忘れたんだけどさあ」
唐突に背後から声が聞こえてくる。佑は驚きに身を竦めて慌てて振り返った。寄りかかっていたドア越しに喋っているのは順だ。
「キミさあ。あの姫君をどう思う?」
佑はドアを開けようとしていた手をぴたりと止めた。ドアノブをつかもうとしていた手が自然と震える。
「奈月さんのこと?」
訊き返す佑の声は自然と上ずった。他に誰がいるのさ、と順が笑いながら答える。顔が見えないからだろうか。声は笑っていても順の顔には笑みが浮かんでいないような気がする。
水輝や順の思考防御を突破するのは至難の業だと思います。
佑はこの辺りから存在が不安定になってます。