身軽に部屋に着地した人物がゆらりと身を起こす。それは青い刀を担いだ水輝の形をしたものだった。だが形は水輝でも、奈月の目にそれは水輝には見えなかった。
「僕の要求に応じていただいてありがとうございます。紫翠さん」
一見、無防備に見える姿勢で優一郎がその人物に笑みかける。奈月は目をしばたたいて瞼を擦った。傍に着地した桜が奈月を横抱きにして部屋の隅に素早く移動する。
「用件は簡潔に言え」
黒ずくめの格好をした紫翠と呼ばれたものが冷ややかに言う。同じ形をしているのに、紫翠はさっき見た水輝とはまるで印象が違う。
「父から盗んだ力を返してください。主龍神の裁可もいただいています」
「盗んだとは人聞きの悪いことを言うな」
コートに片手を突っ込み、斜に構えた紫翠が微かに笑う。桜に近づいてはいけないと耳打ちをされた奈月は、懸命な面持ちで紫翠を見つめていた。
「既に裁可は下っています。返してください」
笑顔を絶やすことなく優一郎が告げる。紫翠は肩を竦めて不意に奈月を振り返った。鋭い目に見られた途端、奈月は身動き出来なくなった。
「空の主はああ言っているが……主龍神よ。どう思う?」
やけに優しい声で問われて奈月は唇を引き結んだ。綸言、汗の如し。文がいつか言った言葉を思い浮かべて奈月は強張った顔をしたままで応えた。
「わたしの発した言葉は、わたし自身にも、取り消す事はできません」
「そうか」
素気なく言った紫翠が優一郎に向き直る。
「さて。わたしはこの力を返さなければならなくなったようだが」
喉の奥で笑って紫翠が首を傾げる。
「誰に返すのかな?」
そう言った直後、紫翠は無造作に右腕を振った。握られていた刀が一閃する。悲鳴を上げて首を竦めた奈月を片腕に抱えて桜が床に伏せる。紫翠の刀の一振りで、生徒会室の壁はまるで発泡スチロールか何かのように半分に切れていた。壁の上半分がさっきの一撃で蒸発してしまったのだ。
「あの……本当の持ち主に返すのが、筋ではないでしょうか?」
のろのろと身を起こしながら奈月は紫翠を見つめた。
「現世に存在しないものに?」
奈月の言葉に紫翠がすらりと切り返す。奈月はこちらを向こうとしない紫翠の背中に言葉をかけた。
「どこにいらっしゃっても返す事はできると思います」
「そうだな」
静かに頷いてから紫翠がコートのポケットに突っ込んでいた手を天に掲げる。ゆらりと持ち上げられた紫翠の手のひらは天を向いている。
「では、大元の持ち主に戻すとしよう」
そう言った紫翠の手から鋭い闇が幾つも天に向かって飛んだ。
「桜さん、あの、この方が、この前、仰っていた、紫翠龍さんですか?」
奈月は声を潜めて桜に問い掛けた。桜は歯を食いしばって紫翠の背を睨んでいる。
「あれは欠けた者です。言ったではないですか。姫様の中に純粋な」
「ああ、貴様も居たか」
突如、紫翠が言って右手を振る。一瞬、反応の遅れた桜の身体が紫翠の放った力に吹き飛ばされる。壁にぶち当たった桜は刀を握り締めてよろよろと身を起こした。
「貴様には訊きたい事が幾つかある。大人しくしていろ」
何事もなかったかのように告げる紫翠の手からはまだ闇が撃ち出されている。晴れていた空は徐々に曇り始め、不気味な音が聞こえ始める。
「桜さんっ!」
奈月は慌てて桜に駆け寄った。唇から血を流しながら桜が両手に刀を握る。
「いいのか? わたしが貴様を攻撃すれば、主龍神が巻き込まれるぞ?」
ゆらりと桜を見やって紫翠が言う。言われた瞬間、桜が目を見張って悔しそうに歯軋りをする。
やがて紫翠がゆっくりと左腕を下ろす。それから紫翠は肩を竦めて優一郎を見た。
「なんでしょう?」
にっこりと優一郎が笑う。その笑みには一片の曇りもない。
「これで用は終わりか?」
紫翠はそう告げて左手に青い鞘を引き寄せた。右手の刀を静かに鞘にしまいこむ。
「いえ、ちょっと、水輝さんも呼ぼうと思います。水輝さん! いらしてください!」
そう優一郎が言うと紫翠がぴくりと眉を上げる。奈月は水輝の名を聞いた途端、驚きに目を見張って慌てて立ち上がった。すると焦ったように桜が奈月を見上げる。だが奈月は桜に構う余裕もなく、慌ただしく周辺を見回した。
鮮やかな光がその場に現れる。やがて光は人の形になった。
「水輝さんっ! ……!?」
慌てて呼びかけた奈月は訝りに眉を寄せた。するとどこからともなく声が降って来る。
『奈月さん、その人が水輝さんなの?』
「違います! この方は立城さんですっ!」
奈月はその場に姿を現した立城を指差して声を張った。その瞬間、紫翠が目を見張って身体を折る。紫翠の手から青い刀が音を立てて床に落ちる。
「おじさま、おかえりなさい」
その声に奈月ははっと目を見張った。床に落ちていた赤い苺のブローチのようなものが形を変え、その場に佑が現れる。苦しそうに身を折った紫翠がぎらりと奈月を睨む。
「き、さま……!」
床に膝をついて紫翠が怒りのこもった力を放つ。だがそれは奈月に届く前に桜の刀に弾かれた。奈月の前に滑り込んだ桜が両手に刀を握って紫翠を睨みつける。
「あの時は逃がしたけど、今日はそうはいかないわっ!」
声を張った佑の身体から光が溢れ、その光は次々に紫翠の身体に飲み込まれた。膝をついていた紫翠が仰け反って絶叫する。紫翠は光に撃たれながら震える腕を立城に伸ばした。水輝、と掠れた声で紫翠が呼ぶ。立城はそんな紫翠をじっと見つめている。奈月が見た時より少し若いし、頭には角も生えている。だが美しい京紫の輝きはあの頃と同じだ。
「僕は、水輝ではありません」
哀しそうな顔で言って立城がため息を吐く。紫翠は差し伸べていた手を力なく落とした。
光に灼かれながら紫翠がやがて笑い始める。最初は小さく、だがその笑い声は徐々に大きくなっていった。掠れた、切ない響きのある笑い声に奈月は目を細めた。紫翠は血を吐きながら笑っている。
「人形風情に……わたしも落ちたものだな」
そう呟いた紫翠の身体が傾ぐ。ぐらりと揺れた紫翠の身体を黙って立城が受け止める。薄く目を開いた紫翠が立城を見つめ、何事かを呟く。ほどなく紫翠の身体からは完全に力が抜け、静かに瞼が閉じた。
「おじさま、わたし、役にたったかしら?」
佑がにっこりと笑う。力をなくした紫翠を両腕に抱え上げた立城が首を傾げる。奈月はじっと立城の腕に抱えられた紫翠を見つめた。さっきまでの鋭い気配は完全に消えている。
立城が佑に頷いてみせる。すると佑の身体から眩い光が空に向かって放たれた。視界が真っ白になるほどの光に奈月は思わず目を閉じた。瞼の向こうで少しずつ光が弱くなっていく。
目を開けると空は晴れ渡っていた。奈月は驚きに息を飲んでしばし空を見つめ、次いで床に目を落とした。佑の立っていた場所には小さな苺のブローチが落ちていた。
ふと立城の腕の中で紫翠が身じろぎをする。それに気付いた奈月は慌てて立城を見た。
「水輝さんっ!」
間違いない。立城に抱えられているのは水輝だ。そのことに気付いた奈月は慌てて立城に駆け寄った。だが立城が駆けてきた奈月をするりと避け、桜の傍に向かう。
「これは返すよ」
立城が無造作に青宝珠を優一郎に放り投げる。その手の中に苺の形をしたブローチを引き寄せた立城は嗤いを浮かべた。床に転がっていた青い刀がふわりと浮き上がり、宝珠の形に戻って水輝の胸に吸い込まれる。刀を背に隠し、慌てふためいている桜と共に立城の姿がかき消える。奈月は呆然と三人が消えてしまった場所を見つめた。
タイトルを回収というか、実は後からつけるのでタイトル回収に見える、という方が正しいでしょうか。
やっと二体のような感じになりました。