古かったかも。
エロシーンはありません。直接的には。
笑顔で迎えてくれた二人を交互に見つめて奈月はこんばんは、と挨拶をした。隣に立っていた翠も会釈をする。こっちへどうぞ、と言われるままに奈月は翠と手を繋いでソファに腰掛けた。翠が当然の顔をして奈月の隣にちょこんと腰掛ける。
渚と共にいた少女は多野波絵と名乗った。自己紹介を受けて奈月は笑顔で挨拶した。隣に居る翠が喋らなかったので、奈月は翠の分も紹介をした。なるほどなるほど、と頷いた波絵がはっとしたような顔をして慌てた様子で部屋を出て行く。そんな波絵を見送ってから奈月は渚に目を戻した。
今日の渚は会社に居るからなのか、珍しくスーツに身を固めている。淡い黄色のスーツは渚によく似合っている。なのに何故だろう。渚の腰が随分と引けている気がするのだ。比喩ではない。実際に腰を少し曲げているのだ。
「渚お姉さま、どうされたのですか? お体の具合でも?」
見た目にも難しそうにソファに歩み寄った渚に奈月は心配顔で訊ねた。すると渚が慌てたように顔を上げて腰を真っ直ぐに伸ばしかける。だがまたすぐに渚は腰を曲げて困ったように笑った。
「い、いやあね! ちょっと作業中に腰を痛めてしまって」
ほほほ、と笑って渚は慌ただしく奈月の正面に腰掛けた。どうやら立ったり座ったりする分には痛むことはないようだ。
「渚お姉さま、治療術を施しましょうか?」
動く分には痛くないとは言っても、やはり腰を痛めたとなると渚も辛いだろう。奈月は心配してそう声をかけた。すると何故か渚が慌てたように両手を振る。
「いえ、いいのよ! ほら、たまには痛いことも経験しておかなきゃと思うし!」
もしかしたら渚は遠慮しているのだろうか。そんな風に考えた奈月は少し悲しくなった。だが嫌がるものを無理に治すことは出来ないし、何より水輝が以前、出来るからと言ってもすべて治していい訳ではないと言っていた。そのことを思い出して奈月は唇を引き結んで少し俯いた。
不意に隣に腰掛けていた翠が深々とため息をつく。
「気にするな、奈月。この娘は本当に好きでそうしているようだ」
突然、翠が喋ったことに驚いたのか、渚が唖然とした顔で目を見張る。奈月は不思議に感じて渚と翠とを見比べた。翠は黙ってじっと渚を見つめている。その手は奈月の服の裾をつかんだままだ。
「渚お姉さま、わたしがあさはかでした」
奈月は軽く頭をさげた。すると渚が焦ったように首を何度か横に振る。
「そんな、詫びないで頂戴。本当に私は好きで」
「紛らわしい」
渚の言葉を遮って翠がぼそりと言う。渚が困ったような顔をするのを見て、奈月は翠を見つめた。翠は相変わらずじっと渚を見ているだけで表情に特に変化はない。
「翠さん、何が紛らわしいのですか?」
意味がまるで判らず、奈月は不思議に思って翠にそう訊ねた。すると翠がしばし黙ってから奈月を見る。
「そこの娘は病気でも何でもないということだ」
「みっ、翠クン!? 紅茶は好きかしら!?」
淡々と言った翠の言葉を今度は渚が勢いよく遮る。すると部屋のドアがノックされ、一人の少女が姿を現した。失礼します、と部屋に入った少女が三人の前に紅茶を並べていく。最後にティポットをテーブルに置いて少女は静々と部屋を出て行った。
「む」
翠が目の前に置かれたティカップを見て小さな声を漏らす。カップに注がれた茶はとてもいい香りがしていて、部屋に満ちた甘い香りと混ざると何とも言えない暖かなものを感じる。
渚のいるこの部屋には、来た時から不思議な甘い香りがしている。例えるなら花の蜜のような香りだろうか。奈月はカップを引き寄せて部屋に満ちた甘い香りと紅茶の香りを同時に楽しんだ。
「そうだ、ちょうど良かったです。渚お姉さま、これを」
そう言いながら奈月はパンケーキの盛られた大きな皿を渚の方へ押した。すると渚がぱっと明るい表情になる。
「まあ! これ、奈月が作ったの?」
頂いてもいいかしら、と訊ねられて奈月は笑顔で頷いた。渚が嬉しそうに皿のラップを剥がしてソーサーに一枚ほどパンケーキを乗せる。
「ちょっと行儀が悪いかしら」
くすくすと笑って渚はソーサーを持ち上げて口許に寄せた。フォークの代わりに紅茶に添えてあったティスプーンでパンケーキをずらして口に入れる。
「ついでにシロップをかけるという手もあるな」
黙って紅茶をすすっていた翠がぼそりと言う。すると渚はぐっ、と喉の奥で変な声を出して慌てたように胸をとんとんと叩いた。どうやらパンケーキが喉につかえてしまったらしい。
「渚お姉さま!」
奈月は慌てて立ち上がり、渚に駆け寄った。背中をさすると渚がソーサーをテーブルに戻して急いで紅茶を飲む。そこで漸く落ち着いたのか、渚は大きな息を吐いて目許を拭った。
「ああ、びっくりした。大丈夫よ、奈月」
にっこりと笑って渚が頷く。するとまたそこで翠がぼそりと言った。
「蜜をかけると美味いのに」
「翠クン!? 紅茶のおかわりはいかが!?」
渚が引っくり返った声で言いながらティポットをつかむ。ティカップをのんびりと傾けていた翠は黙って首を横に振った。
「翠さんはメイプルシロップが好きなんですよ。渚お姉さまはどんなシロップがお好きですか?」
「えっ、あ、ええと」
戸惑った顔で渚が奈月と翠とを見比べる。それからほほほ、と笑って渚は空っぽになっていた自分のカップに紅茶を注いだ。
「そ、そうね。私はあまり強い甘さのものは好きではないから」
「それはそうだろうな。人に飲ませるのは好きそうだが」
勢いよく注がれた紅茶がカップの縁から盛り上がってテーブルに零れる。だが渚は手を傾けたままで声を裏返らせた。
「も、もう。翠クンたら一体なにを」
ほほほほほ、と笑う渚の手元を見つめて奈月は困惑した顔になった。
「そういえば、この部屋、甘い、蜜のような香りがしますね」
がしゃん、と耳障りな音を立ててティポットが落ちる。渚は慌てた声を上げて手を引っ込めた。無残に割れたカップとポットから紅茶が一気に零れる。奈月は慌てて立ち上がって拭くものがないかと周辺を探した。だがこの部屋には雑巾はなさそうだ。翠は知らん顔で紅茶をすすっている。
「や、やだわ! 私ったら……ごめんなさい、いま掃除をお願いするから」
漸く紅茶が零れていることに気付いたのか、そう言いながら渚がスーツのポケットから電話を取り出す。だが渚の手の中で携帯電話は何故か嫌な音を立てて壊れてしまった。
「渚お姉さま、わたしにまかせてください。水よ、我が掌の上に集え」
奈月は意識を研ぎ澄ませてゆっくりと言葉を紡いだ。すると奈月の手の中に零れた紅茶が集まってくる。奈月の差し伸べた両手の間で、丸い、球のような形になって紅茶が渦を巻く。
翠が無言でテーブルの上に手をかざす。すると映像が巻き戻るかのように、壊れていたティカップとポットの破片が元通りの形に戻った。唖然とした顔をして渚が奈月と翠とを見比べる。
「戻って」
微笑みを浮かべて奈月は両手の間で渦を巻く紅茶に囁きかけた。すると奈月の手の中で紅茶がゆっくりと小さな雫に変化する。次いで雫はふわりと漂って紅茶のカップとポットの中へと吸い込まれていった。
「ま、魔法……?」
渚が奈月の手を指差して呟く。
「あれ? 渚お姉さまの前では使ったことありませんでしたっけ?」
笑顔で告げて奈月は元通りに翠の横に腰掛けた。待ち構えていたかのように翠が奈月の服の裾を握る。
「なかったと、思うわ。い、いえ、でも奈月がその、力を使っていたのは知っていたけれど」
ぼそぼそと聞き取り難い声で渚が言う。それを聞いた奈月は翠が言っていたことを思い出してうっすらと頬を染めた。
「いつも、その、力を貸していただいて、ありがとうございます」
頭を下げた奈月の顔は無意識に真っ赤になっていた。渚が慌てたように手を振って首を横に振る。
「そんな、遠慮することはないのよ! むしろもっと使ってもらっても!」
「帰ろう。奈月」
唐突に翠がそう言って奈月の服を引っ張る。奈月は驚いた顔をして翠を見下ろした。翠は相変わらずの無表情だが、どことなく目が眠そうにしている気がする。
「ごめんなさい。渚お姉さま。そろそろ翠さんがおやすみの時間らしいので、失礼します」
そう言って奈月は翠の手を引いて立ち上がった。翠がしっかりと奈月に抱きつく。
「えっ、そんな! まだ来たばかりじゃない!」
困惑した面持ちをして渚が立ち上がりかける。だが渚はそこで何かを思い出したように慌ててソファに腰掛け直した。
「ごめんなさい。また、遊びにきますから」
にっこりと笑って奈月は翠に目配せをした。翠が頷いてちらりと渚を見やる。
渚は頭の中が大混乱しているのに、翠が的確に突っ込むのでさらにパニックになりました。