「ではまたな。金色の扉よ」
「ちょっ! ちょっと待って!」
翠色の力が膨らんで視界が弾ける直前、渚の悲鳴のような声が聞こえた。だが次の瞬間にはもう、奈月は翠と共に自分の部屋に戻っていた。
「翠さん、ちょっといろいろ回りすぎましたか?」
心配顔で翠を見つめて奈月はそう訊ねた。すると翠がぎゅっと奈月に抱きついて首を横に振る。時計を見ると、針はもう夜の九時をさしていた。
「風呂」
奈月に顔を押しつけたまま、翠がぼそりと言う。奈月は笑顔で頷いて翠の手を取ると歩き出した。部屋を出て浴室に向かう。
「翠さん、水着に着替えますからあっち向いててくださいね」
浴室の横に設えられた脱衣場で奈月はそう翠に声をかけた。無言で頷いた翠が素直に奈月に背を向ける。そのことを確認してから奈月はいそいそと服を脱ぎ始めた。フリルのたくさんついたエプロンドレスを脱ぎ、いつもの場所に置かれた籠の中から水着を取り上げる。手早く水着に着替えた奈月は翠に声をかけた。くるりとこちらを向いた翠が奈月を見上げて少しだけ目を細める。
「今日はビキニか」
淡々と告げた翠の服を奈月は慣れた手つきで脱がせ始めた。
「水輝さんに沢山買ってもらっちゃいましたから」
照れ隠しに笑みを浮かべて奈月はそう説明した。翠がむ、と呟いて何度か瞬きをする。服を脱がせた翠と手を繋いで奈月は浴室の扉を開けた。
湯気のこもった浴室は広々としている。早速翠がシャワーの前に立ってコックを捻る。奈月は長い髪をゴムで簡単に結わえてから、翠の髪を洗い始めた。翠は大人しく俯いてじっとしている。
「幼稚園では、お友達できましたか?」
「いや。皆、わたしを遠巻きにしている」
いつもと変わらない口調で答える翠を見つめ、奈月は少しの間だけ手を止めた。だがまたすぐに翠の頭をすすぎ始める。泡を綺麗に流してからリンスを手に取り、翠の髪に馴染ませていく。しばし無言でいた翠がまた口を開く。
「どうやらわたしのことが怖いらしい」
さっきのでは説明が足りないと思ったのか、翠がそんなことを言う。奈月は首を傾げて眉を寄せた。
「翠さんが?」
そんなことないのに。悲しみに目を潤ませて奈月は呟いた。翠は確かに子供にしては随分と大人びた喋り方をするが、だからと言って怖い訳ではない。ちゃんと話も出来る。そう考えながら奈月は静かに翠の髪を流した。濡れた髪を背に追い払って翠が顔を上げる。
「明日は奈月と一緒に学校に行く」
いきなりそう宣言して翠がバススツールにすとんと腰掛ける。奈月は驚きに目を見張って絶句した。だがすぐに思い直して微笑みを浮かべる。
「そうですね。翠さんなら、もう高校くらい通っても学力的にはぜんぜん問題ありませんし」
頷いて奈月はスポンジを取り上げて翠の身体を洗い始めた。翠は黙って奈月の言う通りに腕を上げたり立ち上がったりする。奈月は慣れた手つきで翠の身体を洗い終えた。
「見目が問題か」
ぽつりと呟いてから翠がその場に立ち上がる。奈月が不思議に思いながら首を傾げると翠は額に指をあてがって力を放った。幼い翠の姿がかき消え、次の瞬間、そこに桜の姿が現れる。
「これで問題はないだろう」
きっぱりと言い切った声は桜のものだ。奈月は何度か瞬きをして目の前に立つ桜の姿をした翠を見つめた。
「桜さんの代りに?」
「修復には時間がかかると氷龍神が言っていた」
驚いて目を見張った奈月に翠は淡々と説明をした。奈月はまじまじと翠を見つめてから首を傾げた。確かに翠が桜を真似ているのは判る。だが何故、股間にペニスが残っているのだろう。
「えっと、桜さんは女性ですから、その……あの」
目のやり場に困って奈月はさりげなく視線をずらした。子供の姿をした翠のペニスを見るのはそう気にならないのだが、こうして成長した姿の翠のものを直視するのは多少抵抗がある。例え身体が桜と似ていても、だ。
「ああ、生殖器が気になるのか」
事もなげに言って翠が股間に手を乗せる。瞬く間に翠の股間からは男性器が消えてしまった。翳りのない股間には女性器もない。奈月は恐る恐る目を戻してからそのことに仰天した。
「翠さんって本当に凄いんですね」
器をそんなふうに自由自在に変えるなんて……。奈月は感心してそう呟いた。すると翠が不思議そうに首を傾げる。
「容姿を変えることはさして難しいことではないが?」
そう言われて奈月は言葉に詰まった。もしかして出来ない方がおかしいのだろうか。だが、これまで奈月は自分の力で姿を変えたりしようと思ったことすらなかった。強いて言えば、髪や瞳の色を人に近い色に変えているくらいだろうか。
「そうなんですか? じゃあわたしも桜さんに! えいっ!」
意識を集中して奈月は桜の姿をイメージして身体の形を変えようと試みた。だが、奈月の意志とは裏腹に少しも身体の形は変わらない。身体についていた泡を綺麗に洗い流してから翠が奈月に近づく。
「力を抜け」
そう言うが早いか、翠は奈月の腕をつかんで引き寄せた。驚きに目を見張る奈月の唇を翠が素早く塞ぐ。一瞬、何が起こったのか理解出来ず、奈月は何度か瞬きをした。
「えぇっ? うそっ? 翠さん、凄いです!」
聞き慣れた声が浴室に響く。奈月は翠に口づけられた瞬間に水輝の姿に変わっていた。視点がいつもより高く、身体の感じがまるで違う。奈月は物珍しさから身体のあちこちを動かしてみた。
「って、この声で言ったら変ですね」
さっき自分の言ったことを思い出して奈月はえへん、と咳払いをした。翠は奈月の正面に立ってじっとしている。奈月は手近な鏡の前に膝をつき、映る水輝の顔を見つめた。
「奈月。元気か」
試しに水輝の口調を真似て言った奈月の目に涙が浮かぶ。思わず顔を手で覆った奈月の傍に翠が静かに膝をつく。慰めるように髪を撫でられて奈月は涙を拭って顔を上げた。
「ごめんなさい。ちょっと水輝さんがお忙しくて、あまり会えないだけなのに。わたしってば」
身体の力を抜いた奈月の姿が元に戻る。翠はそんな奈月の手を取って両手に包んだ。軽く手を叩かれると何故か気分が落ち着いてくる。もしかしたら翠が桜の姿をしているからかも知れない。
「ありがとうございます。もう大丈夫です」
にっこりと笑って奈月は翠に頷いてみせた。翠が頷いてからゆっくりと視線を下げる。つられて自分の格好を見下ろした奈月は慌てて腕で胸を隠した。水輝の姿に変わった時に消えてしまったからだろうか。水着がなくなってしまっている。
「み、翠さんっ! このことは水輝さんには、内緒にしてください!」
懸命に自分の身体を隠しながら奈月は真っ赤になって言った。
「む」
小声で呟いてから翠が頷く。奈月は情けなさに泣きたくなりながら胸を押さえて脱衣場に別の水着を取りに戻った。
翠が桜に変身しました!w
好き放題ですね、翠は……。