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煙草をふかしながら順は慎重に手を進めた。これを失敗すると全ては台無しになってしまう。緊張した指先に出来るだけ左右に動かないように力をこめ、順は煙草のフィルターを噛んだ。
じりじりと指が動く。順は額に汗を滲ませながら息を潜めた。ここから先が問題なのだ。順は息をぐっと詰めて指をゆっくりと引いた。
「あー!」
軽い音を立てて将棋の駒で作った山が崩れる。じっと将棋盤を見つめていた斎姫が嬉しそうに微笑む。順は情けない顔をして指に押さえた飛車の駒を睨みつけた。
「もっと根性を出せ!」
言いがかりと知りつつも順は飛車の駒にそう喚いた。部屋の一角にテーブルと椅子を据え、順は斎姫と向かい合わせに腰掛けていた。幾つかの駒を両手に握っていた斎姫がくすくすと笑う。
「また、わたしの勝ちですね」
にこやかに笑って斎姫が盤に手の中の駒を落とす。順は情けない顔をして泣き真似をした。
この硝子張りの部屋はティーサロンになっている。周囲を埋め尽くしているのは色とりどりのばらだ。庭師が丁寧に世話をしているばらはどれも綺麗に花開いている。順は拗ねた顔で椅子に深く寄りかかった。控えていたメイドが寄ってきて、二人のティカップに甘い香りのする紅茶を注ぐ。
「素敵なところですね」
そう言いながらどことなく憂いのある顔で斎姫が周囲を見回す。順はよれた煙草を灰皿に乗せてティカップを取り上げた。
「ココ? 都子のために作った場所だからね」
ばらで埋め尽くされたこのサロンで順と茶を飲むのが都子の常だった。順は静かな声でかつてここで微笑を浮かべていた妹のことを話した。
「しってます」
哀しげな微笑みを浮かべて斎姫がそっと言う。そう、と呟きで答えて順はふと近くの小さなばらを見やった。
妹の都子は順の手にかかって死んだ。その折、都子の精神は斎姫と共にいたのだ。今でも斎姫の中には都子の心の一片が取り込まれたままだ。順はばらを見つめて少しだけ笑った。
「ほら。あそこにちっちゃいばらがあるっしょ? あれねえ。都子が作ったんだよ」
都子の注文で庭師が作り出したばらは今でも綺麗な花を咲かせている。幾種類ものばらを掛け合わせて作られたその花に名はない。
「木村さんは、みや……」
そこまで言って斎姫が口を噤む。順はちらりと斎姫を見てからまたばらに目を戻した。緑色の美しい葉に囲まれたばらは鮮やかな赤い色をしている。
「ごめんなさい。なんでもありません」
「ごめんね。引っ張って来ちゃって」
言葉を濁した斎姫に順はさらりと告げた。ティカップを両手に包んだ斎姫が少しだけ俯く。
「都子さんは、あなたの事を、愛していらっしゃいました」
「うん」
順は頷いて斎姫に向き直った。斎姫はティカップを包む手を微かに震わせている。順はのんびりとカップを傾けながら苦い笑みを浮かべた。
いま、透の実験室には多輝や由梨佳、それに桜がいる。桜は相変わらず凍っているようだ。そしてあそこには奈月と翠もいる。順はそんな中から斎姫だけをここに引っ張ってきたのだ。
「ごめんなさい。わたしってば、何を言って……」
「オレはね。都子を愛していたよ。他の何も要らないくらい、都子が居ればそれだけでいいって思うくらい、愛していたよ」
順は苦い笑みを浮かべたまま、そう言った。すると斎姫が慌てたように顔を上げる。だがまたすぐに斎姫は視線を下げた。
「あの、それなら、どうして……?」
あんなことに。掠れた声でそう斎姫が呟く。順は遠いところを見つめて言葉を継いだ。
「生まれた時からずっとべったりくっついていて、都子から離れるくらいなら死んだ方がいいと思ってた」
幼い頃のことを思い出しながら順は微かに笑った。懐かしい思い出が鮮やかに胸の奥に蘇る。何も知らずに居られたあの頃のことを思うと、もしかしたらそのままでいた方が良かったのかも知れないとも思う。
「でも、違う道を歩まれたんですよね?」
「オレと都子はね。人の手で作られたんだよ。実験体だったの」
小声で言った斎姫に順はそう言って微笑んでみせた。
木村の実験場で生み出されたことを知った後、順は家から逃げ出した。都子が眠っている間に、一人きりで逃げたのだ。順は淡々とそう語った。斎姫は唇を引き結んで顔を歪めている。
「卑怯だよね。あれだけ愛してると思って、離れたら死んじゃうと思って、ホントに大事だと思ってたのに、オレは一人で先に逃げちゃったの」
はは、と乾いた声で笑って順は紅茶を啜った。
「それを言ったら、わたしなんか廃棄物の再生利用品ですから」
そう言って斎姫がにっこりと笑う。順は苦笑して話を続けた。
順が消えた後、都子がどうしていたのかを順自身は知らない。都子はそのことを語らずに死んでしまったからだ。だが都子が一人で苦しみに耐えていたことは容易に想像できる。実験体としては順は出来損ないだと研究者達に思われていた。だから彼らには成功体の都子さえ居れば順のことはどうでも良かったのだ。
一人で大学に通い始めた順はとある男と出会うことになる。そこまでを話してから順は遠い目をして呟いた。
「……どうしてかな。今ではあの頃のことがやけに嘘っぽく思えてね」
「今が充実してらっしゃるからじゃないですか?」
拗ねた口調で斎姫が言う。どうかな、と呟いて順は紅茶を啜った。空になった順のカップにメイドが静かに紅茶を注ぎ入れる。
「あの頃のオレは幸せだったよ。自分が実験体だってもう知ってたけど、それでも幸せだと感じてた。……都子への愛情が、少しずつ薄れて行ったにも関わらず、ね」
真顔で告げて順は手を伸ばして将棋の駒を取り上げた。一つずつ盤の端に立てて並べていく。
「なのに、どうして戻られたんですか?」
「……幸せは長く続かなかった。ほんのひと夏の、短い夢だった。オレは今でもあの頃のことは幻だったんじゃないかと思う」
一つずつ駒を並べながら順は静かに話を続けた。
「復讐しようと思ったんだ」
そう言って順は並べた一番端の駒の背を軽く指で突いた。すると軽い音を立てて駒が次々に倒れていく。
「復讐して、すっきりしましたか?」
静かな声で斎姫が言う。順は苦笑して再び駒を並べ始めた。
「木村の本家主催のパーティ会場で、オレは初めて意識して人を殺したよ。そこにいた連中をみーんな殺して、屋敷に残ってた連中も殺して」
そして木村財閥に残ったのは順と都子だけになった。部屋で必死で耳を塞いで震えていた都子を順は犯した。それまで積み重ねてきた鬱憤を晴らすかのように、何度も。そう話してから順は苦笑した。
「それでもオレの気は晴れなかった」
「都子さんはそれでもあなたの事を愛していました。踏み躙られて道具にされて、殺されても」
穏やかな微笑みを浮かべて斎姫が言う。うん、と頷いて順は小さく笑った。
「都子は健気だったよ。ホントにオレのことを好きだったんだろうね。人形になれって言った時も、素直に頷いたしね」
木村財閥の当主となった順は都子を戦う人形にした。そして順は龍神に戦いを挑んだのだ。
「わたしは幸せですね」
「都子に比べればね」
そう答えて順は並べた将棋の駒を倒した。軽い音を立てて駒が一つずつ倒れる様をじっと見つめる。
「違います。最初から人形だったから」
にっこりと斎姫が笑うのをしばし見つめてから順は将棋盤に目を戻した。
「斎姫ちゃん」
そう呼びかけながら順はまた駒を並べ始めた。一つ一つ同じ間隔で駒を並べていく。カップを傾けていた斎姫が首を傾げる。順は将棋盤を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「エッチ、しよっか」
そう言って順は目を上げた。
「優くんに許可をとってください」
「そっか。じゃ、無理かな」
そう呟いて順は静かに駒を盤に乗せた。黙って駒を並べる順を斎姫がじっと見つめる。
「都子さんは幸せでしたよ。どっちが幸せ、とか、そういう比較はできませんけど」
「そっかな」
囁きで返事をして順は手を止めた。それからまた駒を並べていく。斎姫はしばし順の手元をじっと見つめてから両手に包んでいたカップをそっとテーブルに乗せた。
「最期まで、とても幸せそうでした」
そう告げた斎姫の目にじわりと涙が浮かぶ。順は目を上げて斎姫を見つめた。堪えきれなくなったのか、斎姫の目から涙が零れる。ごめんね、と詫びて順はポケットから出したハンカチを差し出した。斎姫がそのハンカチで涙を拭く。
「ありがと」
ぽつりと呟いて順は紅茶を啜った。並べられた駒は盤の上で渦を巻いている。順は並ぶ駒の端を指でついた。渦の外から中に向かって駒が次々に倒れていく。
「ただ、人形になることを選ぶ前の、都子さんについてはわかりません」
わたしは生まれてからずっと、人形でしたから。そう続けて斎姫が鼻をすする。ハンカチを返そうとした斎姫に順はあげるよ、と苦笑した。
「人も龍神もハンターも魔も……人形も、そんなに違いはないと、思うけどね」
順はゆっくりとした口調で告げた。
「わたしには、想像もつきませんけど、木村さんがそう仰るのなら、そうかもしれませんね」
微笑を浮かべて斎姫が言う。そだね、と呟いて順は目を細めた。
屋敷が揺れる。サロンの片隅に控えていたメイドが小さな悲鳴を上げて手近なものにしがみつく。慌てたように斎姫が周囲を見回す。順はのんびりとカップを傾けながら、盤から零れ落ちる駒を目で追いかけた。立て続けに深い振動に襲われた屋敷が揺れ、低く不気味な音が足元から響く。
「地震!? いえ、違う」
真剣な表情をした斎姫が勢いよく立ち上がる。
「すみません、木村さん、失礼します!」
そう声を残した斎姫がサロンを駆け出して行く。順は左手に巻かれた腕時計に目を落とした。昼過ぎを差した時計を見つめて苦笑する。
「ま、幼稚園によっては昼寝の時間だわな」
そう呟いて順は悲鳴を上げるメイドに呑気に茶のおかわりを注文した。
都子というのは順の妹で故人です。