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身体の痛みに顔をしかめて優一郎はのろのろと身を起こした。どうやら気絶してしまっていたらしい。そのことに気付いて優一郎は慌てて周囲を見回した。だが檻はまだしっかりとあるし、それを挟んで鏡も置かれたままだ。
どうやらこの檻は内側からの力を遮断するようだ。優一郎は厳しい顔で自分を取り囲む檻をまじまじと見つめた。今は、休むしかないか。そう胸のうちで呟いて優一郎はソファに寝そべった。最初から寝ることを想定されていたのか、それともたまたまなのか、ソファには幾つものクッションが置かれている。優一郎は遠慮なくそれを頭の下に敷いた。
頭の後ろで手を組み合わせて天井を見つめる。高い天井にはシャンデリアがぶら下がっている。窓から差し込む光を反射してシャンデリアの飾りは煌いている。よく目を凝らすとシャンデリアに付いた幾つもの石は薄い色を帯びていた。淡く色んな色のついた石は、もしかしたら硝子玉ではなく本物の宝石なのだろうか。
落ち着いた深い茶色の色彩で統一された部屋の様子を優一郎はぐるりと見回した。暖炉では薪がはぜている。その暖炉の上には飾り皿が置かれている。部屋の隅には愛らしいぬいぐるみがある。寝そべったまま、あちこちを見た優一郎は首を傾げた。
どこかで、見たことがあるような……。声を出せない優一郎は唇の動きだけでそう呟いた。何故か判らないが、この部屋の様子に見覚えがある気がするのだ。優一郎は額を押さえて懸命に考えを巡らせた。目を閉じて考える優一郎の眉間に自然と皺が刻まれる。
薄くぼんやりとした何かが意識の隅に引っかかる。優一郎は注意深くそれを引き寄せた。寝て起きた後に忘れてしまった夢の残滓のようなそれをゆっくりとたぐる。
水輝さんと見たあの夢? 声なく呟いて優一郎は薄く目を開けた。ちょっとしたことで壊れて消えてしまいそうなほど儚い光景の中には幼い少女の姿があった。この部屋でぬいぐるみを両腕に抱えた少女が笑っている。その傍には見覚えのある姿があった。
立城さん。そう呟いた優一郎の意識からゆっくりと少女のいる光景が消えていく。幼い少女の頭を優しく撫でていた立城の姿が印象に強く残っている。優一郎は深い息を吐いてもう一度天井を仰いだ。
『やあ』
びくり、と身体を震わせた優一郎は慌ててソファの背もたれをつかんだ。転げそうになった身体を何とか支える。いつの間にか天井にはふわふわと一人の少年が浮かんでいた。檻の上にふわりと降り立った少年が微笑みを浮かべてしゃがみ込む。優一郎はソファにへばりついて何度か瞬きをした。
少年の頭には小さな角が二本生えている。柔らかそうな髪は美しい京紫をしている。瞳も同じ深い紫色だ。その少年がにこにこと笑って檻の中を覗きこんでいるのだ。
『まさか、僕が誰だかわからない?』
くすりと笑って少年が檻からふわりと浮き上がる。優一郎はまだ激しく脈打っている胸を押さえて深く息を吐いた。色だけではない。少年の顔立ちは幼いが、はっきりと立城の面影がある。
「たたた、たつ……」
少年の姿をした立城が指を唇の前に立ててみせる。優一郎は慌てて口を手で覆って声を飲み込んだ。そこで気付く。何故か声が出せるようになっている。
立城はふわりと宙を泳いで静かに檻の前に降り立った。だが鏡には立城の姿は映っていない。優一郎は口を押さえたまま、身体を起こしてソファに腰掛けた。
『きみには、本当に迷惑をかけるね』
申し訳なさそうな顔をして立城が言う。優一郎は口から手を下ろしてじっと立城を見つめた。立城はそこに立っている筈なのに何故か実感がない気がする。優一郎は黙ったまま、首を横に振った。確かに水輝に訳も判らないまま攻撃された挙句、こんなところに閉じ込められている意味も判らない。そのおかげでこうして皆と引き離されているのだ。だが優一郎はそのことを恨んではいなかった。きっと何か理由があるのだろう。そう思う。
立城が柔らかな微笑みを浮かべる。
『多輝が好き?』
さらりと訊ねた立城が首を傾げてみせる。ストレートに訊いたままの意味なのだろう。優一郎は黙ったまま深く頷いた。誰に訊かれても答えは同じだ。その意味をこめて強く頷いた優一郎に立城が微笑みを浮かべて頷き返す。
『変化のトリガーは、既に引かれてしまった』
ふと、笑みをおさめて立城が呟くように言う。優一郎は訝りの顔をして立城を見つめた。手を身体の後ろで組み合わせて、立城がゆっくりと鏡の前を歩き出す。だがその足はごく僅かにじゅうたんから浮き上がっている。
『苦しい道程が待っていると思うけど』
きみは僕さえも出し抜いて多輝をさらっていったんだから。そう続けて立城がちらりと横目に優一郎を見る。優一郎は困惑の面持ちをした。だが立城はまたすぐに正面を向いてゆっくりと歩く。
『きみはここをまやかしだと思うかい?』
そう訊ねて立城が足を止める。くるりと優一郎の方を向いた立城の顔には一片の笑みも浮かんでいなかった。優一郎は逡巡の後、頷いた。立城がふわりと浮き上がって鏡の方を向く。合わせた鏡の中には立城の姿はない。
『答えはすぐに出さなくていいよ。それじゃあ』
健闘を祈ってるから。そう声を残して立城が鏡に飛び込んでしまう。優一郎は目を見張って慌てて手を伸ばした。だが立城の姿は鏡の中であっという間に小さくなって見えなくなる。
不意に小さな音がする。優一郎ははっとして音のした方を見た。だが鏡の陰になっていて音源が見えない。ドアの開く音がして誰かが部屋に入ってくる。優一郎は息を潜めて身構えた。
「お食事をお持ち致しました」
深々と一礼してスーツ姿の男が檻の前に銀色のトレイを置く。優一郎は見覚えのある男の姿に絶句した。食事を置いたのは吉良瀬家の執事の和也だ。和也は恭しく優一郎の前に食事を置いた後、立ち上がって礼をした。それからちらりと鏡の方を見て苦笑する。
「重森さん。あなたは、いったい?」
小声で言った優一郎に和也は目を細めて唇に指を当て、しっ、と言った。慌てて口を手で覆ってから優一郎は周囲を見回した。檻に顔を寄せた和也が注意深く周辺を見回してからごく小さな声で言う。
「夜になるまで待て」
それから和也は身を起こして優雅に礼をした。
「それでは失礼致します」
慇懃に告げた後、和也は静かに部屋を去った。優一郎はソファを降りてその場にしゃがみ込んだ。檻の前に置かれたトレイには湯気の上る料理が乗った皿が何枚かある。だがトレイごと檻の中に引っ張ることは出来ない。仕方なく優一郎は檻の隙間から手を伸ばし、トレイの上のパンを取り上げた。
幽霊ぽく登場したかったのでしょう。きっと。