その《声》は、文字通りに天を歪めた。
千切れ飛ぶ小さな雲が点々とするだけの青空は、瞬く間に曇天へと様変わりした。鼠色の雲が太陽を隠し、ヘルゲンが薄闇に覆われる。
代わりに、雲から出てきたのは真っ赤に燃え盛る大きな岩だ。人の頭ほどはある岩石が、炎を纏って地上へいくつも降り注いでいる。その数は十や二十では足りない。まさしく雨のように降り注いでは、城砦のあちこちへと落下していた。
石造りの城壁は次々崩れ、木造の民家も容赦なく破壊されて火が燃え移っている。そして当然、被害は住民にも及んでいた。
焼ける家から上がる悲鳴、崩れる建物の下敷きになった誰かの断末魔。火石の直撃を受けて声を上げる間もなく息絶えた者達。
あっという間に、目に映っていた風景が一変していた。まるで
それを引き起こしたのは、他でもない、監視塔の頂から見下ろす黒き怪物だ。
ドラゴン。その見た目は翼を生やした爬虫類を、人の何倍も大きくさせたものと言えるだろう。だが深々と裂けた顎の間に鋭い牙が並び、体表は鱗に覆われている。何より、他の生き物にはない《声》がある。
この現実離れした惨状も、あの《声》が作り出したものだ。ドラゴンはその《声》を叫んだあと、翼を大きくはためかせ、監視塔から飛び上がる。
その間に、エイナルは広場の中央、処刑台へと辿り着いていた。足元ではリーリヤが寝かされた状態のままだった。そのすぐ近くに、黒頭巾をかぶった執行人が倒れている。彼は少女を斬る直前、ドラゴンが放った声に気圧されて崩れ落ちてしまったのだ。頭巾に覆われて見えないが、今は失神しているだけだろう。
しかし今、エイナルが優先するべきはリーリヤの方だった。
「おい! しっかりしろ、リーリヤ!」
「うっ……」
屈みこんだエイナルが少女の身体を揺らし、リーリヤは呻くような声を上げて、首だけを青年の方へ向けた。ぼんやりとした金の瞳が彼の姿を捉える。
「あ、エイナル……」
「気がついたなら立ち上がれ! 手ぇ貸してやるから!」
麻縄に束ねられた両手で、エイナルはリーリヤの腕を掴んだ。ほっそりとしているが、しなやかな筋肉に覆われた健康的な腕だ。彼に引き上げられるようにして、少女はゆっくりと立ち上がる。それからにへらと困惑した笑みを浮かべた。
「あはは……もしかして私達、助かった?」
「辛うじてなっ! こんなところでもたもたしてたら、どの道死ぬぞ!」
今こうして言葉を交わしている間も、二人の周りでいくつもの火石が落ちては爆ぜるように砕けている。まだ当たっていないのは奇跡としか言いようがないだろう。
「まずは脱出だ。急いでこの火の雨から逃れるんだ!」
そう言うと、エイナルが先導するように駆け出した。その後をリーリヤが追いかけ、二人は火の海の中を走った。
街中は炎に包まれ、逆上せるような熱気に肌を炙られているようだった。怒号と悲鳴が次から次へと飛び交って、耳がおかしくなりそうだった。見渡す限りに映るのは、逃げ惑う住民、勇敢にも剣と弓を手に取る兵士達、同じように斧を掴んだストームクロークの戦士達の姿だった。
今この瞬間、この場において彼らの脅威はたったの一つだけ。空を舞うドラゴンただ一匹だ。
「弓兵、隊列を組んで射撃体勢に移れ! 魔闘士、呪文は唱え間違えるなよ! 戦えない者達は砦の中へ入れ! 市民も囚人も関係ない、早くしろ!」
どこからか、インペリアルの将軍テュリウスの指示が聞こえた。彼の声に応えて、目に映る帝国軍の兵士達が、弓を手に並んでいく。上空を睨む彼らの前では、漆黒のドラゴンが宙に留まりながら壁内を睥睨していた。
リーリヤを連れて走るエイナルは、地上と空中の両者をチラリと見比べながら、行く手に向き直った。彼らがドラゴン相手にどこまでやれるかは知らないが、そのまま注意を引いてくれるなら好都合だ。
そんな甘い考えをかき消すように、鋭い《声》が響く。
『──“Fus Ro Dah”!』
「うっ……⁉」
「きゃっ……⁉」
雷がすぐそばに落ちたかのような、まさに圧倒的な《声》が後方から飛んできた。決して比喩などではない。身を引き裂くような突風が《声》と共に二人の背中を殴りつけたのだ。
その衝撃は逃げ去る二人を後ろから突き飛ばし、両手を縛られていた彼らは崩れたバランスを立て直すことも出来ずに転がる。
「ぃ、つ……!」
前につんのめって倒れたエイナルは、地面に体を打ちつけた痛みに顔をしかめた。同様に横たわっていたリーリヤからも呻き声が上がる。
一体何が起こったのか。疑問を浮かべる二人の眼前に、何かが落ちてきた。
ぐしゃ、と骨がひしゃげる音を響かせて地面に転がったのは、人間だった。革製の甲冑を身に纏った帝国兵。頭から地面に激突した彼は、どうやらそのまま息絶えたらしく、ピクリとも動かない。
「こいつ、どこから……⁈」
「もしかしなくても……さっき隊列を組んでた兵士さんじゃない?」
瞠目しながらも何とか立ち上がるエイナルに、同じく身を起こしたリーリヤが答える。
エイナル達が今いる場所から先程の弓兵隊の陣の位置まで、三〇歩以上の距離が開いていたはずだ。リーリヤの言うことが正しければ、目の前の遺体はそこから吹っ飛んで二人の頭上を飛び越えてきたことになる。
そんな馬鹿な、と思わず言いそうになる口を、エイナルは噤む。
先程聞こえた《声》と、それに伴って二人を押し飛ばした衝撃。それが一体どこから生じたものなのか。あの、今も上空を舞うドラゴンではないのか。だとすれば──距離を開けていた二人でさえよろめかせたのだ。間近に陣を敷いていた兵士たちなど、それこそ藁屑のように吹き飛ばしてしまえるだろう。
エイナルには心当たりがあった。声と共に引き起こされる不条理を。幼い頃に聞いた御伽噺、ほんの最近になって耳にしたあのウルフリックの噂話。ノルドの英雄達が使っていたという、伝説の──
ガン、とすぐ近くに火石が落ちてきた。爆ぜる熱の余波を浴びて、エイナルは思考に埋没しかかっていた意識を取り戻した。
物思いに耽っている場合ではない。今は一分一秒も惜しいのだ。
「……こっちに行こう。門があるはずだ」
エイナル達は再び走り出す。石造りの屋内にこもるか、城壁の外に逃げるか。この燃え盛る街から逃げ出す方法は二つだけだ。だが、降り注ぐ火石に砕かれる石壁の瓦礫があちこちに見える以上、屋内にこもるのが賢明とは思えない。目指すなら外だ。
二人は自分達を連行した馬車が利用していた入り口を目指し、走っていた。近づくにつれ、逃げる市民達の姿が周りに増えていく。彼らも同じ考えなのだ。
やがて、前方に出入り口の門が見えてくる。扉は開いていた。まだ無事だった。そこまでは、まだ火の手も回っていない。逃げられる、と誰もが希望を抱いた。エイナルやリーリヤだけでなく、他の生存者たちも、全員が。
それを押し潰すように、上空から漆黒の巨体が降りてくる。
ズン、と地を鳴らして門の前に降り立ったドラゴンは、向かいから走ってくる逃亡者たちに目を向けていた。
「そんな、何でこっちに来るんだ!」
「これじゃあ逃げられないわ!」
「逃げろ! こっちはマズい! とにかく逃げろぉッ!」
眼前に現れた災厄に、ヘルゲンの市民は泡を食って背を向け、逆方向へ逃げ出す。
「リーリヤ、俺達も……!」
エイナル達も足を止め、反対側へ逃げようとした、その時──
『──“Yol”』
またあの《声》だ。
ドラゴンの口が開いている。牙に縁取られた口蓋の奥から、大気を震わせるあの《声》が響いている。
『──“Toor”』
「エイナルっ!」
「っ、う……⁈」
突如、エイナルの横腹にリーリヤが渾身の体当たりをした。小柄と言うほどではないにせよ、少女の背丈はノルドの青年よりも頭一つ分は小さい。だというのに、彼女の当身はエイナルを大きく突き飛ばした。
その勢いに任せてリーリヤも地を蹴り、ドラゴンから見て右手側へと、二人一緒に地面へと再び転がる。
『──“Shul”‼』
次の瞬間、身体を重ね合わせて横たわる二人の背後を、炎の奔流が通り過ぎていく。それは黒きドラゴンの口から溢れ出ていた。、
「──ァァァァアアアアアアアアッッ⁈」
その炎の吐息の中から、先程背を向けていた市民たちの絶叫が聞こえてきた。間一髪で射線上から逃れた二人と違い、一塊になって逃げていた彼らは、纏めて膨大な熱の波に呑みこまれた。
鼻腔を焼くような高温の空気の中、焼けた肉と脂の匂いがムッと漂う。炎の赤が晴れると、人の形をした炭の塊が、いくつも地面に転がっているのが見えた。現実離れした、あまりに惨い死に様だった。
だが、他人事ではない。炎を吐き終えたドラゴンは今もまだ目と鼻の先だ。立ち上がる二人へと、烈火の如き赤い目がぎょろりと向けられる。
「くそっ……!」
「わ、わ、わっ」
ドラゴンの口がまた開く。エイナルとリーリヤは弾けるように駆け出し、すぐ近くにあった家屋へと飛び込んだ。
家屋とはいっても、屋根は倒壊し、瓦礫に溢れている。足の踏み場があるかも怪しい場所だったが、今は何より遮蔽物が欲しかった。
『──“Yol Toor Shul”‼』
ボウ、と再びドラゴンの口から炎の吐息が噴き出された。案の定二人を狙った噴炎が、半壊した民家の壁に阻まれる。
既にボロボロだった木造の家が真っ黒に炭化したが、中に入ったエイナル達に炎が届くことはない。二人は散らかる残骸に足を取られないよう注意して、しかし素早い足取りで家屋の中を突っ切り、反対側へと飛び出した。
「……! お前達!」
そこへ、一人の帝国兵が駆け寄ってくる。茶髪を長く伸ばしたノルドの青年、ハドバルだ。革の甲冑の上から、背に弓と矢筒を携え、右手には腰に佩いていた鉄製の長剣を握り締めている。
一瞬、こんな状況で自分達を捕らえに来たのかとエイナルは身構えたが、彼は手にした剣を向けることなく、穏やかな口調で話しかけてきた。
「生き残っててくれてたか! 無事でよかったよ」
「……ああ、アンタもご健在で」
「ご覧の通り、首はちゃんと繋がってまーす!」
火事場で昂揚したテンションに任せ、反応に困る冗談を口走るリーリヤ。ハドバルはそれに苦笑を浮かべながら、上空を睨んだ。
エイナル達を見失ったドラゴンは、その後再び空へ跳び上がったらしい。ハドバルの睨む先では、砦のあちこちから放たれる矢や魔法の焔を掻い潜り、鱗に覆われた身体であしらう怪物の姿があった。
「……現時点での俺の任務は、避難民の救助だ。将軍からはとにかく人命第一と言われている。付いて来てくれ、安全な場所まで案内しよう」
「……いいのか? 反乱軍の逃亡幇助って事になるんじゃ……」
「お前らの名前を書いたリストのことか? あれなら向こうの空にいる長虫に焼かれちまったよ」
渇いた笑い声を上げながら、ハドバルは言った。真相はどうであれ、この場を切り抜ければ二人の罪を追及する物証はないということらしい。
「ホント⁉ じゃあお願い!」
威勢よく承諾したのはリーリヤだ。エイナルもそれに続いて頭を下げる。
「悪いが頼む」
「任せてくれ。俺なりのせめてもの、って奴さ」
快く頷きながら、ハドバルはいの一番に走り出した。二人はその後を追う。進んだ先には先程のとは別の城門があったが、こちらは周りの瓦礫に阻まれて行ける状態にない。直接外に出る方法は取れないらしかった。
「砦の中に入ろう。緊急用に地下洞窟へ繋がる通路が作られてたはずだ」
「そ、それ、進んでる最中に私達ぺしゃんこにされたりしない?」
「可能性はあるが、少なくとも焼き殺される心配はなくなるぜ」
そう主張するハドバルに従い、砦の方へ行き先を変える。だがそこで、もう一人の男と再会した。
「レイロフ⁉」
驚きと共にその名を呼んだのはハドバルだ。彼ら三人の向かい側からは、見覚えのある金髪碧眼のノルドが、何人かのストームクローク兵と共に駆け寄ってくる。いつの間にか両手の拘束を解いたようで、手には斧を握り締めていた。
「これはこれは、お利口さんのハドバル君じゃないか」
「お前、ここに来て邪魔するつもりじゃないだろうな……!」
ストームクローク達の手にある得物を睨みながら、ハドバルは自身の剣を強く握りしめる。だがその懸念をレイロフは鼻で笑った。
「まさか──ウルフリック首長の身の安全は確保できた。俺達もずらからせてもらう。そっちこそ、止める気はないよな?」
「ああ好きにしろ! もう貴様を同郷と見るつもりはないからな! 今日を最後に、二度と俺にその面を見せるんじゃない!」
激昂のままにハドバルは叫び、踵を返して砦の入り口へと走っていく。レイロフはチラリとハドバルを気にしながらも、彼の後ろにいたエイナルとリーリヤに顔を向けた。
「さっきぶりだな、お二人さん。アンタら、こっちについてくる気はないか?」
「それは……ハドバルかレイロフ、アンタを選べって話か?」
エイナルがはっきりと口にすると、レイロフは「そうだ」と首肯した。
「俺はどちらでも構わん。だが、砦ん中には俺以外のストームクロークが既に入っている。ハドバルについていくなら、屈強なるノルドの戦士と刃を交えることを、覚悟しなきゃいけないぜ」
「だが、アンタについていけば今度は待ち構える帝国兵を薙ぎ倒していかなきゃならないんだろ?」
城砦内が既に帝国兵とストームクロークで入り乱れているなら、どちらかに肩入れしなければならない。ハドバルと共にストームクロークを退けるか、レイロフと共に帝国兵の猛攻を掻い潜るか。どちらにしても面白くない話だ。
「二人とも! 何をしてるんだ!」
遠くから、ハドバルの呼ぶ声が聞こえる。彼は既に入り口の扉の前に立っていた。
ストームクロークの名簿が焼き払われているなら、どちらについていくにしてもヘルゲンで起こった事はうやむやになるだろう。だからこれは本当にただの選択だ。彼らとは脱出するまでの関係でしかないのだから。
だが、エイナルにはどちらを選ぶことも出来ない。何かを決めることも、何かを捨てることも。そういう選択の機会を、青年は今日まで避け続けてきた。それが彼の生き方だった。
「…………俺は──」
「ごめん、レイロフさん。私達、ハドバルさんに着いていくね」
そう答えたのは、エイナルの後ろに立っていたリーリヤだ。彼女はあっさりとした口調で、しかもエイナルを巻き添えにして、レイロフに言ったのだ。
レイロフは残念そうに、しかし大して悲壮感も抱かず笑って言う。
「そうか。ちょっぴり残念だが、ま、精々生き残ってくれ。いつかまた会おう!」
「うん、またいつか! ……ほらエイナル、行こっ」
「お、おう……」
去っていくレイロフを見送ることもせず、リーリヤは青年を催促するようにグイグイと肩を当ててくる。呆気に取られていたエイナルはそれに押されるがまま、入り口に立つハドバルの下へと走り出した。