第8章【暁に踊る迷子たち】の幕間。
「君は僕に『人は自己の喪失を恐れる』と言ったね」
ルゼさんがコーヒーカップをこちらに差し出しながら尋ねる。
「僕もそう理解している。輪廻転生が約束されたこの世界では人格こそが存在の主体だからね」
……絵になる人だ。
とてもこの人がレベルⅥスパイラル“深淵のゼルプスト”の端末だとは思えない。
「それなのに君は望んで破滅しようとしている。彼の復活が君の存在の喪失に繋がると理解した上でだ。それは矛盾していないかな?」
「いいえ、矛盾していません」
私がそう答えると、彼は目を輝かせながらテーブルに身を乗り出してきた。
「何故だい?」
「先生を負の輪廻から現世に連れ戻すことが私にとって最も大切なことだからです」
「自分が自分でなくなることよりも?」
「はい」
「実に興味深い!」
膝を打つルゼさんの姿は本当に楽しそうだ。
彼がスパイラルであることを一瞬忘れそうになる。
「主様」
後ろに控えていたサタナさんが小さく窘めた。
その様子は、まるで小さな子供と母親のようにも見える。
「サタナ、君には分かるかい?」
「あー……たまに居ますよね。信仰に魂を捧げて疑わない人。相手と自分の境界が曖昧というか」
前にも似たようなことを言われたことがあった気がする。
あれは、ウーシアさんだったかな。
「自分の存在意義を相手に委ねてしまうと自己犠牲が当然になっちゃうんですよ。自分より大切なものに奉仕するのは当たり前ですから」
「なるほど」
「……絶対分かってないですよね?」
先生がこの世に戻って来れば、きっと世界の真理を解き明かしてくれる。
それに協力できた私も、先生の偉業の中に永遠に残り続けるはず。
(ルゼさんにはそれが分からないんだろうか)
そう考えている間にも二人のやり取りは止まらない。
「根源の恐怖を乗り越えるための人類の飛躍のひとつだと思うんだけど、サタナは違うのかい?」
「ちーがーいーまーすー。そんなのは飛躍でも何でもありません、ただの思考停止ですよ」
いつもと違って今日のサタナさんは饒舌だ。
この話題の何が彼女の琴線に触れたんだろう。
「主様とカルマさんは似てますよね」
サタナさんが溜め息をつく。
「そうかな?」
「そうですよ。あの男を模倣した割には唯我独尊じゃないんですから」
「話が読めないな」
「自分だけで完結してないってことです。だからカルマさんが気になるんですよ」
彼女がこちらに向き直る。
「『無償の愛』とか言うと、さも素晴らしいもののように聞こえますけどね。自分の人生なのに、わざわざ脇役になるなんてバカバカしいとは思いませんか?」
「私は……」
自分の意思で先生と入れ替わるのに、どうして“脇役”なんだろうか。
「いくら尽くしたところで自分は自分、相手は相手です。何も残らない人生なんて虚しいだけですよ」
「サタナさんも、そうなんですか?」
どこか自嘲気味な彼女の言葉に、つい反応してしまう。
「あー……まあ、そうかもしれませんね」
「そうなのかい、サタナ?」
「主様は黙っててくれませんか」
ルゼさんを黙らせて彼女が続ける。
「誰かに覚えていて貰うために死ぬなんて本末転倒だと思いますけどね」
「でも、そうしないと私は先生と一緒に居られなくなってしまう」
「相手がずっと覚えててくれるなんて幻想ですよ。時間が経ったら何もかも忘れてしまいます。それに……」
一瞬だけサタナさんの視線がルゼさんを捉える。
「……付き合わされる方の気持ちも少しは考えて欲しいですね」
結局私もルゼさんも、サタナさんが何に怒っていたのか最後まで分からなかった。
例えこの世から消えても誰かの心に痕を残したいというのは、そんなにおかしなことだろうか。