ARIA A SECRET SCHOOL DAYS 作:真夜中のミネルヴァ
ちょっと辛いエピソードを
短編読切として、こちらとは別の18禁枠に上げましたが
今週は本線に立ち帰ります
前話より少し後のお話で
盗撮事件が解決した後のちょっと静かなひとときのエピソードです
ヒーリングストーリーになるかどうかはわかりませんが
エロ要素はありません
十六月二十九日、午後三時過ぎ、サンマルコ広場――。
アキトはしばしば広場で主に観光客相手の大道似顔絵描きの小遣い稼ぎをしているが、その日も彼が展げた
歳は二十代後半、アッシュブラウンの髪をセミロングにしたスラリとしたシルエット、エレガントな鍔広の帽子をハスに被り、夏らしい淡い色合いのノースリーブのワンピースを身につけて、ウエストのベルトでメリハリのあるボディラインをさりげなく印象づけている。
AQUA基準からしても相当の美女である。
「あらずいぶん可愛らしいお絵描きさんね、ひとつお願いしてもいいかしら?」
「ええ、どうぞ、ではその簡易椅子にお掛けいただけますか? あまり座り心地は良くないと思いますけれど、ほんの十分ほどの間だけご辛抱していただいて、お代は出来上がりをご覧になって気に入っていただけてからで結構です。十クレジットになりますがよろしいですか?」
どこかで聞き覚えのある声だと思いながら少年はいつもの口上を唱えると、客の顔を見上げて目を丸くする。
「あ――」
「やっぱり……貴方だったのね……」
「あの……」
「お元気そうでなによりよ」
美女は帽子を取ると素顔を表にした。
「えーと……アニータさんこそ……」
アキトは言い淀んでいたが、
「こちらには、観光ですか……?」
さりげなく周囲に目をやって、まわりに人がいないのを確かめると、あたりさわりのないところから話の接ぎ穂を探っていた。
何を言ったらいいか、口にするべきか、控えるべきかを思案しながら。
「ええ、まぁそんなところよ……でも……」
「おひとりで?」
「ええ――」
少年はまた目を丸くする。
「アニータさんみたいに若くて綺麗な女の人が一人旅をするのって……」
「まぁお上手ね……でもあなたのガールフレンドには遠く及ばないでしょ」
「――!――」
アキトは刹那、胸を突かれた形になったが、表情を変えたのは一瞬で、すぐに普段通りの顔に戻って木炭を手にすると、手にした木炭紙のスケッチブックに相手の顔をスラスラと描き始める。
腕の振りは大きくなめらか、指先の動きは素早いが繊細にして正確、実に手慣れた様子である。
「本当に綺麗な子ね、アリシアさんって、あたしもすっかりファンになってしまったわ」
「そうですね……」
「あなたが大切に思うのもよくわかるわ」
「ええ……誰よりも大切なひとです……彼女のためならボクはどんなことでもするし、死ぬことだって怖くない……ただあの人を失うことがなによりも恐ろしい……」
てっきり否定するかと思っていた少年が衒いを見せずに認めたことで、相手の覚悟を感じるのだった。
「心配しないで、そのことは他の誰にも言うつもりはないから」
「わかっています――」
アキトはまっすぐに相手の目を見て告げるのだった。
「まったく、かなわないわね……坊やだと思っていたのに、なんでもお見通しってわけね。彼女があなたに惹かれたのもわかるような気がする」
「あまり買いかぶらないで下さい。ボクはただの貧しい一介の画学生なんですから」
「まぁそういうことにしておいてあげるわ――」
AQUAを訪れたアニータはアキトのことを探していたらしく、ネオ・ヴェネチア付近にはミッドスクールに相当する美術学校が一つしかなかったこともあって割と容易に姿を見かけたのだという。
「……ただ、いきなり学校や寮に押しかけたら、きっと困るだろうと思って。だから、あなたがこの広場で似顔絵書きのお小遣い稼ぎをしているとわかってからは、話しかける機会を窺っていたの……迷惑だった?」
少年はかまいませんよ、というように鷹揚に首を横に振る。
言葉を交わしながらも、視線は素早く手はこまめに動いて、白い紙の上にはみる間に美女の顔が浮かび上がってくる。やや斜め前からとらえた、相手のもっとも美しく見えるアングルで描かれた女の顔が。
背景にも手を加えて、そこはかとない晩夏の季節感を映して、一人旅をする美女の心模様さえもが偲ばれる仕上がり具合は、とても十分あまりで描かれたとは思えないほどの完成度の高さだった。
その出来栄えの見事さにはアニータも息を呑む。
「これが……あたし……?! あたし、こんなに美人だったかしら?」
「ボクの目にはそう映りましたけど……」
「まぁ――」
褒められたように感じてアニータは嫋やかに微笑むと、
「そうやって彼女を口説くきっかけをつくったの?」
「そんな、口説くだなんて……ボクはただの信者の一人に過ぎないので……」
「信者ねぇ……麗しい女神さまの肌着のケアまでする信者さん? まぁいいわ」
口にしてから、ちょっと意地悪だったと思って、
「ごめんなさい……」
「いいえ、かまいません。あの……もしも気に入っていただけなければお代はけっこうですので、そのままお持ちになっていただいていいですよ……」
「冗談じゃないっ、払うわっ、十クレジットだって安すぎるくらいよっ、えーと、こちらはキャッシュ? それとも……」
「どちらでも大丈夫です、ユニバーサルクレジットでも――」
「あなた、絵描きとして“も”、とっても凄かったのねっ」
も――と、いうところが何を意味しているのかは深く追求しないことにして、アキトは差し出された十ユニバ紙幣を受け取る。
描かれた木炭デッサンには定着液を吹きかけて、クリアファイルの中に挟むと
「ありがとうございます」
差し出した。
「ねぇ、可愛いらしいお絵描きさん……お名前を伺ってもいいかしら?」
「あれ、ボク、アニータさんの名前は知っているのに、自分の方はまだ言っていませんでしたっけ?」
なんとなく顔見知りの印象で名乗りを済ませていたつもりだったが、実のところは互いにそれぞれの場で立場を代えて、客として接点があっただけなのだった。
アキトも相手のネームプレートからファーストネームを覚えていたが、フルネームまで知っているわけではない。
「あたし、アニータ・ローウェルよ……」
言いながら女はネームカードを取り出してアキトに手渡した。
「ボクは柊アキトです、アキトの方がファーストネームで……ボク、名刺なんてまだ持ってないから……」
「いいのよ、そんなものなくても……へぇー、アキトくんって言うんだ、あなた」
「おかしいですか?」
「違うの、ずっと気になっていたから……去年、空港で会って以来、あなたのことが……」
「あの時は、とてもいろいろとサービスをしていただいてありがとうございました……おかげで……」
少年は言いかけてから口ごもる。
後で気がついたのだが、アリシアの土産として買ったブラジャーの他にもアニータは他に何枚もの肌着をプレゼントしてくれていて、あの日――アリシア身につけていたのは上下どちらもヴィクシーズブランドのものなのだった。
その影響かどうかは未確認だが、ともかく事実としてヴィクシーズ・スウィートのブラとショーツを身につけていたことで、ギリギリのところでアリシアはフルヌードスキャンのハードコアな被害からは免れることができたのだ。
それゆえ少年は件の騒ぎ以降、いっそうアニータには恩義を感じていたし、何か見返りをしなければとも思ってはいたのだが、一方でアリシアのフィアンセとしては当面、素性を隠さざるを得ない現状、いったいどうしたものかと思案をするうちに徒らに時ばかりが経っていた。
こうした中でのアニータの登場は、なにぶん唐突で、急場だったもので何をしたらよいかは分からずにいたのだ。
ただ、見習い絵師のデッサンなどではとうてい見合わないことぐらいは理解していた。
女の方も逡巡を見せる少年のワケを察して
「あの、勘違いしないでね、あなたが彼女の恋人だからって、恩着せがましくするつもりなんてこれっぽっちもないの……」
少年は深く頷く。
「いいえ、ボクもかねがね、アニータさんにはお礼をしなければと思っていたので……」
「お礼だなんて……」
「ただ……」
切り出しにくそうにしているアニータの様子は少年には好ましく映る。
アリシアもしばしばそんな容子になるが、美女は控えめな態度を見せる時の方が男の目にはより美しく映るのは、か弱きものを庇護したいという雄の遺伝子の仕掛けなのかもしれなかった。
「……あの事件の後、会社の方でも独自に調査をしていて、それで97年の春ものの中に全身スキャナーの阻害効果を持つ商品がいくつかあったのが判ったらしいの……本部から来た統括マネージャーさんの話では、使っている繊維の金属イオンがどうとかって言っていたけど詳しいことまでは私にはわからない……けど、その中に……」
「あの時にいただいた物も含まれていたのですね?」
「ええ……」
「やっぱり……」
「あそこまで完全にカバーできたわけではなくて、原因については今も調査中ということだったけど……でもそれで、あなたのことを思い出したわけ」
たとえ金属でもアルミ箔程度の薄いフィルムなら透過できるというフルヌードスキャナーが、繊維分子にぶら下がった金属原子程度でどうにかできるというのも不思議な話ではあったが、いくつかの偶然の要素が重なると、あのような幸運が舞い込むのかもしれないと少年は思う。
「……アリシアさん、気丈にしてはいてもやっぱりショックだったらしくて……ボクも当然ショックでした……だから今にして思うのは、あのときもしもいただいた肌着を身につけていなかったらと……ひとつ間違うと本当に取り返しのつかない事態になるところでしたから……アニータさんには感謝しかありません」
「そんな……感謝だなんて……あたし、何もしてはいないのに……」
「ただお返しをしたくても、ご覧の通りの貧乏中学生にできることなんてしれてますから……」
アキトが自虐的に言うと、アニータは苦笑する。
「あたしの目には世界一のお金持ちよりも豊かに見えるわ……」
「毎月、月初めになると少額の奨学金の振り込みを今か今かと待ち望んで汲々として、クラスメイトとの付き合いだって財布と相談しなければならない毎日を送っているボクのどこが豊かだって言うんですか?」
「でも世界一の彼女が居て、才能にも恵まれて、やりたいことが何でもできる……誰もが羨む人生よ」
「それは、ただ運が良かっただけで……」
「運も実力のうち――知ってるでしょ、この言葉、あたしと同郷なんだから」
「でも身に余り過ぎた幸運は不安になるものでもあるんです……いつか揺り戻しがあるんじゃないかって……ボクはどうなっても構わなくても、それが彼女にまで及ぶとしたらとても堪えられない……今度のことはそれを考える機会となりました……」
アキトが言うとアニータは大きなため息をつく。
「あなた、いったいいくつ? たしか十五歳だったかしら? そのくらいの年の男の子って、たいがい何も考えずにバカなことをやって、つまんないことで虚勢を張ってぶつかったり、羽目を外して大人たちをハラハラさせるものなのに……」
「それって男の性みたいなもので、年を重ねてもあまり変わらないと思いますけど……」
「言うわねぇ……」
「ボクはただ……あの人を守らなくてはいけないから……彼女がより良い人生を生きられるように……」
「その年でもうお姫さまを守るナイトになろうっていうの……?」
「だからボクはただの信者です……」
しばし無言になって見つめ合う。
「降参よ――」
アニータは両手を顔の横に挙げて見せた。
「でも、これではっきり解ったわ……いい男っていうのは、いい女がつくるものだってことが……」
「そういうことは地元にいる時に聞きたかったなぁ……女子たちからは、いつも貧乏なダサい格好をしていたから、イケズのアキトでケズトってからかわれていたのに」
アキトはボヤく。
小柄で目立ちにくいアキトは印象も希薄なのか、女子たちから特に関心を向けられることもなく、たまに聞こえてくるのは大雑把な身なりを揶揄する陰口ぐらいでアプローチされることも稀だった。
ただ陰口ぐらいなら実害を伴わないのでそれはそれで良かったのだが、大切な画材を隠されたり、描いていた絵を晒しものにされたりとイタズラが過ぎると話は変わってくる。
「へーえ、聡明なアキトくんでも気づかないことがあるんだぁ」
そうした事情を知るわけもなく、アニータはわけ知り顔で言った。
「なんですか、いきなり」
「ガールフレンドひとり居なかったっていうの? まさかよね」
「いませんでしたよ――」
「ウソでしょ」
「はっきり言いますけど、ボク、モテ牡ではありませんから、その自覚もありますし」
たしかにクラスメイトに気になる女子が誰もいなかったと言えば嘘になるが、だからといってアキトの方から接近をはかろうというつもりもなかったのだった。
万が一、倍率の高い女子だったりした場合、教室内に余計な軋轢を生むことになるのが煩わしかったし、第一、お世辞にも経済的に恵まれているとは言えない中、画材等を揃えるのに一杯一杯で、とてもデートなどの遊興費に回す余裕などなかったのだ。
「だってあなたぐらいの歳の女の子はね、気になる異性の気を惹こうとして、かえって意地悪したりしたくなるものなのよ」
「それって、恐喝の現場をおさえられた不良が、ただじゃれてるだけっスよってイイワケするのと変わらないという意味で言われているのでしたら同意しますけど」
少年のまぜっ返しにアニータが快活に声を上げて笑い、やがて真顔になると、
「ホント、いい男って、年齢は関係ないのね……」
「それは女性も同じだと思いますよ」
「きいてよ、あたしなんてAQUAの
「これは樹脂製の玩具のリングですっ」
その下にはアリシアと交わした本物のリングが隠してあった――。
「へーえ……」
疑り深そうな一瞥をくれてから、そのことに気づいてか
「ま、そういうことにしておいてあげるわ」
「きっとアニータさん、理想が高いんですね」
「理想が高いですって!? わたしの条件なんてたった二つしかないのに」
「二つ? 高身長に高学歴ですか? それとも高収入? 全部、ボクには手も届かない――」
アニータは盛大に顔を横に振る。
「じゃあ……?」
「あたしの条件はね、まず一つ目は男であること――」
「は?」
「これは絶対に譲れないわね」
真剣な顔つきでキッパリ。
「はぁ……」
「それから二つ目は……仕事を持っていることっ」
アニータのジョークに
「それは望みが高過ぎるのかもしれませんね。ボクの彼女は今の二つのうちの一つしか満たされていないのに、しぶしぶ妥協して受け容れているんですから」
アキトもジョークでお返しをして、無理も無いとばかりに悲しげに首を振る。
「まったく喰えない男ねぇ、アキトくんは……」
微笑んだ。
アキトが描いた絵のままの、どこか陰りのある大人の女の顔になって。
「ごめんなさい、無駄話をしてしまって、すっかりお仕事の邪魔をしてしまったわね」
「かまいませんよ、どうせお客さんはいませんから」
アキトはぐるりと周囲に目をやって、シエスタ開けの広場のまばらな人影を確かめた。
「わざわざ子供の大道芸に付き合って投げ銭していくような、奇特でお人好しのカモはそうそう居るものじゃない」
「じゃあカモになりついでに、その言葉に甘えてもう少しだけ……いいかしら?」
持ちかけられてアキトもこっくり頷いた。
「ありがとう……」
「さっきボクを探していたと言われていたので、きっと何かご用があるのかなって」
「そう言ってもらえると助かるわ」
アニータ・ローウェルの願いというのは、アリシアと面会をしたいということだった。
当初、彼女はアリシアを自社製品の宣伝のためのモデルに、と思っていたようだったが、さすがに“国宝”として登録された今は国の承認がおりないだろうというので、せめてアリシアが自社製品の愛用者であることを客に伝えてもいいか、という確認をしたかったのだという。
恐らくそれに対しても国からの承諾をとる必要があるだろうが、もしもアリシアが認めているのだとすれば許可されるのではないかと期待しているらしかった。
画像、映像、音声などいっさい使用しないのであれば、国が管理する肖像権等の権利を侵害することにはならないのではないかとも言い、アキトもそう思うのだが、いずれにしてもスジを通すべきところに通しておかないと、後々、いろいろとトラブルになりかねないので丁寧に話を進めることには賛成したのだ。
アリシアとの面会についても、実際、希望者が今も引も切らないのが現状らしく、公式な手続きを辿ると通常なら何ヶ月も先のことになりそうで、とてもそこまで滞在することができないという。
それを回避するとなると当然、非公式、プライベートなルートになり、整理にあたる協会や国の顔を潰さない形でとまでを考えると、どうしてもアリシアの側に動いてもらわなければならず、そのためにフィアンセとして骨折ってもらえないかというのだ。
アキトの回答は、面会は難しいかもしれないが事情は必ずアリシアに伝え、彼女の口から協会と国への確認を行なったのち、文書にして直接、千葉シティの店の方に返信を送るというのではどうか? というものだった。これなら恐らく希望に添った形を取れるのではないかと思うと。
アニータもそれで納得して、彼女は足取りも軽く去って行ったのだった。
落着――。
アキトもアニータへの恩の半返しぐらいはできたと思い、ちょっぴり気持ちも軽くなっていた。
ピン札の十クレジットが二枚!――アニータはチップだと言って、もう一枚、十クレジット紙幣を押し付けて行ってくれたのだ。アキトは固辞したが、今の話とは全く無関係に、綺麗に描いてくれたお礼だと言われては受け取るしかなかった――もありがたく、久しぶりにファーストフードでセットメニューを頼めると頬を緩ませて、今日のところはもう客も来そうにないから引き上げるかと、ルンルン気分で茣蓙を丸めようとしていたその時である。
背中から――。
「ねぇ、今の綺麗な女の人、ダレ――?」
「でっかい、ずいぶん、仲良さげでした――」
「アキトくんのお知り合いですか?」
「ひぇっ――!?」
真夏の午後だというのに背中に冷気を感じて、恐る恐る後ろを振り返ると、赤、青、黄色、信号機のように三人の新星プリマが並んで見下ろしているのだった。
AパートでBパートがもう少しあるのですが……