ARIA A SECRET SCHOOL DAYS 作:真夜中のミネルヴァ
愛澤彪樹はいつも隙なく身綺麗にした背の高いスマートな紳士で、高い知性と教養を備えた社会的地位もある大人の男性だった。
年齢は確か三十代半ばだったと思う。
ゴンドラ協会への大口の出資法人のひとつ、マンホームの大手旅行代理店ネプチューンコーポレーションのAQUA支店長で域内にある同社全ての支社、支店を統括する本社直属のGMとして、協会の理事にも加わっていた。
非の打ちどころのない立派なキャリアのトップエリートという触れ込みだったが、事件後になって知った実際の顔はそれを遥かに凌ぐものだった。
地球圏屈指の巨大コングロマリット、
自分たちのようなごく普通の庶民が生涯、接点を持つことなどない特別な世界の住人で、とても辺境惑星の田舎町で旅行代理店長職に収まるような人物ではなかった。
本来であれば地球圏全体の経済、ひいてはそこに暮らす幾千万、幾億もの人々の生活にも影響を及ぼしうる立場にある要人だったのだ。
だがいまアリシアが目にしている男はそうした重責を担うべき器量も品性も欠けているように映る。
重要なものが育たないままに歳を重ねたような情緒の不安定さ、幼児性を。
ムスッとした不機嫌な顔をしていたかと思うと次の瞬間には満足した猫のようにニンマリとして気味の悪い含み笑いをみせる。
感情の振れ幅、振幅の大きさが分裂的で病的だった。
本当にどこかおかしいのではないかと疑いたくなるくらいに。
「僕をそんな目でみるな――」
こちらの態度が気に障ったのか顔色を変えた愛澤が長椅子からむっくり身を起こし、アリシアは半歩後ずさる。
「多少語学ができるぐらいで思い上がるなよっ、中卒のゴンドラ漕ぎ風情がっ」
「ええ、愛澤さんのおっしゃるとおりです、あたしは他にはなんの取り柄もない、ただのウンディーネですから……」
「きみには何度も機会を与えてやったのに、素直に応じないからこうするしかなくなったんだ……僕もこんなやり方、したくはなかったんだが……」
「………」
「おまけに裏ではつまらない男と関係を結んでいたなんて、可愛い顔をしてとんだ尻軽女だった――」
愛澤彪樹が協会理事であったころは、アリシアが理事になる以前から何度か食事の誘いを受けたこともあって、彼女はそれをやんわりと、しかしきちんと断り続けていた。
愛澤の方もそれを受けて残念そうな顔になりこそすれ、それ以上は強いて求められることなく逆にアリシアの方が申し訳なく感じるほどあっさり引き下がって、それでいつも話は終わるのだった。
#どうしてあんなに条件の揃った素敵な男性を袖にするのかしら? さすがアリシアさんはよっぽど理想が高いのね――#
などと同じ仕事仲間のウンディーネや協会にいる年の頃の近い若い女性職員からは揶揄されることがないわけではなかったが、振り返ってもそれは正しい判断だったと思う。
もちろん心に決めた思い人としてアキトが居たからというのもあるが、アリシアにも理由は良くわからないが応じたくはなかったからそうしていたのだった。
愛澤からは受容れ難い何か肌合いの異なるものを感じているのか、彼をあまり近づけてはいけないと女の直感が告げていたのかもしれない。
たとえばデートの誘いを拒み続けていると、その後ろめたさもあって表層の意識が軟化して、ただランチを一度するぐらいならと彼の接近を許そうとする。
するといつでも内発的な、あるいは外発的なブレーキがかかるのだった。
あるときは頭痛や生理痛といった体調面からくる理由から、またあるときは急な要件が舞い込んだりして結局デートは流れてしまったりしていた。
その結果、アリシアは心の底から安堵していた自分に気がつくのだ。
あたし……やっぱり本当にイヤなんだ……。
愛澤さんとはあまり関わりを持ちたくない――。
理由はどうあれ、彼女の本心、心の深いところはそう訴えているようなのだった。
それをはっきり感じるようになって以降は、さりげなくではあったが愛澤彪樹とはなるべく距離を置こうと意識して行動するようになっていた。
と、アリシアはハッとして、自身の周囲を見まわした。
彼女を悩ませる元となった、あのおぞましい盗撮装置が近くに置かれているのを危惧して。
アリシアの懸念に気づいたらしく愛澤は
「安心していい、あんなつまらない盗撮機など、ここには一つもない。あれは所詮は雑魚が騒ぐだけの小道具に過ぎないからね。盗撮なんて、所詮、頭の悪い愚民どもが思いつきそうな下賤なアイデアだ。女をただ裸にして見るだけにいったいどれほどの意味があるか……料理の写真をいくら眺めても、それを食べたことにはならないし腹も膨れやしないのに、本物を手に入れることができる力のあるものにとってはカタログは所詮カタログでしかないんだよ。だいたい肌着をつけていれば体のラインがどうやったって矯正されてしまう。きみの体は何もしない自然なままの状態こそが完璧で美しいのに、そんなこともわからないなんてやっぱり愚民は愚民、バカはバカだ。発想自体が貧弱で恥ずかしくなるくらいどこまでも浅ましい、まぁあの二匹のゴミ虫も頭のいい僕が使えば少しは役にたつ手ゴマになるかとも思って手引きをしてやったりもしたが、所詮は卑しい出自の虫ケラだった、血は争えん……」
愛澤は肩を竦め、両腕を腰のあたりで左右に広げて呆れ果てたというポーズをつくる。
彼は被害者であるアリシアの前で、自身の口から事件への関与を告白していた。
強く疑われる容疑者であったものが確実な犯罪者に変わり、アリシアは瞋恚に顎を引き、さらに警戒感を滲ませて対峙する相手を見つめる。
薄暗い中にも瞳をいちだんと碧くして。
「あのバカどもの所為で一時的とはいえ、きみとの間に距離ができてしまった……全く、迷惑な話だ……しかし、それも今日限りだ――」
「……今日限り?……いったいなんのことですか……?」
「僕たちの関係だよ――」
「関係――?」
緊張関係以外に何があるというのだろうとアリシアは思う。
「だって、この後、僕たちは深く愛し合うことになるんだからね」
「ご冗談でしょうっ! わたしにそのつもりはありませんっ。わたしには誰よりも愛する大切な人が居ますのでっ――」
首を横に振ってきっぱりと宣言したが相手にはいささかの動揺も見られなかった。寧ろ、より口角を吊り上げて、いっそう禍々しい笑顔を貼り付けている。
アリシアは今度こそはっきりとした拒絶の意思を固めて、一歩たりとも譲るまいとして向き合う覚悟を決める。
受容的な性格の彼女にしては珍しい鋭角的な感情だった。
「ほう……しかし、そんなつまらないフィアンセのことなんか僕がすぐに忘れさせてやるよ……」
相手を凝視するアリシアはさらに瞳の色を碧白くさせる。瞳孔を針の穴ほどにも小さくして。
「きみは本当に愚かな女だ……変な男の元に走らずにまっすぐに僕のところへ来れば良かったものを……そうすればあらゆるものが手に入るのに」
「………」
「尽きることのない富と名声、地位、権力、そして愛――」
愛澤彪樹が挙げた最初の四つは、アリシアにとってはどれも全く関心も興味も湧かないもので、最後の愛――に、至っては、彼が口にするとまるで別の世界の違った意味の言葉に思えてくる。
「……きみの処女は本来、僕のものになるはずなのに下らない男を相手に勝手に捨ててしまうなんて……しかし無くしてしまったものは仕方ない……今日はきみのその美しい肉体がその男を忘れられるように僕がしっかり上書きしてあげるよ……きみのような素晴らしい女性が味わうに相応しいオンナの至高の快感を通して……歓びの深淵をきみはまだ知らないだろう?……女体には表にも裏にも、そして内にも中にも、きみが経験したことのない歓喜のスポットがある……それを今日、僕は極め尽くす……」
話しながらも奇妙に歪んでいく愛澤の口の端から涎が垂れ出していた。彼の顔は既に人にして人にあらずの異形ものに変化を始めているようなのだった。
それはなまじ整った顔をしている分、いっそう異様さを増しているように感じて、アリシアは全身の肌が粟立つのを覚えながら、
「……愛澤さん……あなたは既に人の道を踏み外してしまっていたのね……」
端整な口許から嫌悪と諦めの言葉が自然に紡がれる。
愛澤彪樹はあきらかに常軌を逸していた。
しかしそれは彼が見せた正体の、まだほんのさわりにしか過ぎないのだった。