ARIA A SECRET SCHOOL DAYS 作:真夜中のミネルヴァ
落下と同時に何かが飛びかかってきて、その感触に目を開いたアリシアは、
「どうしてあなたまでっ――!」
件の黒猫の姿を認めて驚嘆するのだった。そして子を守ろうとする母親がするように、両腕の中に大切に包んで抱きすくめる。
それでも時速二百キロで地上に衝突すれば、まず助けることなど叶わない。
「あたしにはあなたを守れない、なのに……」
#ミュウ……#
ほんの六秒後、もう間もなく確実に滅びの時を迎える――。
それなのに何が起きるのかもわからずに、彼女を信じて見つめる金色の瞳が哀しかった。
「猫さん……ごめんなさい……あなたまで巻き込んでしまって……」
自身を取り巻く激しい気流と切り裂き音の中、アリシアは腕の中の黒い毛並みに悔悟と謝罪の口づけを落とした。
そうしていると猫の纏う日向っぽい香りが長閑で平和な記憶を蘇らせて、この束の間の死出の旅への恐れを慰めてくれるようなのだった。
◇ ◇ ◇
「え、ペニスホテルに行けって?」
「ペニンシュラホテルっ――」
「どっちだって同じようなモンっしょ」
「大違いでしょっ!」
メストレ市西域、郊外を警邏中の交通課巡査、神宮寺綾と早川天音の二人は本部からの司令をうけて、ネオ・ヴェネチア・ペニンシュラホテルへとミニパトを走らせている。
ルーフに警告灯こそ出してはいないが自動運転を解除して今は天音がハンドルを握り、制限速度いっぱいにまで上げて行き交う車両を気持ちよく追い抜いていった。
「……まだはっきりそうだと決まったわけじゃないらしいんだけど、プリマ・ウンディーネのアリシア・フローレンスさんが今日の国際会議出席の直前に何者かに会場近くから連れ出されたらしくて、あのホテルに居る可能性もあるからって、とりあえずいちばん近場に居た私たちに声がかかったみたい――」
「あっちゃー、彼女、誘拐されちゃったんだ……そりゃヤバいわねぇ、いろいろと……」
神宮寺綾はシートを倒して両手を頭の後ろに組んで、特に危機感をみせるでもなくリラックスして、プロポーションの良い体を長らえた格好のまま呟いた。
ストレートショートヘアの白い面差しは凛々しく水色の制服姿がよく似合っている。
「綾、まだ誘拐と決まったワケじゃないわ、でももしもそうだとすると考えたくはないけど……同じ女としては、やはり気になるわよね――」
「そりゃ当然、ただの身代金目的ってことにはならないでしょ……あんだけの美人となると……」
「まったく婚約発表以降、このところご難続きよね、彼女――」
「まぁ美人の辛さってのはさぁ、やっぱモテ女ならではの苦労で、ウチらも他人ごとじゃなく身に染みるわぁ」
「ハイハイ――」
天音は綾の本音とも冗談ともつかない言葉を軽く受け流した。
「でもそうしてみると規格外の美女って、ただのトラブルメーカーよね。昔はそれで国が滅んだりしたこともあったんでしょ? どっかのお姫さまだかなんだかが、隣の国の王子様に気に入られちゃって、王子様がこっそり連れ出したら戦争になっちゃってってハナシ、あたし聞いたことあるわ」
「国が滅ぶ? トロイアのヘレンの話かしら? その話はお姫様じゃなくて王妃様よ。スパルタの王妃ヘレンがトロイアの王子に横恋慕されて略奪されたって話。若い男に妻を奪われたらそりゃ旦那はカンカンになって怒るわよ。まぁ、あれはただの神話だけど。でも何事もほどほどが肝心ってことなら同意だわ――」
「そうなのよぉ、美しすぎるのは罪よ、罪っ。あたしも朝、鏡見て、いつも思うもの」
「いいわねぇ、綾はいつも頭がお花畑で――」
ほどなく左前方、緑の木々の間にニョッキリ聳え立つ薄い赤紫色の建物が見えてくる。
「それにしても、
サイドウインドの先に目をやった綾は整った形の眉を顰めた。
「そりゃ所詮はお役所仕事だから、書類に不備がなければ通すしかないでしょ――」
「だってさぁ天音ぇ、ホント悪趣味なデザインじゃない? あれってまんま男のアレそのものでしょ、あの木々の配置だって、どうみたってヘアに見立ててるわけだし」
と、ボヤくと、
「あら、そうなの? あたしそんなの見たことないから知らないわ――」
早川天音は相棒が振ってきた下ネタ話をそっけなくスルーするのだった。ロングストレートヘアの知的な美貌を、つん、と澄まして。
「そうきたかぁ――」
綾は神妙な顔つきになってひとりごちると、突然、身を起こして傍らの相棒の豊かな横乳あたりを片手の指先で突っつく。
「ナニ、カマトトぶってんのよっ、このっこのっ! こんなオッパイをしている女が、どの口で云うっ、どの口でっ!」
「ちょっと綾っ、運転中っ、運転中っ!」
綾にちょっかいをかけられた天音は一瞬、ひっ、と軽く身を竦めたがハンドル操作を誤ることなく
「交通警官が事故起こすわけにいかないでしょっ、もうすぐ着くからおとなしくしててっ」
諌めた。
天音と綾は同郷の幼馴染で年齢も同じ二十歳、警察学校入学も同じ同期で階級も一緒、配属された地区も部署も一緒という、署内にとどまらず
「毎週末、アユムくんとのデートにるんるんで出かけて行って、いったいどんな
天音の彼氏の二階堂歩夢はひとつ年下、二人のハイスクールの後輩で、今は料理学校に通ってシェフを目指していた。
在校時代から天音と歩夢は美人生徒会長とその忠実な副会長のカップル――ということで周りからは認知されていたのだ。
「変な言いがかりをつけないでっ、週末は自宅に帰ってるだけよっ――」
「どうだかねぇー」
「綾の方こそどうなのよっ、アーダルさんなんていうイケメンの玉の輿を射止めて超ラッキーじゃないっ、式の方の計画はすすんでるの? たしか結婚式は閏十月だったでしょ?」
天音が意趣を返すと、
「うん、それなんだけどねー、あたし、どうしようかと思って……」
それまで相棒に攻勢を仕掛ける側だった綾は、一転、顔を曇らせる。
「どうしようかって、結婚の日取りのこと? まだ二ヶ月先だけど、秋は式をあげるカップルも多いから、早めに式場の予約をしておかないと困ったことになるわよっ、市から離れたとんでもなく遠い会場でとかになったりしたら、出席者も億劫になるし――」
「そうじゃなくてさぁ、あたし、結婚自体も取りやめようかなって思ったりしてて……」
疲れたため息をひとつ。
「えーっ、どうして? あんな条件のいい男、滅多にいないと思うわよっ、彼となにかあったの?」
「うん……ちょっとねぇ……」
綾は頭をカリカリと掻きながらこぼし始めた。
「あの男はダメよ、極度のシスコンというか、アレはもう殆ど重度の姉恐怖症だから――」
「姉恐怖症!?」
神宮寺綾の恋人であるアーダルベルト・フォン・ワイスラーは二つ年上の二十二歳、公立中学校の教師をしていた。
温和で優しい顔立ちのハンサムな青年で、一見、どこにも欠点などないようだったが――。
「式とかの打ち合わせをしてると、なんかもーイライラしてきて……あいつ、何をするにしても、まず真っ先に口をついてでてくるのが“姉に相談してから”なのっ、バッカじゃない? 自主性とか自発的意思とかってのがまるっきり欠けててさぁ――」
「あら、そうなの? まぁ、お姉さんがお姉さんだから……それはある程度は仕方がないのかもしれないけど……そうなんだ……」
アーダルベルトの姉のアルティア・ワイスラーは
アーダルベルトとは十も歳の差がある上に、早くに母親を亡くしていた姉弟は、姉のアルティアが母親代わりも担うようになっていたらしく、その面でもまったく頭があがらないらしいのだ。
さらには一介の中学教師と政府の重要閣僚の要というのでは地位も立場もかけ離れている。
唯一比肩しうるのは容姿だけで、他はおしなべて姉が弟を圧倒していた。非力なアーダルが畏怖を感じて、なにかにつけ姉を頼りにするのも解らなくはない。
しかし、結婚についても何から何まで姉の顔色を窺って、となると、さすがにパートナーとしては穏やかではいられないのだった。
「――もしもよ、もしも、このまま結婚して、新婚旅行先でいざっていう段になって、アイツがいきなりスマホを取り出してきて“ちょっと姉さんに電話して訊いてみる”って相談を始めるんじゃないかって想うと……恐怖だわ――」
「まさか、さすがにそれはないと思うけど――」
「天音はアイツのことを知らないからよ。デートの時、いつもあたしがどんだけ苦労させられているか……あのバカ、あたしのことをほっぽっといて、延々デートの間中、姉の自慢話を始めるのっ、毎度毎度それを聞かされる身にもなってよ、しまいには軽く殺意を覚えるわっ、そんなに好きならお姉さんと結婚なさいよって――」
「綾……」
それから延々、相手の男についての不満を聞かされる。
流れで仕方なかったとはいえ、体よく友人の恨み言に付き合わされたかたちの天音は、火の粉が自分の方にまで及んでくる前に話をおしまいにしたかった。
長いつきあいのある親友とは云え、安直に他家のトラブルに嘴をつっこんでも、せいぜい碌なことにはならないことを弁えていたからだ。
ましてや、まかりまちがって
触らぬ神に祟りなし――。
クワバラクワバラ……。
「まぁ、お互い大人なんだから、言いたいことがあるならあたしじゃなく、相手にはっきり伝えることね、あたしに言えるのはそれぐらいだわ……」
天音は話を切り上げるつもりで、差し障りなく纏めようとする。
「そんなぁ、突き放すような冷たいこと言わないでよ、天音ぇ」
「あたしにどうしろって云うのよっ、あんたらのことはあんたらで勝手になんとかなさいよっ、あたしまで巻き込もうとしないでっ」
「だからぁ、もっとあたしの愚痴に付き合ってってばさー、そのくらいいいじゃない、親友なんだからさぁ」
だらしなく表情を崩して駄駄を捏ねる。
「あー、めんどくさいっ」
「天音のいけずぅ……いいわよねぇ、いつも熱々のラブラブカップルは……あたしも年下の男にしとけば良かったのかなぁ……」
綾はしゅんっ、として窓外に目を転じた。
と――。
「天音っ」
「ナニっ、もう勘弁して――」
「違うのっ、ちょっと大変っ!」
「大変って、だからっ――」
相棒のただならぬ様子に気づいた天音は、綾が凝視している方へと自分も頭を動かして、ルーフに隠れて見えなかったフロントガラスの外へと視線を送った。
そして刹那、愕然とする。
ペニンシュラホテルの屋上付近に、人がフェンスにぶら下がっているのが見えたからだった。
長い金髪の、女性らしい姿が――。
「あれって……まさかっ……大変っ! 綾っ、警告灯を出してっ!」
「諒解!」
「めいっぱいスピードをあげるから、シートベルトをしっかり――」
「オーケーっ」
綾と天音の乗るミニパトはサイレンを鳴り響かせ、緊急車両の特権でルート上にある全ての自動運転車両を停止させると、音速を超える――もちろんそれは無い――車両の制御限界スレスレまで速度を上げると現場であるペニンシュラホテルへと急行するのだった。
◇ ◇ ◇
アルバート・ピットは、控え室にある自分のデスクに戻るといつもよりも少し早めにランチを摂ろうと藍華から渡されていたバスケットを開いた。
中にはサンドイッチが彩りも豊かに綺麗に揃えた切り口の断面を並べていて、見るだけでも食欲を刺激している。
プリマ昇格以降、藍華は料理の腕前もぐんと上達していて、おにぎりや巻き寿司といった和食や、チャーハン、青椒肉絲などの定番中華は言うに及ばず、フライや天ぷらというような揚げ物にまでレパートリーを拡げていていつも楽しませてくれるのだった。
添えられた手書きのお品書きを見ると、ハムとチーズ、玉子、ツナ、チキンの照り焼き、ポテトサラダにキュウリとあって、バラエティにも富んでいて飽きさせない。
どれも美味しそうで、さてどれから食べようか、と迷った挙句、まずは定番のハムチーズを選んで、フフフン、とご機嫌な鼻歌混じりでそれを口にしようとしたその時である、
「アル先輩っ、大変ですっ!」
無粋にも後輩のアンブロー――アンブローシャス・ダーバンヴィル――が血相を変えて駆け込んできて、
「どうしたの?」
アルは仕方なく手にしたサンドイッチをバスケットの中に戻した。
「あのっ、すぐに制御室に戻ってくださいっ! 加賀博士がっ」
「博士が? なんだろうな……」
アルはデスクから立ち上がると、白衣には袖を通さぬままに腕に抱えて、おっとり刀でアンブローの後に続くのだった。
中央ターミナルの制御室に入ると、既にそこには仲間のノームたちが集められていてアルの到着を待っていた。
正面の巨大モニターには加賀顕子博士の顔が映し出されていて、その緊迫した様子から事態の深刻さが窺えるのだった。
博士からの連絡は“D計画”に異常事態、制御不能のトラブルが発生したというものだった。
国土安全保障庁軌道管理局の主席技官である加賀博士とは、D計画発足時以来の間柄で、部会でのミーティングを通して対面でも何度か顔を合わせていた。
地上の専門家たちとは常に緊密に連絡を取り合いながら計画を進めていたのだ。
「……座標が安定しない? では発動ポイントが計画区域を外れる、ということですか? どのくらいズレると? D計画はそれを見越した上で、万が一にも周辺に影響が及ぶことのないように、わざわざNEO大西洋のど真ん中に設定したはずでしたが……当該ポイントから半径百キロ圏の船舶、航空機の立ち入りを厳戒して――」
アルの問いに、加賀顕子は無言の焦眉で応えた。
「それさえもはっきりしないんですか?」
「ええ……だから、D計画そのものを緊急停止する必要があって、それで急遽ご連絡をしたの、そうなるとこちらではもうどうしようもないから――」
「了解しました。直ちに作業に移ります。しかしどうしてですか? あれだけ綿密に計画を立てて、慎重に作業を進めていたはずですのに――」
「今、調査中よ。こっちでも矢吹を中心にプログラムを精査させているところ、でも、目下のところ異常は全くみあたらないのよ――」
矢吹、という名前を聞いてアルは心中で苦笑いをする。
彼女こそ計画失敗の最大の要因なのではないか――?
と、勝手に思って。
それというのも彼女が触れた機器は、なぜか突然、脈絡もなく不調に陥ることが度々あったからだ。
挙句――。
『ダメですっ、操作をうけつけませんっ――!』
彼女の絶望の悲鳴がコントロールセンターに響き渡ることになる。
もちろん、矢吹亜弥研究員が無能なわけでも怠慢なわけでもない。
実際、彼女は加賀博士の後輩で、既に博士号を持つ優秀な若手研究者だった。
しかし、なぜかそうなるのだ。それまで何の問題もなく上手く運んでいたものが突然ダメになる――。
それをアルは密かに“矢吹効果――”と、呼んでいたがもちろん誰にもそんなことを打ち明けたことはなかった。
藍華にさえも――。
加賀博士も、最後の最後まで計画実現に向けて奮闘していたのだろう、万策尽きた挙句に断腸の思いで通知してきたのが窺えた。
いつもは美貌の目の下に、今日は極度の疲労の為なのだろう隈を作っている。
彼女の当惑は当然なのだ。
優秀な科学者であるだけに、常に完璧を期して最善の努力を重ねていたものが、理解不明の事態に直面して、注いできた情熱が報われずに無力感を抱いているのだった。
「あれが万が一にも人口密集地でいきなり発動したりしたら、それこそとんでもない大惨事にも繋がりかねないから……だから断念しよう、と……」
「わかりました――」
「すみませんが宜しく――」
「ネオ・ヴェネチア標準時、12時55分までには、すべての作業を完了させますので――」
「お願いね――」
しかし――。
二時間後、
「ダメですっ、全ての機器が操作をうけつけませんっ――!」
アンブローシャスの絶望的な悲鳴が中央ターミナルの制御室に響き渡り、アルバート・ピットは口から魂が抜け出しそうなほど真っ青になっていた。
「原因の特定を急いでくださいっ。それと万が一の場合、収束場所はどこになりますかっ! せめて座標の特定だけでもできませんか?」
にわかに動揺が広がる制御室の仲間たちに指示を与える。
「アルさん、軌道管理局から連絡が入ってますっ!」
「繋いでくださいっ」
再びモニターに加賀顕子博士の顔が大映しになった。
「予定時間は過ぎたようだけど、まだ停止信号の確認ができていないの。こちらの機器障害の影響かもしれないけれど一応確認しておこうと思って。そちらでは緊急停止作業は済んでいるのよね?」
「それが……こちらも原因不明の装置の不調があって、今、懸命に原因の特定をさせているのですが……」
「なんですって――!」
「せめて場所が判れば……そちらから防災庁に連絡をして、早急に関係各所に対応を促していただくことはできませんか? 必要なら住民の安全を最優先に――」
「でも、後十五分もないのよっ、今から連絡してもとても間に合わないわっ、何とか止められない? さもないと大変なことになるからっ」
「ただ、緊急連絡をするだけでも、何とか……」
「場所の特定はできるんだけど……九十九パーセント以上の確率で……」
「良かった、それだけでも判れば、仮にもしも付近に住民が居るのなら直ちに連絡をして、近づかないように注意喚起することができますっ、準備さえ出来れば――」
「準備が出来れば……? でも、今から何ができるっていうの? 収束ポイントの座標は……」
「座標は……」
「北緯四十度十六分、東経は……零度零分――」
「――!!!――」
告げられて、中央ターミナルの仲間たちの間にも衝撃が走った。
それは――。
D計画がもたらす惨禍がネオ・ヴェネチア近傍を直撃することを意味していたのだった。