ARIA A SECRET SCHOOL DAYS 作:真夜中のミネルヴァ
居間でテーブルを挟んで秋乃と向き合っていたアキトとアリシアは、きちんと正座をして、アキトが手土産としていたスケッチブック――F6サイズのやや小ぶりなものだった――を秋乃が開くのを二人で見つめていた。
「他所さまのお宅をお訪ねする際に何も持たずにというわけにも参りませんので……でも今のボクには気の利いた菓子折ひとつ携えることもできなくて……そのような粗末のものしか思いつかずに申し訳ありません……」
少年はテーブルから少し下がると畳に両手をついて深く頭を下げる、すると傍のアリシアもそれに倣うのだった。
彼女にとってアキトを交えてのそれは、グランマへの事後報告、交際の承認という意味合いも含んでいたからだった。
自分が遥かに年下の男の子を恋人に選んでしまったこと、ことわりもなく勝手に婚姻の約束をしてしまったことなど、申し開きをしなければいけないことがたくさんある。
だが、秋乃はただスケッチブックのページを捲るだけで、それには応えない。
しかし――。
やがてスケッチブックを持つ秋乃の手が細かく振戦え始め……。
「……これが……あたし……」
「僭越ですが、図書館のアーカイブにあった先生の現役時代の映像を拝見して、それで……ボクなりに描いてみたのですが……」
「……これ……あなたが描いたの……?」
「アキトさんは
代わりにアリシアが口を添える。
そこにあったのは丁寧に描き込まれた鉛筆画で、往時を偲ばせる秋乃の姿が実に綿密に捉えられていた。
ロング、ミディアム、バスト、アップと構図を変え、アングルを変えて、次の動作を窺わせる瞬間を切り取り、ある時はダイナミックに、またある時は繊細に、今にも動き出しそうなムーブマンの、ウンディーネであれば、それがどれほど完璧な所作であるかに一目で気がつくほど、ゴンドラを操る秋乃の見事な一瞬が四季折々と共にスケッチブックの全て渡って描かれていたのだ。
一枚一枚、線の一本一本にまで描き手の思いが込められていることは、趣味で絵を嗜み、多少でも絵心のある秋乃にはそれが感じられるのだった。
「アキトさん、いつの間にこのようなものを描いていたんですか?」
そっと秋乃の側へ移ったアリシアは、スケッチブックを横から覗くと、驚きに円らな瞳をさらに大きくして言った。
いくら才能に恵まれて、ことあるごとに芸達者なアキトでも一日や二日で描けるような類のものではないことだけは判る。
「少し前から描き溜めていたんです……」
少年は照れくさそうに苦笑しながら
「先生にはキミとのことで、いずれはご挨拶にお伺いするつもりでいたんだけれど、だけど手ぶらでってわけにはいかなくて……やっぱり出自はあらそえないみたいで沁み込んだ習慣っていうやつなのかもしれません……でもボクはたいがい、このとおりで手元不如意だから、それでどうしようかなって考えていて……」
癖毛の頭を掻く。
「すごいわ、私の知っているウンディーネのグランマそのままです……なんて美しい……」
アリシアは顔を綻ばせて、少し興奮しているのか白い頬を上気させている。
一方、秋乃の方はずっと俯いたままだった。
ややあって、
「……随分と……美化されてないこと……?」
秋乃が鼻をグズつかせて、少し苦しげにして言葉をつむぐ。
「ボクは見たままを描くことには多少の覚えがあるのですが、それ以上のことは才能が追いつかなくて……これでも頑張ったつもりだったのですが先生には、なんとか合格点を戴けたのでしょうか……」
「合格点だなんて……」
代わりにアリシアが
「これはグランマそのものよっ、だって水の大妖精と言われたグランマのゴンドラは、どんなに遠くからでもすぐに分かるくらい、それはもう素晴らしいものでしたから……今でもはっきり思い出せるわ」
「アーカイブを見ていて、ボクにもキミが先生の背中を追いかけていることが良くわかりましたよ……それから先生のゴンドラに較べるとキミがまだまだだってことも――」
「あら、やっぱり、わかっちゃった? うふふっ」
アリシアが軽く肩をすくめると、実に楽しげに目尻を下げて微笑んだ。
少年はそんなアリシアの少女っぽい仕草と表情に、自然に目を細めている。
「キミも気がついてるんだね」
「あたしだってプリマになってもう五年よ、自分がどれだけ未熟であるかかぐらいは判ってるわ」
「ミス・パーフェクトって言われていても、先生の映像を見た後でキミのゴンドラを眺めると感じるんだ、まだ動きにぎこちなさがあるんだなぁって」
「うん、グランマのオール捌きは本当に優雅で美しいから……あたしの生涯の目標……でも、とても届きそうにないわ……」
「そうですね、先生の所作は完璧な動きの中に含まれるわずかな揺らぎが、言葉にならないくらい心地良いんです……ゆらぎがあるからこそ発展する余地がある、さらなる高みへの可能性を孕んでいる。だから開かれた美を感じることができるんですね。そんな動的な美しさだから、それをきちんと描ききるのはとても難しくて……今のボクにできるのはそこまでですけれど、それでも受け取っていただけますか? 先生」
「……受け取る、だなんて……」
秋乃が懐からハンカチを取り出して目許を拭いはじめて、若い二人は彼女が涙ぐんでいたことに気がついたのだった。
「あなたたち……二人して……こんな年寄りをからかって……」
そう言ったきり、しばし肩をふるわせて嗚咽する。
自分が断ち切ったつもりでいた過去への郷愁が、にわかに胸の中で熱くこみあげてきているのだった。
眩いばかりに輝いていた時の自分自身、それが目の前にあった。
老いの翳りなど微塵も窺わせない晴れやかな笑顔の、誇らしげな姿で。
それはかつて確かに抱いていて、今は失ってしまったもの。
鮮やかに思い出が蘇り、そして激しく心を揺さぶられている。
「あの……お年寄り、というのはどちらのことですか? まさか、先生ご自身のことではありませんよね?」
アキトが訝しげにして尋ねると、
「あなたはどこまであたしを苛めれば気が済むの? お若い方――」
秋乃は涙に赤く目を腫らした顔を上げた。
「こんな小さく、醜く萎んだみすぼらしいお婆ちゃんをつかまえて……」
「ここにはお婆ちゃんなんて一人もいませんよ……ねぇ、アリシアさん」
「ええ、グランマは今もその絵の中のグランマと少しも変わってはいませんから」
「何を云いだすのアリシアっ、あなたまでっ――」
秋乃は本当に憤慨した様子になり、アリシアは当惑する。
「アリシアさんは先生に軽々しくお世辞を言ったり、揶揄ったりなんかしていませんよ。そんな安っぽいことをするような女性じゃないことを先生はよくご存知のはずですが――」
アキトはアリシアを庇う。
「それは、わかってるけれど……でも……」
秋乃はアリシアとアキトの二人の顔を交互に見やって、どちらも真顔でいることにもどかしげな顔をする。
少年は部屋をぐるりと見回して、何かを探しているようなそぶりになったが見当たらなかったのか視線をテーブルの上に戻すと、自分の目の前にあったティースプーンを取り上げるのだった。
綺麗に磨き上げられた銀製のスプーンを手に、それを目の前にかざして軸をくるくるとさせて
「これでもいいかな……」
つぶやくと、
「先生、スプーンの背をご覧になって戴けますか?」
秋乃に求めた。
「スプーン? あたしに何をさせるつもりなの?」
「ただ、ボクがしているみたいに、こんなふうにして戴ければ結構です」
秋乃の横でアリシアもアキトの真意が読み取れずに、キョトンとした顔で小首を傾げていたが、秋乃がするように彼女もそれに倣うのだった。
と――。
秋乃がギョッとなったかと思うや、突然立ち上がり、慌てた様子で居間から出ていってしまう。
何事かとアリシアもすぐにその後を追おうとしたが、アキトにやんわりと制止され、不思議そうな顔をしたまますなおに腰を下ろした。
が、その直後、廊下の先、化粧室のある方から
「ああっ、なんてことなのっ!」
秋乃の悲鳴が響いたのだ。
「グランマっ!」
アリシアは驚きと焦慮に、珍しく落ち着きのある美貌を色めきたたせている。
「大丈夫、心配しなくても先生はもう――」
立ち上がりかけた彼女の腕を押さえると少年は笑顔で静かに諌めた。
「アキトさん……」
「これでもう、何にもかもが正常に戻りますから」
「正常?……正常って……?」
ほどなく茫然として我を失っている態で、それでいて顔を輝かせた秋乃が戻ってくるや、いきなり膝を崩してその場で泣き崩れてしまう。
アリシアは秋乃の元へと駆け寄り、両手で顔を覆って身を丸める背中に腕を回して支えると、
「いったい、あなたたちはあたしに何をっ?!」
泣き腫らした顔の秋乃に質されて、当惑に目を瞬かせた。
アリシアは自分は無関係とばかりに大きく首を横に振っている。
ワケがわからなくなってアキトに説明を求めた。
「アキトさんっ、グランマに何をしたのっ!」
「どうやら、ボクが想っていたとおりだったようですね、先生――」
少年の顔に明らかな安堵があるのを読み取ると、秋乃とアリシアは互いに顔を見合わせて、それぞれが訝しげな表情のまま種明かしの答えを待つようになるのだった。
「まずアリシアさん、キミに伺います。先生を見てどう思いますか?」
「いつもどおりの、お綺麗なグランマですよ。あたしたちみんなの憧れの」
何を当たり前のことを、と当然のような答えが返ってきた。
「では次に先生にお尋ねします。アリシアさんの言葉、今の先生にはきっとこれまでとは違って聞こえているはずですが……如何ですか?」
「…………」
秋乃は言葉を失ったようにしばし黙考していた。
代わりにアキトが続ける。
「先生はね、キミのその言葉をいままでずっと、きっと“キミたち”らしい思いやりからと受け止めていたんだよ――」
「……?……」
「そうですよね? 先生」
秋乃は応える代わりに、疲れた様子で小さく首肯した。
「でも、実際はそうじゃなかった……アリシアさんはただ普通に見た通りのことを口にしていただけだった。今の先生には、それがお判りになったはずです――」
秋乃はその言葉を受けて、しばし噛み締めるように瞑目していると、
「どういうことか、説明していただける――?」
顔を上げて少年に尋ねた。
「ボクには確かなことは何もわかりません。ただ想像で補っただけです。それでも宜しければお話できますが」
秋乃は小さく頷いて話の先を促した。
「アキトさん、どういうこと? いったい何のお話をしているの?」
アリシアには二人の会話に自分だけがひとり追ていけないことがもどかしく、すっかり当惑した顔でアキトに質すのだった。
「ボクは以前からとても不思議だったんです――」
「――?――」
「グランマ、天地秋乃、という同姓同名の人物が二人いるのかな? って、たとえば大グランマと小グランマというように親娘なのかもしれないとも」
「そんなはずないでしょっ、グランマはお一人に決まっているわ」
「そうですね……そうなんです、そんな筈はないんです……でもね、ボクが街でグランマ秋乃のことを人に尋ねると、綺麗に二つ分裂したイメージになって返ってくるんです」
「――!?――」
「ひとつは、グランマーメイド、水の大妖精と言われた稀代の名プリマ・ウンディーネの、今も往時と変わらぬ美貌を備えた若々しい女性として……そしてもう一つは、グランマ、お婆さんのイメージそのものの、小柄な老女として……」
「そんなっ……そんなことが……だってグランマはいつだってとってもお綺麗で……」
「キミの目にはそう映っていた、そして確かにそうなんです……でも、ある人たちの目には……殆どの人の目にはそうは見えてはいなかった……灯里さんたちでさえも……もちろん彼女たちにはなんの悪意もない、ある筈がない――」
「……よく、わからないわ……アキトさんが言っていることが……グランマにはお分かりなのですか……?」
「…………」
秋乃は瞑目していて応えない。が、アリシアの問いかけを無視しているというよりも、今の状況を受け止めようと心の整理をしているように見えるのだった。
「それはね、先生ご自身の目にも、自分自身の姿が高齢の婦人であるように映っていたんです――」
「――!?――」
「そうですよね……でも、もう今は違うはずです――」
「どういうこと? アキトさん、私にはさっぱり……」
「先生はね、ずっとご自分が老女だと思い込まれていたんですよ。鏡に映る自分の姿も老人に見えていた」
「――!!――」
「そしてそれは先生のご意志でもあったんです」
「……先生のキャリアを拝見して、ボクにはとても信じられませんでした……現役を引退されて僅か十年で、人がそんなに早く老け込んだりするものだろうか? って。よほどのことがないと、例えば事故で大怪我をしたりとか、重い病に冒されるとかしない限り、人はまるで別人のように容姿が変わったりはしないものです……でもグランマについてそんな事実はありませんでしたから……だからこれはきっと何かあるに違いないって思っていて……それが確信に変わったのは、アーカイブに行って先生の映像を拝見して、それを自分なりに整理して描くようになってから後のことです……街中を歩いている時、グランマの姿を……グランマーメイドの若々しい先生の姿を見かけるようになって、それで気がついたんです。ボクの視覚もそれまで何らかの操作を受けていたらしいってことに……それが意識を集中して先生の絵を描くようになることで幻術から醒めたようで」
「幻術? 視覚の……操作……じゃあ、みんな先生のことを老人だと思っていたの?」
「そうですよ。殆どの人たちはずっと、先生の偽りの姿を見せられていたようです、先生ご自身を含めて――」
「そんなことが……」
「あったみたいですね、幸い、先生にかかっていた視覚の操作も今は解けたようですけれど」
アキトの説明によると、秋乃を老婦人と見るか妙齢の美女と見るか、秋乃との距離感が反映されているようだとのことだった。そしてそのキーとなるのは、グランマ――という言葉だとも。
俄には信じ難いことであったが、グランマーメイドという意味合いで受け取る者と、おばあさん、という受け取り方をする者とで、どうやら見え方が異なっていたらしいのだ。
また、グランマ秋乃との人間的な関係の濃淡も影響していて、たとえば長い付き合いのあるアリシアたちや教会関係者の目には秋乃が今も美女の姿に映っていても、新しい世代の灯里たちや、一般住人の多く、旅行者などの目にはそのようには映らない。
尤も、こんな異変があればすぐに発覚しそうに思うが、不思議なことにけしてそうはならなかったのだ、とも云う。
「こうした矛盾が明らかにならないように、ボクたちは実に巧妙に操られていたようなんです……おそらく認識阻害、というようなものだと思うのですけれど」
「認識阻害?」
「ええ、我々の感覚に対してなされる外部からの何らかの干渉というものでしょうか、それについてはボクも大して知っている訳じゃないのですけれど、いくつかの方法があるみたいですね。例えば電磁波や音波、薬物を使うような実体のあるものから、集団催眠のような心理的な因果関係がはっきりしないものまで……先生の場合は、きっと幾つかの可能性を組み合わせたものになるのかもしれません。例えばグランマについて語る時、見え方が異なる人たちが一緒になることが無いようにされるなどして、だから互いの見え方の違いに気がつかないようになっている。この場合は認知に対してよりも行動に対して何らかの操作が加えられている可能性がありますよね」
まさに狐につままれたような話で、アリシアもすぐには胸落ちしなかったのか、
「でもあたしたちがグランマにお会いした時、灯里ちゃんたちが一緒だったことは何度もあったわ」
説明を聞いた上での当然の疑問を投げかける。
「そうですね、でもたとえ灯里さんたちの目にグランマが老婦人として見えていたとして、彼女たちにキミや晃さんを差し置くようなことがはたしてあるでしょうか?」
たちまちアリシアの顔に理解が広がっていった。
「……それは……そうかもしれないけれど……」
「こうして実に巧みに、実態が隠蔽されてきたみたいなんですよ。先生の異変についてはこの街に暮らすみんなが長いこと、何の疑いを抱くことなく過ごしてきたのですから」
「でも、どうして? どうしてそんなことに?」
「それは、おそらく二つの面があったのだと思います」
「二つの面――?」
少年は秋乃の顔を見やり、微妙な表情の変化を感じ取ると、
「ひとつにはボクは、先生がそれを望まれたからだと――」
「「――!――」」
「そうではありませんか? 先生……そしてそれにはアリシアさん、きっとキミにも関係があった――」
「わたしが? どうしてですかっ?」
「…………」
「先生がそれを自覚されていたかどうかについては、ともかくとしても……でも今は思い当たるものがあるとお感じになっておられるのかもしれませんね……ボクの見立てはおかしいですか?」
問われた秋乃は、憑き物が落ちたようにスッキリとした顔になって、肩で大きくため息をついた。
「まったく……あなたはなんて人を連れてきてくれたの? アリシア……」
「グランマ……」
「ねぇ、アリシアさん、キミは三ヶ月前のことを覚えていますよね? ウンディーネを引退するかもしれなかった時のことを」
「もちろんよ、良く覚えているわ、あの時は、みんなにたくさんご迷惑をかけてしまったから……」
「キミは引退することを、どう感じていましたか?」
「それは、すごく寂しかったわ、もうゴンドラを漕げなくなってしまうのかしらって……でも、アキトさんが両立できる可能性を教えてくれて、それで今があるから……だからとても感謝しているわ」
アリシアは恋人だけに向ける甘い笑顔をアキトに贈る。
「あの時、ボクが居なければ、キミはどうしていたかな?」
「うーん……アキトさんが居ないなんて考えたこともないわ……そんなこと……」
複雑そうに考えこむ顔もまた愛くるしい。
「でもその場合、キミはウンディーネを引退して、協会の支援で女子大生を続けながら理事の職も勤めていた筈ですよね」
「うん……そうね……きっとそうなっていたでしょうね……ねぇ、アキトさん、今これ何のお話をしているの? たしかグランマの……認識……」
「認識阻害?」
「そう、その認識阻害の原因に私も関わっていたってお話だったはずよ、それとあたしといったい何の関係があるって云うのかしら?」
「ですから今、その話をしているんですよ。順を追ってお話ししますから、もうちょっとだけお付き合いいただけませんか?」
「うん……」
アリシアはアキトから視線を外さないまま素直にこっくり頷く。
「キミが協会理事の片手間に大学を無事卒業したとしますね、その後、キミはどうしますか?」
「わからないけれど……きっと、理事を続けながら現場に復帰することを考えると思うわ……だって、ウンディーネにとってゴンドラを漕ぐこと以上にやりたいことなんてないから……」
「そうですよね……やっぱりそう思いますよね……プリマになってたった五年でも、既に自分の人生の一部になっているから……でももしも自分自身の全てを捧げて、そんな生活をもっとずっと長く続けた後だったとしたら……?」
問いかけの意味を察してアリシアは視線を少しの間だけ中空を彷徨わせ、そして躊躇いがちに秋乃へと戻ると問いかけるような眼差しを向けるのだった。
「そうなんだ……先生もそれを望まれていたんですよ……だって先生は、たった十年前まで、今の三大妖精と言われる君たち以上に、プリマ・ウンディーネとして光輝く存在だったんですからね。だからそんなに簡単に現場への未練が断ち切れる筈がないんです。事実、ARIAカンパニーの先代のプリマのアンナさんの代から、グランマは協会の理事職を一度ならずも辞退しようと模索されておられた。本島の外れの空き地を新しい住居件仕事場にされようとまでして」
「あなたっ、そんなこと、どうして知ってるのっ――?」
秋乃が、少し語気を強めて詰問調になって訊いた。
「たしかルロワさんって言われたかな? あの方からお聞きしたんです。先生の記録映像の閲覧について相談をしに事務局に伺った際に――」
「アニから? もう、お喋りなんだから……仕方のない人……」
「ルロワさんは先生に心酔していて、ウンディーネを引退されたことを惜しんでいましたから。まだあと二十年は現役を続けられただろうにって言っていて、現場復帰が叶わなかったことをとても残念がっていましたよ」
アリシアには初めて耳にすることばかりで、それをマンホームから移ってきて僅かの少年に、しかも帰郷していた期間を除くと正味たった一年ほどの間に、アキトは既に彼女自身のことを含めて様々なことに通じているのだった。
改めて自身の凡庸さを思い知らされるようで「かなわないな」と感じている。
「その現場復帰への未練を断ち切ったのが、キミだったんだよ、アリシアさん」
「どうしてわたしがっ、だってわたしだってグランマには現役に戻って欲しかったのにっ」
「そんなこと、できる筈がないでしょ、アリシア……」
諦観の笑みを見せた秋乃は、五十を過ぎた歳なりの雰囲気を放って言った。
「グランマ……」
「目の前にあなたが現れた時、本当にびっくりしたわ……こんなに美しい子が居るのかしらって、そればかりか心持ちも何もかも、とても敵わないと思うことばかりだった……それで諦めがついたのよ……もう自分の役目は終わったんだなって、だってわたしはこれから衰えていくばかり……そして、あなたは今から光り輝こうとしている、磨かれざる宝石だったんだから――」
「グランマ、そんなっ……」
「きっと、これは神様からの引導なんだって判ったの。自分を凌ぐ才能を前に、今が潮時なんだって」
「未練にも向き合って、しっかりと見切りをつける必要もあったんですね?」
秋乃は無言で、視線の動きだけで同意を伝えた。
「誰でも迎える世代交代を前にした時の自然な葛藤です。それが先生にもあったんですよ」
「でも、アリシア、あたしはあなたに嫉妬して、憎らしいだなんて、一瞬でも思ったことなんかなかったわ、それだけは信じてね」
「そんなことっ……だってグランマは、グランマはっ……」
アリシアの両目から涙が溢れてくる、秋乃の眼差しも潤んでいた。
「あなたの旦那さまは、なんだかとっても察しの良い方のようだから……」
語調にかすかに辛辣な響きを感じたのは、気のせいばかりではなかったのかもしれなかった。
アリシアはまだ問いかけるような視線を少年に向けている。
「先生はキミを育てることに自身の新たな使命をみつけて、そして喜びを感じられていたんですよ……ただ、少しご自身には厳しくありすぎたようです……それがこの奇妙な現象の元になったのだとボクには思えます。自身の現場への思いを封印しようとするあまり、自らの衰えにばかり意識を向けるようになっていった。実際はそうではないのにも関わらず。結果、恐らく高度な自己暗示、セルフマインドコントロール、あるいは自己催眠というような状態へと向かっていったのでしょう、ついには自分自身を老女として認識するようにまでなって。それが原因のひとつ目です……そしてふたつ目の要素というのは……こちらはおそらくこのAQUAの、そしてネオ・ヴェネチアの土地柄からくるものなのかもしれませんが……それが内的要因を補強する外的な要素になったのだと考えています……個人の自己催眠を集団催眠状態へと拡張する、規模の大きな認識阻害を支えていた……こっちは確かな根拠を示すことはできませんけれど……、」
「それをしたのって、もしかしてAQUAの神さま、なのですか?」
アリシアが確かめて、アキトは首肯する。
「つい二日前にも、キミはそのおかげで救われたばっかりでしたね。もう神さまには足を向けては眠れませんね。不信心者のボクはいつも足を向けるばっかりですけれど」
暗に足元深くに鎮座する、夜の儀で出逢った神々の像について仄めかし、
「うん」
アリシアは応えてくったくなく深く頷いた。
「でも、神さまはどうしてグランマの災いになるようなことをしたの? そんな非道いことに手を貸すなんて……」
「ボクは、AQUAの神さまは、きっと人間のことがまだ良くわからないんだと思います……ネオ・ヴェネチアにあるさまざまな不思議……それについてはきっと灯里さんがいちばん詳しいのかもしれないけれど、ボクが知りうる限り、そのどれもが悪意を感じないと云うか、人に仇なすようなものではないことが地球でよくある都市伝説の類との大きな相違点なんです。ボクの育った世界での不思議話というのは、事実かどうかは傍に置いて、大抵が人が死んだり傷ついたり、あるいは行方不明になったりと、とても殺伐としたものでしたから。でもネオ・ヴェネチアでのそれは違う。猫たちのお茶会に招かれたり、昔の世界に迷い込んだり……寧ろ楽しげなメルヘンチックなものの方が多い。神さまたちがちょっとした悪戯を仕掛けたのだとしても罪のない朗らかなものです」
「でも女にとって老いを突きつけられるほど悲しいことはないと思うのだけど……グランマに対して、神さまはとても残酷で意地悪だったと思うわ……」
アリシアが自信なさげに異議を唱えると、
「だから神さまは、ボクたち人間のことをまだ良くわからなくて誤解しているんですよ。キミの命に関わるようなわかりやすい出来事に対しては躊躇いなく手を差し伸べてくれるのに対して、女性の心の機微にまでは理解が及んでいない……とりわけ先生の場合はキミを一人前にすることに心を砕かれていた。自分自身を犠牲にしても、どんなことがあっても立派なプリマ・ウンディーネに育て上げようとされていて……」
「「――!――」」
「ボクは神さまたちが意地悪をしたのではなくて、先生の想いに応えて背中を押してくれていたのだと思います」
「グランマ……」
「そしてキミは、確かに立派なウンディーネとして成長することができた」
「…………」
「参ったわ……降参よ……全てお見通しってワケね……」
秋乃は、孫ほど歳の離れた少年にすっかり脱帽した様子になって言うと、
「こんなにはっきりと現実を突きつけられてしまったんですものね……」
美貌を取り戻したことに、また瞳を潤ませるのだった。
「本当に、なんて人を連れてきてしまったの? アリシア」
秋乃はまた同じ恨み言を口にして思いを伝えていた。
「グランマ……あたしのアキトさんは、とっても賢い人なんです……」
「ええ、良くわかったわ……本当に大した人だこと、うふふっ」
「そんな……ボクはただ、先生の絵を描いている間に気がついただけで……でもこれが、今回の件を通して受けた印象の全てです。事実かどうかまでは分かりませんが……」
アキトはグランマーメイドの天地秋乃を直視した。
地味な服装に身を包んではいるものの、未だ三十代半ばといってもいい妙齢の美女の顔を。
「私ね、アリシアが結婚を口にした時、正直、相手の男のことを恨んだわ……あたしの大切な愛娘のような子を攫っていくように思って。だから、もしその悪い男と顔を合わせることがあったら、きっと懲らしめてあげようってずっと心に決めていたの……アリシアを誑かした極悪人だから……」
秋乃の言葉にアキトは恐縮し、アリシアは申し訳なさそうに苦笑する。
「でも……私の負けね……どうやら、アリシア、あなたはとんでもない相手に見初められてしまったようね……」
「はいっ」
事実上の交際許可が得られて、アリシアは顔を綻ばせる。
「柊アキトさん、だったかしら?」
「はい……」
呼びかけられて少年はすぐに居住いを正した。
「でも……だからってあまりいい気にならないことね、あたしがあなたを嫌いであることには少しも変わりがないんだから――」
普段は温和なグランマらしからぬきつい一言に、アリシアは驚きを感じながらもその裏にある師の思いをしっかり受け止めていた。一方、老成した美女からの宣告にアキトはただただ恐縮して平伏するばかりになるのだった。
「「あらあら、うふふっ」」
新旧二人の美女を前に、少年の顔に戻ったアキトは居心地が悪そうになって、
「では、ボクはこれでお暇させていただきます――」
すごすごと下手から去ろうと立ち上がりかけた。
「冗談じゃないわっ、あなた、アリシアを一人、残していくおつもりなの?」
「でも、ボクは……」
「あなたにはまだまだ糺したいことが山ほどあるの、だからそこでじっとして控えてなさい。もう少ししたらアナスタシアさんもここへいらっしゃるのだから――」
一瞬の間に女性陣との攻守は逆転していた。
「アナスタシア、さん……?」
「あたしのお母さまよ、うふふっ」
「アリシアさんの、お母さまっ?!」
アキトはたちまち蒼ざめる。
秋乃との面会で、なんとか追求を躱しきれたのかと安堵した自分の迂闊さを悔いていた。後手に回り、名誉ある後退の最大のチャンスを逸した挙句、さらにもう一人の難敵を迎えなければならなくなっている。
どんな無理ゲーだよ、と悲憤に天を仰ぎたくなった。まさに想定外の考えうる最悪の展開なのだった。
これじゃまるで、ローマ軍の挟撃で全滅させられた奴隷の反乱軍じゃないか!
磔のスパルタカスにならないためにも、まずは今は自分一人だけでも……。
三十六計――。
「ボク、撤退しますっ」
「アキトさん、逃げるのっ」
「このままでは自滅するだけですから、撤退しますっ、進路反転っ」
「あら、あなたがそのつもりなら、こちらにも考えがあるわ……アリシアっ、東郷ターンで頭を抑えなさいっ」
「ハイ、グランマっ、あたし、アキトさんを絶対に逃したりなんかしませんからっ」
二人の美女に迫られて、アキトの耳には遠く楚の歌が聞こえているのだった。
長く、無駄に長くなりましたこと
お詫びします
少しも18禁らしくないことも
ただ、今節では、アリシアさんがついに大人になる場面を予定していますので、それでご容赦を
こっちの世界線では、今もまだ女の子のままで、ちょっと可哀想にも思うので
そろそろ