ARIA A SECRET SCHOOL DAYS 作:真夜中のミネルヴァ
「……アリシアさんが無事だと分かった時には、代わりに死んでもいいと思うくらい嬉しくて、神さまに感謝しました……私が至らないばかりに大切なお嬢さまを危険に晒すことになって本当に申し訳ありませんでした」
秋乃は深く腰を折って頭を下げる。
「どうか頭を上げてください天地先生、あたくしなんて何も知らずに事件が全て終わった後になって学生から知らされたくらいで、心配すらしていませんでしたので……まったく情けない話です、母親、失格ですね」
「母親失格だなんてそんな……」
二人が直接、顔を合わせるのはおよそ五年ぶりのことである。
アカミラノで海洋生物学会があった際、ネオ・ヴェネチアに立ち寄ることにしたアナスタシアがARIAカンパニーを尋ねて以来のことであった。
彼女はそこで初めて客としてプリマに昇格したばかりのアリシアのゴンドラに乗ったのである。
親娘として再会したのもアリシアがミッドスクールを卒業して以降、それが僅かに二度目のことで、就職以来アリシアの保護を天地秋乃にすっかり委ねていたかたちのアナスタシアにとっては、長らく親としての責任を投げ出していたようで秋乃に対してはもちろんアリシアにも後ろめたさを感じていないわけではなかったのだ。
結果として、自分の手元に置き続けたのでは決して果たし得なかったであろう娘の晴れやかな成長ぶりを前に、改めて秋乃の慧眼に敬意を払うとともに深甚なる感謝を表して久しぶりの再会を喜びあったのだった。
方や秋乃は、ここ二、三ヶ月の間、立て続けにアリシアを見舞うことになった様々なトラブルについて、そして一昨日に起きたとんでもない大事件について自身の責任を謝して、アナスタシアも理解を示していた。
彼女たち二人はアリシアにとっての産みの親であり、また育ての親でもあって、ともに愛してやまない娘の無事と成長に目を細めている。
「あら、すみません、ではお言葉に甘えて――」
無人の駅舎の中でアナスタシア・スターリングは秋乃から手渡された日傘を受け取った。
「ここから家まで少し歩くので、女性の肌に紫外線は毒でしょ? トウキョウと違ってこの辺りには日差しを遮ってくれる高い建物がありませんから」
あたり一面は刈り取りの終わった麦畑が遠く地平線まで広がっていて、遥か彼方に隣の農家の母屋が見えているばかりで人影はなく、時にトンボが近くを掠めていく他には動くものも見えない。
「広々としていて気持ちがいいところですね……こちらはみんな先生の畑なのですか?」
「とんでもない、私はほんの一角をお借りしているだけですよ。トウモロコシやお野菜類、ナスやトマト、長ネギやジャガイモなどといったものを少しばかり……自分で食べる分を作らせていただいていて……」
実際には家庭菜園と呼ぶにはやや規模があり、今では合わせると一反余りの農地を借り受けるまでなっていた。
「でもご自身で育てたものをいただくことができるなんて、羨ましいですね、新鮮なものが常に食卓に並ぶのですから」
「確かにそれはそうですが、始めてみるとよく判るのは農家の皆さんたちのご苦労で、季節、天候を見ながら作付けを考えたり、天気の変化や虫害に備えたりと、本当に大変なお仕事をされていると身をもって知ることになりました。まだまだ学ぶことばかりです」
「たしかに生き物は、なかなか人間の思い通りにはなってくれませんからね……」
庇の外へ一歩踏み出してすぐ、アナスタシアは目を眩しげにして傘を開きながら、
「あら、思っていた以上に本当に日差しが強いのですね……仕事柄、海に出ることもあるので強い日光には慣れているつもりですが……沖に出る時には紫外線避けのクリームを肌にベタベタとこれでもかっていうくらいにぶ厚く塗りたくったりして……そう言えばウンディーネも海の上が仕事場でしたね、みなさん紫外線対策はどのようにされているのですか?」
女性科学者らしい疑問を口にする。
「私たちはそもそも日差しの強くなる季節、時間帯での営業を避けていますが、実はウンディーネには精霊の加護があって……加護なんて言うと、また先生に叱られてしまいそうですけれど……」
「叱るなんてとんでもありません……あの時はたいへん失礼いたしました」
アナスタシアは申し訳なさそうな顔になると会釈をする。秋乃も鷹揚に微笑みを返しながら、
「……その所為でしょうか、特になにもしなくても肌が灼けたりするようなことにはならないんです。でも現役を離れると途端にその加護を失って、皺くちゃのお婆ちゃんになってしまいますけど」
「何をおっしゃいます、そんなにお綺麗ですのに、わたくしもあやかりたいですわ」
「あら、先生の方こそいつもお美しくていらっしゃるのに、アリシアさんの美貌は母親譲りですね、うふふ」
「まぁ、お上手ですこと」
褒められたかたちのアナスタシアもまんざらではない顔をしている。
実際、アリシアと同系統の顔立ちであることには違いない。
白皙の理知的な面差しに、アッシュブロンドの髪は豊かで、緩やかにウェーブをして肩を覆っている。
ただ娘と決定的に違うのは時に見せる眼差し眼光の強さ、鋭さだった。科学者らしく僅かな問題も揺るがせにしない意思を含んで、物事の本質を捉えようと炯々となる。
そのアナスタシアであったが、この日ばかりは
「……それにしても、この惑星にはやはり精霊や神々の加護というのもあるのかもしれないと、あの子の事件の映像を見て思い知らされました……以前のわたくしは、先生に対して随分と不躾なことを申し上げていたように思いますが、今は不明を恥ずかしく感じております……」
「不明だなんて……先生が言われていたように、科学には科学の考え方、捉え方があるというのは、その通りなのだと思います……ただ、それだけではないかもしれない、という点についてどこか心の隅に留めておいていただければと……そしてそれは決して矛盾するものではないと思うのです」
「おっしゃる通りです……できないことをできないと認めること、できることとできないことを知る分別こそ、科学者にとっていちばん必要な態度なのだと思いますから……」
「分別……ですか……難しいですね……私はこの歳になっても分別がなくて、迷ってばかりで……本当に大切なことをいつもアリシアさんから教えられていますので……」
「まさか……先生の口からそのように言われるなんて……」
アナスタシアは恐縮を覗かせるが
「ありがとう、アナスタシアさん、あんなに素晴らしいお嬢さんと巡り合わせて下さって……」
その秋乃の言葉には笑顔で応えた。
それはアリシアの微笑みにも通じるようなやわらかな表情なのだった。
妙齢の美女二人は、日傘を並べてひと気のない静かな農地を横切る小径を歩きながら、互いの近況と、何よりの気掛かりである“娘”、アリシアのことを語りあったのだった。
そして話題は当然、アリシアのフィアンセについて及ぶ。
「あら、その方、今、おみえなんですか――?」
「ええ、申し訳ありません、母親であるあなたを差し置いて、私が先に紹介を受けてしまって……」
「どうかそのようなこと、お気になさらずに、こちらは何もしない、何もできない愚母ですので」
年齢がさほど離れていないこともあって、互いを気遣う言葉のやり取りが自然に行き交う。
「つい先ほど、その方の急な来訪があって、予定になかったものですからこちらも吃驚して……」
「そんな、先生の目から見ても驚かれるような方なのですか?」
「いえ、悪い意味で受け取られては困ります。まずは先入観なく、お引き合わせをした方が良いかと思いますので、今こちらからは何も申し上げない方がいいのかもしれません……」
「はあ……」
秋乃の物言いは、どこか奥歯に物が挟まったような歯切れの悪いもので、アナスタシアの表情は自然に懸念の色を帯びていく。
「ただ一言、見かけに騙されないで下さいね、とだけ……」
「見かけに騙されない――!?」
「ええ、わたしも……いえ、これも余計なことでしたね……まずは先生ご自身でお確かめになってください。母親の目にはどのように映るものか、もしかするとわたくしとは違うかもしれませんので――」
秋乃はアキトと邂逅した際の第一印象を伝えようかとも思ったが、それには及ばぬと言葉を濁した。
「なんだかドキドキしますね、いったいあの娘がどんな相手を選んだのか……」
アナスタシアは少し不安を宿した微笑みを向け、秋乃はそれを穏やかな笑顔で受け止める。
「……あそこに見えるのが我が家です――」
坂道の先の石垣の上に、昔ながらの農家の佇まいで周囲の景色に溶け込むゆったりとした平屋の建物が見えてくる。
「素敵なお家ですね……都会のアパートのせせこましい生活に慣れた者からすると憧れです……」
「広いだけで、一人暮らしにはかえって不便なものですよ。掃除するだけでも大変です。うふふ」
「確かにそうかもしれませんね……ズボラな私には、やっぱり向きません」
「お仕事がお忙しいと、なかなか家事にまでは手が回りませんからね」
それぞれの日常についてひとしきり主婦の会話となってから、
「ところでアナスタシアさんはお昼はまだですよね?」
秋乃は訊いた。
「ええ、お昼前にお伺いするのは失礼かと思ったのですが……」
「大したおもてなしもできませんが……カレーなんて、お好きですか?」
「カレー? カレーライスですか?」
アナスタシアは目を瞬かせる。
いわゆる家庭料理の中でも、自分自身では面倒くさがって自宅では決して作ろうとはしないものの一つだったからだ。
野菜の皮を剥いたり、焼いたり煮たりと手数が多い上に、洗い物もどっさり脂っぽくなって苦労させられる。
大学の食堂ではお馴染みの、そして自宅ではレトルト止まりとなるもの。
「ええ、大好きですけど」
「最初は肉じゃがを拵えようとしていたんですが、“旦那さん”が来てしまったので、アリシアさんと相談して急遽、予定を変更してしまったものですから……」
「はぁ……?!」
なんと応えたらいいものか分からずに曖昧な反応になってしまう。
旦那が来るとカレーになる?
どうにも落ち着かない組み合わせに聞こえるのだ。
そうこうするうちに母屋の縁側が見えてきて、そこにアリシアと男の子がいるのが見えて、彼女はさらに目を丸くするのだった。
まるで仲の良い幼稚園児が二人、並んで縁側の端にちょこんと浅く腰掛けて、互いの手をにぎって罪のない顔でおしゃべりをしているように映ったからだった。
「お花がきれい」「わー、蝶々が飛んでるっ」という会話が今にも聞こえてきそうな雰囲気なのである。
男の子の方はどうみても小学生か中学生の初学年くらいにしか見えない。
十三、四歳ぐらいだろうか?
「あ、あの……」
当然感じる混乱から、アナスタシアは秋乃の表情を窺った。
秋乃からは、やっぱり驚いたでしょ、と言わんばかりの微笑みが読み取れて、
「子供じゃないですかっ――」
思わず非難するような言葉がこぼれていた。
「だから申し上げたのよ、見かけに騙されないでって……」
「そう言われても、あの子、いったい何を考えているのっ、電話では相手は学生だって言ってたけれど、学生じゃなくて生徒、いや学童じゃないっ! まさか子供を相手にしていたなんてっ」
その様子を秋乃は何も言わずに見守っていた。
「違うのですか?」
「まずは先入観を捨てて、それから公平な目でご覧になってから――」
逆に秋乃から科学者としての心得を説かれてしまっていた。
そして――。
このアナスタシアの当惑は、ほどなくして別の意味での当惑へとすっかり置き変わることになるのだった。
ただ、この場面のアリシアさんは、既に肌着を交換させられている、という背景があるのかもしれませんが