ARIA A SECRET SCHOOL DAYS 作:真夜中のミネルヴァ
挙句、今週もホームドラマです
渡る世間になんとやら――の
海うそさま
高評価をいただきましたこと、ありがとうございます。
うっかり見過ごして失礼いたしました。
9点など、大丈夫なのでしょうか?
佐伯ゆうきさま、あともうお一方
お気に入りに加えていただき、ありがとうございました。
ホームドラマ風が続いているので、見限られてしまうだろうなと思っておりましたが……どうしたことでしょう?
ARIAをアダルト化すると、拒絶反応があるかと思っていたのですが、静かに淡々と読み進めていただけているのをありがたく思っています
「……あなたにはカレーなんて別に珍しくもなかったわね――」
「いいえ、これこそが本物のカレーなんですよね、人類がこよなく愛する家庭料理のカレーライスの味……やっぱりすごく美味しいです」
「あらそうぉ? 気に入っていただけて良かったわ」
秋乃は少年の食べっぷりを満足げな様子で眺めている。
アキトは食べ盛りということもあって旺盛な食欲ぶりを見せて健啖な胃袋を満たしていた。
食卓の上には一見簡素ではあるが、カレーの他、炒め茄子の入った赤出汁の味噌汁に、自家製の糠漬け、それに木綿豆腐の冷奴など、慎ましいが昼食として過不足のない食材が並んでいる。
「お漬物も美味しいわ、よく漬かっていて……一流のお店のものにも負けないですね……それにお味噌汁は……これは八丁味噌ですか?」
「あら、アナスタシアさんは流石によくご存知ね」
「ええ、昔、セントラルに居た時に夫と通った大学近くの食堂で時々いただく事があったので、懐かしいわ、こちらではあまり見かけないので。米味噌とは違うコクと香りはAQUAでもきっと好まれると思うのに……」
「そうですね、豆味噌はあまり作られては居ないようですから……私はマンホームの名古屋のお友達に時々、送ってもらっているんですけれど……アナスタシアさんに喜んでもらえてよかったわ」
「名古屋のお友達からですか……それはうらやましいですね」
シニアの二人の間ではひとしきり主婦の会話が行き交っていた。
秋乃はアキトの皿が空になりかけているのに目敏く気がついて
「アキトさん、カレーのお代わりは如何? 遠慮しないでどんどん召し上がって下さいね」
「それじゃあ、お言葉に甘えて……それとお味噌汁もお代わりを。名古屋味噌はボクも初めてで……これすっごく美味しいですね、コクのある酸味が炒めた茄子の旨味を引き立てていて、じんわり胃の腑にしみますよ……」
「まぁ、アキトさん、胃の腑にしみるだなんてオジサンみたいなことを言って、うふふっ」
アリシアが差し出された、きれいに空になったカレー皿の上にまたご飯をたっぷり盛りながら相好をくずした。
「だってボクは味噌汁といえば粉末かブロックを溶かすかしたものぐらいしか食べたことがないから……ああ、これが家庭の味なのかって……カレーも含めて大感動です」
「あら、カレーもお味噌汁もどこのお家でも作るものでしょ? そもそもあなたは本場からお出でになったのだし」
「いやぁ、ボクの前の中学の学食は、それはもう酷かったですから……」
アキトは深刻そうな顔になって話し始めた。
「カレーは誰が作ってもそこそこのものは作れるハズなのに……だってボクらも休日には寮のみんなと自炊することがあって、その時は、カット野菜と肉を大鍋に放り込んで、ブロックのルーを適量加えて、まぁみんなそれなりに満足できるものが作れたんですよ、にもかかわらずウチの学食ときたひには、カレーとは名ばかりの得体の知れないものが提供されているんですから……黄ばんだパッサパサのご飯の上に黄土色をした半透明のドロっとしたものがかかっているだけの……見ようによっては、スライムに半ば消化されかけている薄黄色い物体Xみたいなのが――いったいどうしたらああなるんだろうって、摩訶不思議……セントラルのお嬢さまの灯里さんなら、あれがまさか食べモノだとは思わなくて、エイリアンか妖怪か何かが攻めてきたと思うところでしょうね……」
少年は饒舌に訴えていた。
「あらあら、灯里ちゃんは不思議遭遇率が高そうだから……でも、そんなに変わったものならあたしも一度、見てみたいわね、うふふっ」
アリシアはカレー皿に盛ったご飯の脇にルーをきれいに流し込みながら応じて言った。
「ですから実際、母校の鬼越東中の学食のカレーは悪い意味で付近の中学の間では有名で、肝試しに、とかフザケた理由をつけて忍び込んできた他校の生徒からは“コイツはスゲーや、豚でもおっかながって遠巻きにするぜ”と冷やかされてたくらいでした……ところが、そんな碌でもないものなのに、そう思ってはじめは嘆いていた筈なのに、悲しいことに学校に入って一ヶ月もしないうちにすっかり慣れて、みんなその得体の知れないものを授業を抜け出してまでガツガツ食べるようになる。ボクもその一人でした――ひどく不味いと思うんですけれど空腹には負けちゃって……悲しい話ですよね……」
「そんなに酷いのなら、誰か学校に文句を言って改善してもらおうとしなかったの?」
アナスタシアにしてみれば当然の疑問だった。
「ええ、そうですね。でもこの不味いヤラレ話にはまだ先があるんです。そんなカレーもどきの物体Xが、一年の間に二日間だけまともになる日があって……大きな学校行事である学園祭とか運動会とか一般の利用者を迎える時だけは、普通のどこの食堂でも見られるような茶色みがかった黄色いルーのカレーが提供されるようになるんです。ご飯も白くて茶色い福神漬けもちゃんと添えられてる……コレは普通に美味しく食べられるもので、ボクらは行事そっちのけで食堂に列を作ると、厨房のおばちゃんに、コレ毎日出してよぉ、と必死のお願いするんです。するとカウンターの向こうでおばちゃんはニヤッと笑って、翌日からはまたスライムXに逆戻り――そしてボクらはそれをまたガツガツ食べる毎日が始まる……多分、政府からの助成金の中抜きを食堂側は学校ぐるみで相当程度やってたんだと思います。酷かったのはカレーだけじゃなかったですから。かき揚げうどんにのってるかき揚げは、ただ小麦粉を揚げ固めただけの表面がゴワゴワで中が半生の、生焼きのぬれ煎餅みたいなヤツでしたし、三角サンドに挟んであったのは、ハム、チーズ、たまご、なんて当たりクジは極々僅かで、ほとんどは塩揉みした刻みキュウリやジャガイモだけのマッシュポテトに近いポテトサラダでしたから……みんな、三年間、よく辛抱していたと……そうやって味覚が破壊されて……進学校なのに進学実績が常に区域内第二位に甘んじていたのには、きっとその影響もあったんじゃないかなって、今、振り返ると思うんです……」
話しながらアキトはアリシアから二杯目のカレー皿を受け取ると、嬉しそうに目を細めた。
真っ白で粒立ちのいいきらきらするご飯に、濃い黄色のカレールーがたっぷりかかっている。大きめに形を揃えた具材がルーを纏ってソースの面から顔を覗かせていて、いかにも食欲をそそる見かけをしているのだった。
「これこそが本当の家庭料理のカレーなんですよね……子供の喜ぶ顔を想ってお母さんが丹精込めて作る……」
「そりゃあ、アリシアがあなたに食べて欲しくて、心を込めて、手を抜いたりなんかしないで作ったんだもの、美味しいに決まってるわよね、ね、アリシア?」
秋乃に言われたアリシアは気恥ずかしそうに微笑んだ。
「とっても美味しいですよ、アリシアさん」
アキトがアリシアに礼を言うと、
「良かった、アキトさんに喜んでもらえて」
「「まぁ、ご馳走様――」」
シニアの二人は若い二人の仲の良さを微笑ましげに見遣りながら冷やかすことも忘れなかった。
「でも、お母さまはお料理をされるでしょ? 可愛い子には美味しいものを食べさせたいのが親心だから」
秋乃から訊かれてアキトはちょっと迷った様子を見せるが、
「実はボク……両親がいないので……そういう普通の家庭料理を口にしたことがないんです」
その応えには三人とも驚かされていた。
「あたし、いけないことを伺ってしまったかしら?」
秋乃は丸テーブルの向かいに座るアリシアの顔色を窺いながら問いを重ねる。
「別に大したことじゃないんですけれど……」
「大したことじゃないだなんて……何かご事情があるのね?」
「えーと、特に隠していたわけではないんですが……これまでアリシアさんにも話す機会がなかっただけで……」
傍のアリシアが少し心配そうな顔をして自分を見ているのに微笑みで応えると、
「……実は、ボクはノーマルレベルのプロダクトベビーだったから――」
「「プロダクト、ベビー……?」」
「あなたは人口子宮で育ったというの?」
アナスタシアに確かめられて頷くと、アキトは自身の出自について、淡々と告げるのだった。
地球においては恋愛と生殖の分離が進んでいて、たとえ正規の夫婦間であったとしても必ずしも自然妊娠による出産が行われるわけではなく、人口子宮を利用する場合が一定程度あること、また一方で政府は計画的な人口動態の調整もあって配偶子バンクの中から選択した精子と卵子とを組み合わせて受精させ、同様に培養槽の中でヒトを生産していることなどを。
少年の場合は後者で、タンクで発生を進めて四十週にまで成長させた後、取り出されて乳児院での保育を受け、三歳からは育成園に移されて九年、中学に入学して寮生活を始めるまでは初等教育を含めてそこで過ごしていたというのだった。
「……ボクの誕生時における製造番号は、CBPY87-0815M、これは二千二百八十七年誕生、出生日、八月十五日、男児、を意味するもので、これがボクの最初の戸籍登録名になります、本籍地は千葉バイオロジカルプロダクツ社八幡プラントで――」
新生児に番号をつけるという制度の無機質な建て付けには心理的な抵抗感があってAQUAに生まれ育った三人、特にアリシアには少なからずショックなのだった。
最愛の人が家族、家庭の温もりを知らずに育っていた、ということが。
「マンホームでは生まれた赤ちゃんに番号を割り振るのですか……?」
「そのあたり、やっぱり驚きますか? でも社会保障番号登録がそもそもそうしたものですから、それにすぐに胎児成長支援知能によって柊アキトと命名されたので、自然分娩の赤ちゃんとそんなに違わないとも思うのですけれど……その後、卒園時にボクには今一度、改名の機会はあったのですがその必要も感じなかったので今もこの名前になっています」
「「「………」」」
「それから好ましい形質発現を期待して遺伝子操作をされているのではないので“デザイナーズ”ではありません。ですからご覧の通りに何もかもが凡庸で――」
そう言って笑うが、聞いていた三人の表情には当惑が作られていた。
しかしそれは当然のことだったのかもしれない。
ただし自分たちとは異なるものへの忌避感などではなく、単にAQUAでは誰にとっても普通のことである親子関係が少年には当てはまらないこと、親を知らず、親の愛を受けずに育ったアキトに対してどのような顔をして接したら良いものか迷いを感じていたからでもあった。
他方、杓子定規の浅い道徳観から軽々に不幸と断じたり、また憐憫を感じるのもいささか独善的で思い上がっているようでもあって、どんな言葉をかけるべきか俄かに計りかねていたのである。
「そんなに心配そうな顔をされないで下さい。ボクはいたってハッピーでしたから。AQUAの方が驚かれるのは分かりますが、人工育成も悪い事ばかりではないんですよ。地球では実の親からネグレクトされたり虐待を受けて育つ子供は今も一定数いますけれど、人工の場合は国が管理するのでそのようなことにはなりませんし、ボクらの保育アンドロイドのマザー・イザベラは優しくて賢くて、とてもステキな“人”でしたから。人間の旦那さんも居て、子供心にも彼にはちょっと妬けるくらいに」
アキトの物言いには屈折したところはなく、それで三人もいきなりの告白への動揺から立て直して少年の話に素直に耳を傾けられるようになっていくのだった。
「確かにあなたを見ていて、生育環境に問題があったとは思えないけれど……」
「マンホームでは人工子宮が医療用途以外にも一般にまで普及していることは知っているわ。確かに女性にとって妊娠と出産は心身にとても負荷がかかるものだから、それから解放されたいというのもわからなくはない……でも、負担を負うからこそ子供を得る喜びも大きいと思うから……」
アナスタシアは向かいに座るアリシアの顔を真っ直ぐに見て訴える。
「ボクもそう思います。でも、産む性である女性に選択肢が拡がったと考えれば……子供のために自分のやりたいことを犠牲にせずに生きるという……敢えて親にはならないという選択ですね……これは認めてあげてもいいのではないかな、とも……すみません、つい余計なことを言ってしまって。ご飯があんまり美味しかったものだから、ボクもうっかりして口を滑らせてしまいました……ごめんなさいアリシアさん、ボク、キミに自分の出自を隠していたわけじゃないんだけど……でも、無理矢理に伝えることでもないと思っていて……だから今が丁度いいきっかけだったのかもしれませんね。もしかして、引いちゃったかな?」
「ううん、そんなことないわ……ただ、ちょっとだけびっくりしただけ……だけど、アキトさんのご両親には私からご挨拶に伺わなければと思っていたから……それができなくなって……」
微笑む、やや翳りのある顔になって。
「それならイザベラママが居ますよ。“彼女”がボクの母親代わりだから……」
「イザベラ、ママ……」
「キミに似て、心のやさしいとても綺麗で素敵な人です、いつか紹介出来るといいですね」
「まあ……」
アンドロイドが母親というのに今一つリアリティを感じられず、アリシアはどんな顔をしたものかと、ただ目を丸くしている。
「アリシア、あなたはアンドロイドをまだ見たことがないのよね?」
「はい……いえ……ありますけれど……“おひとり”だけですが……」
朝顔を思い出していた。
自分を守って破壊されてしまった気の毒なアンドロイドのことを。
機械であっても感情があるように見えて、とても人間くさい、というか、自分に暴力を振るおうとしていた男たちに比べると遥かに人間らしくて、そして灯里たちと同様に愛おしかった。
「あらそう? でもAQUAでは殆ど普及していないから珍しいわよね? ただマンホームではもう既に普通に人間社会に溶け込んでいるわ。わたしが学生時代からラボにはアンドロイドが二割ぐらい居たし、その中にはテクニシャンではなくて“研究者”も居たくらいだったから――」
「そうですね……それにアンドロイドと人間との境目はますます曖昧になってきていますから……アンドロイドの仕様にもいろいろあって、負荷のかかる動作環境では金属製の大型ロボットのような姿になりますが、人間と接点の多い環境ではほとんど見分けがつかない外見をしている場合が多いんです。とりわけ生体モデルだと異なるのは脳だけだったりして……一方、人間の方は体を人工組織に置き換えて、それが脳の一部にまで及んだりすると、両者の違いは生まれた時から脳神経組織を使っていたかそうではないかぐらいの違いになってしまう……ましてや生殖機能まで持つようになると、もはや人間との違いは何も無いと言っても過言ではないのかもしれません……あるいは人間の方が生命であることを止めようとしているということなのかも……」
「それは、生命の定義にも関わる重要な指摘ね――」
海洋生物学者であるアナスタシアが拘りを覗かせると、アキトも深く頷くのだった。
それからしばらくは生物、生命に関するかなり専門的なやりとりがちゃぶ台の上を行き交うことになる。
アナスタシアが驚かされたのは少年の持つ知識の豊富さ、正確さと、思考の健全さだった。
「……それでマクロである分、人間が介在できる余地がまだあるとお考えになったのですか?」
アキトの質問に、アナスタシアは炯眼を鋭く煌めかせ
「あなた本当に十五歳? 驚いたわ……」
「そのつもりですが……」
少年は困った時に見せる、バツの悪そうな笑顔になって頭を掻いた。
「アリシア、彼の今の質問の本意がわかって?」
娘に質した。
アリシアは当惑した容子で首を横にふる。
「お母さまがインドアからアウトドアへと研究のフィールドを移したのは、お父さまの近くでお仕事を続けたかったからではなかったのですか?」
「確かにそれも理由の一つではあったけれど……あなた、今、代謝生理の講義を取っていると言ってたけど、誰の授業を聴いているの?」
「えーと、ドーソン先生です」
「ドーソン? どっちのドーソン? ミドルネームがWか、それともDの方?」
「オスカー・D・ドーソン先生ですけれど……」
「ドワイト・ドーソン……あの、ほら吹きドーソンか――」
吐き捨てると、疎ましげに顔を顰める。
アリシアの同系統の美貌がこうした顔をするのを見ると、アリシアにもこのような表情ができるのだろうかと、アキトは興味深げにアナスタシアの様子を眺めていた。
「どうせ話を聴くならホワイティングの方になさい」
「ホワイティング先生?!」
「ドワイト・ドーソンの兄のホワイティング・ドーソンよ。彼は比較生理をやってるの。少し分野は違うけど、代謝生理の話ならさして差はないから」
「でも、ドーソン先生は立派な先生ですよ、次の学部長の指名も受けているそうで……」
「フンっ、あんなくわせ者が幅を利かせているからあの大学はダメなのよっ、あーあ、あなたが変なことを言うから、イヤなことまた思い出しちゃったじゃない」
八つ当たりをしているともとれる反応に、アリシアが箸を止めて母親の顔を当惑した容子で窺っていると、
「きっと先生には何か事情があるんだよ」
アキトが間を取り持った。
「ごめんなさい、あなたまで驚かせてしまって……」
心遣いにアナスタシアはアキトに会釈を返している。
「DD、ドワイト・ドーソンは生理第二時代の先輩だったのよ……えっと変なこと想像しないでね、別に男女のもつれとか、そんなんじゃ全然ないんだからっ、その頃には既に私はアドと結婚していたし――」
アド、アデリー・フローレンスはアリシアの父親で地質学者だったが、彼女が五歳の時に調査中の事故で亡くなっていた。
「キングマンのラボで仕事するようになって、すぐに判ったのは名前は通っていたけれど内実ははなはだお寒い現状だったってこと。J・P・キングマンは確かに若い頃はいい仕事を幾つも発表していたけれど、中年期以降の彼は科学者というよりも学内政治の方に関心が向かっているようだったから。とりわけ『網羅プロジェクト』を始めた頃にはもう完全に手段の方が目的化していたわ」
「全分子挙動網羅プロジェクトですか……」
アキトも以前、その取り組みについては耳にしたことがあった。
細胞内に存在するタンパク質、脂質、糖、その他全ての分子に放射光ラベルをして挙動をトレースしようという壮大なプロジェクトのことを。
「できっこないって、科学者なら口にすべきではないのは判っているけれど、でも、あれはそもそも無理な計画だったのよ。全分子にアイソトープでラベルしようだなんて、そもそも利用可能な核種は限られているのにどうやってするの? 何も見分けがつかないまま、ただバックグラウンドノイズが大きくなるだけでしょ」
「いきなり全ての分子にではなくて、ひとつひとつ潰していくつもりだったようですけれど……」
「ひとつひとつね……でもそれが何種類あると思う?」
「さて、ペプチドの断片まで加えたら……」
事実上、無数、というのがしごく穏当な答えだっただろう。
そもそもひとつひとつの分子の働きは重要だが、挙動にはほとんど意味がない、というのが現在の主流の捉え方である。
この重要だが無意味、という撞着する性質に頭を悩ませているのが生命科学のフロントラインの現状なのだ。
それをアキトはイザベラから幼い疑問に答える形で紹介されて知っていた。
「彼はね、プロジェクトは大成功――と胸を張ったけど、その後は問題が指摘されるたびに修正を続けて、十年以上にもわたって微修正だと言い張り続けた結果、殆どめぼしい成果もなくプロジェクトは終了したわ。でもね、彼は学科長の席に長く居座り続けることができたし、アカデミーの会員にも選ばれた。個人的野心を満たすためには研究は役に立ったわけね。そして今、それとおんなじことをやろうとしているのが、DDよ。人工細胞計画ですって! 冗談じゃないっ!」
「それってアリゾナ砂漠の地下の巨大な空洞、地底湖を培養プールにしようとかって話ですよね?」
「アキトくんはやっぱりご存じね、アイツ、プールで上手くいかなかったのは単にスケールの問題だったからということにして、もっと巨大な培養槽に直径二キロの人工細胞をでっち上げようとしているのよ、自己組織化を一秒以上維持するのを目標にって話だけど、作ってる側から溶けるのが分かってるのに……ただ無秩序に拡散するのを観察するために四年総額二億クレジットも注ぎ込むっていうんだから……師匠ともども、大風呂敷を広げるのが大好きな穀潰しのフダ付きよ、あのラボにいたらまともな学位論文なんてまとまる筈がなかったわ。あたしがキングマンのラボを見限って
アキトは恐々頷くと、アナスタシアは返す刀で、
「アリシア、あんたはなんであんなろくでなしの講義なんて聴く気になったの?」
「それは……」
アリシアは躊躇いを覗かせながら
「あの……それは……ロストフ先生から、薦められて……」
大学進学を決めた後、“ウンディーネ”としての姉であるアザリー・ロストフと再会した際に彼女から薦められたのだった。
ただ“夜の儀”での繋がりについては母親にも説明しづらいのだ。
「ロストフ先生? 誰?」
「……生命科学者で……ヤゲーウォ大の先生をしておられる……」
「アザリー・ロストフっ!? あなた、彼女を知ってるのっ?」
剣幕からまるで叱られたように感じてアリシアは身を竦めた。
「彼女は優秀な研究者よ……あの若さで、多分、近く学術委員会のメンバーに推されるわね……実力も才能もある、おまけにハートもしっかりしているから……この国を代表する研究者の一人だわ……あんなスターといったいどこで知り合ったの?」
「そんなに偉い方なんですか?」
アリシアにしてみれば、裸のお付き合いをしたこともあり、親しみを感じる“姉”だったが、業績にまで通じているわけではなく、先輩の言葉として素直に従っただけなのだった。
「私に言わせれば、ドーソン弟とは真逆のタイプの科学者よ。再生学研究では間違いなく世界的フロントランナーの一人。実験発生学の古典的手法で、関与する遺伝子の殆ど無数にある組み合わせを粘り強く解きほぐしていった……きっとあたしだったら途中で投げ出していたわね。こんなの無理よっ、できっこないって音をあげて、でも彼女は決して恵まれた研究環境には居なかったにもかかわらず、ほぼ独力でそれをやり遂げたのよ、凄い執念だわ……」
「そんなに偉い先生だったんですか……」
アリシアの目に映るロストフ博士は、気さくで冗談好きの、肩肘を張らずに話ができる素敵な姉貴分なのだった。
その印象との落差には戸惑いを感じるほど。
「でも、なぜ彼女はドーソンなんかの授業をあなたに薦めたのかしら……?」
アナスタシアはいかにも解せん――という顔をして独言た。
「きっとアリシアさんになら、問題に気がつく、ってそう思われたのではありませんか?」
アキトが助け舟を出すと
「人を疑うのがあまり得意じゃないこの子に――? 真っ先に染まっておかしな方向に突っ走りそうに見えるけど……」
「アナスタシアさん、お母さまの目には頼りなく映るのかもしれませんが、アリシアさんはしっかりした娘さんですよ」
秋乃も口添えをして、アナスタシアも一旦は矛を収めた形になるのだった。
だが――。
「それにしても……驚いたわね……ねぇアキトくん、ハイスクールを卒業したらウチに来ない?」
「は――!?」
「あなたなら、きっといい研究者になれるわよ。うちのボンクラ娘よりもよっぽどスジが良さそうだから――」
ニッコリと白い歯並みの凄艶な美貌を見せつけて言う。
人類の恋人、アリシア・フローレンスをボンクラ呼ばわりできるのは世界でたった一人しかいなかっただろう。
アナスタシアはその権利を行使して愛娘を罵倒すると、あろうことかその夫となる若い才能にはっきり秋波を送ってきたのである。
「あ、あのっ……ボクには科学者はとても務まるとは思えないので……」
少年はしどろもどろになり、それまで和気藹々とした食卓が、俄かにデンジャラスゾーンへと変貌したのを感じていた。
ひとつ間違えると、最悪の結果を招く――。
「お母さまっ、あたしのアキトさんを困らせないで下さいっ!」
危うくなりかけた気配に気がついたのかアリシアが割って入り、その瞬間、少年には傍らのアリシアの姿が救いの女神になって映っていた。
「アリシアさん……」
アリシアはアキトの手をしっかり握る。
ここで止めておけば事態はこのまま沈静化したのかもしれなかった。しかしこの女神さまは一言、余計なことを口にしていた。
「アキトさんを見つけたのはあたしなんですからっ――」
迂闊にも権利を主張したのである。母親相手に対決の姿勢を示してしまったのだ。
これを受けてアナスタシアも
「まあいいわ……今はそういうことにしておいてあげる――」
事実上、娘への宣戦布告とも受け取れる母からのもの云いだった。
そして、話はそれだけでは終わらなかったのだ。
「あら、そういうお話なら、あたしも――」
秋乃も艶然と微笑みかけてきて、
「アキトさんは才能に溢れたとても素敵な男の子だから、私も興味があるわね。なんといっても悪い魔法を解いてくれた恩人でもあるし――」
「グランマまで――!」
アリシアも普段の玲瓏な落ち着きを失って、黄色い声をあげていた。
「だって一人より二人、二人より三人の方がいろいろと賑やかになって楽しいでしょ? うふふっ」
「たしかに……アキトくんにはそういう機会をあげてもいいのかもしれませんね……大人として――」
「いったい何をおっしゃってるのですか? なんの機会です、お母さまっ! グランマっ!」
ますます雲行きが怪しくなってきて、
「……あの……食事が済んだことですし……ボク、そろそろお暇を……」
「アキトさんはそこでじっとしてて下さいっ!」
時ならぬ剣幕でアリシアに命じられて、少年は縮み上がっていた。
アリシア本人に、アリシア母、そしてグランマ――。
三人の美女に周りを囲まれて四面楚歌どころか、孤立無縁の事態に陥った過去――舞浜メルヘンランド事件――の忌まわしい記憶が蘇ってきた。
あの時も
「にゃーはにゃんにも悪いことにゃんかしてにゃーのに……」
不条理な理由で吊し上げをくらったのだった。
少年の全身からはどっと冷たいイヤな汗が吹き出していた。
例によって無駄に長くて申し訳ありません
そろそろ濡れ場を設けようかとも思っていたのですが……
追伸
時にタイムリーな小ネタを差し込んではおりますものの、ストーリーやキャラの背景もあまりわからずに描き進めており、憎っくきアキトの出自も、描いていて、へー、おまえそうだったのかと今更ながらに知ったわけで、先行き不明のままに書き写している感覚は変わりません。
もちろん、現地時間(笑)今夜、アリシアさんとアキトくんは“初夜”を迎えることになりそうなのですが、そこまでの過程と経過もわかりません。本人たち次第、なので――。いいラブラブなシーンを見せてくれることを期待してます。