ARIA A SECRET SCHOOL DAYS 作:真夜中のミネルヴァ
覗きにきていただいた方々には、お詫び申し上げます。
今週もまた、ホームドラマが続きますが……
「……残念でしたっ、お母さまの大学は女子大ですからアキトさんは入学できませんっ、だってアキトさんは男の子なんですからっ」
ちゃぶ台の上には食後のデザートとして、ガラス容器に盛られた冷たくひやした梅酒ゼリーがそれぞれの前に配されているが、いまその上を母と娘のホットな言葉が行き交っている。
「愚かな娘、誰が学生になれだなんて言ったの? あたしはウチのラボに来なさいって誘っただけよ、教職員として――」
「え――?!」
「職員には男女の別はないわ。そうね、まずは研究助手か技術員で採用するように手続きを取ろうかしら、研究室はいつも人手が足りないからそういう専門職員は常に大歓迎なのよ、水槽の清掃や給餌、機器のメンテナンスだけでもひと仕事になるし。それに彼ならバッファーでもストックソリューションでもすぐに調整できるようになるから、きっとラボのみんなも大助かりだわ。授業はあなたみたいにヴァーチャルで好きな大学の講義をとればいいだけだし……ハーバードでもMITでもプリンストンでも、オックスブリッジや、セントラルに筑波、アキトくんならきっとよりどりみどり……ねぇアキトくん、職員であればまぁそんなに多額ではないけれどお給料も出るし、それにドミトリーも提供されるからアパートを借りる必要もないし、食事は学食を利用すれば市価の半値ぐらいで口を与けられるから、お金に不自由を感じることはないと思うの」
「お金を……もらって……勉強ができるんですか……」
生まれながらの一型金欠乏症という難病を患らうアキトには夢のような話なのだった。奨学金などという少額の対症療法ではとても根治は望めない。かねがね、ステージ4、貧乏の毒が頭にまわる前に、何とか特効薬による根本治療を受けなければと思っていただけに、目の前の視界が希望にパッと明るく開けたような感覚になっていたのだった。
「アキトさんっ、お母さまの誘惑に簡単にのせられないでくださいっ」
アリシアの抗議を遮ってアナスタシアは続ける。
「そうよ、それにウチの学食のカフェテリアは女子大だけにおしゃれよぉ、フレンチにイタリアンに中華、お寿司に天ぷら、すき焼きにステーキもあるから。もちろんハンバーガーやチェリーパイ、お好み焼きにホットドッグだって……そうね……アキトくんはコロッケカレーは好きよね? ウチだと1クレジットで食べられるわよ」
「コロッケカレーが1クレジットなんですかっ!」
今の学食よりも女子大の方がずっと安価であることに驚いていた。メニューの豊富さも想像するだけで胸が踊るのだ。
カジュアルなカフェレストランの窓際に座って大都会の景色を眺めながら、地獄のように熱くて濃いブラックコーヒーを喫しつつ、傍らには紫色をしたアメリカンチェリーパイ。
まさしく“ダムファインコーフィー”なシチュエーションになるではないか! と。
「コロッケカレーぐらい、あたしが毎日でもつくってあげますっ! もうっ!」
隣から上がった時ならぬ抗議の言葉に、刹那の甘い妄想から我に返った少年は、敷いていた座布団がいきなり針の筵となったように感じて
「あ、あのっ、秋乃先生、お湯をいただいてもよろしいでしょうか?」
鉄火場になりかけた居間から距離を置こうとする。
「いいけど何に使うの?」
「コーヒーを淹れようかと」
「あら、気がつかなくてごめんなさい、アキトさんコーヒー党だったのね。それならウチにもあるからいま用意するわね」
が、立ち上がりかけた秋乃を制して少年はそそくさと立ち上がり、
「いえ、スティックのコーヒーを持っているので、お湯をいただれば大丈夫です、どうかお構いなく」
キッチンへと足を向けるのだった。
すると
「コーヒーならあたしが淹れますっ」
アリシアも後を追って居間から出ていってしまう。
居間に残った二人は意味ありげな視線を交わしてほくそ笑んだ。
「ちょっと薬が効き過ぎてしまったかしら? うふふっ、でもあの子があんなにムキになるなんて初めて」
「あたしもです、いつもはおっとりとしているお嬢さんですから、少しびっくりしました。ああ、アリシアさんにもこんな面があったのね、と」
居間からは、キッチンでコーヒーの支度を始める二人が見えていた。いかにも仲良さげに、はしゃぐ後ろ姿にも娘の喜びが伝わってくる。
手にした二種類のコーヒー豆のパックを示してアキトに豆を選ばせているようであるが、どうやらアリシアが意地悪をしてアキトが指した方を背中に隠して、キャッキャ、うふふと笑い転げていた。
それに抗議する少年の声も温かで優しい。
若い恋人たちの幸せそうな声が届いて、アナスタシアと秋乃の顔にはともに穏やかな表情が作られている。
「あの子には驚かされました……」
アナスタシアが諦めまじりの感想を漏らした。
「ええ、でも今日はずっとあんな具合でしたよ……”旦那さん”がお見えになってからは、片時も側を離れようとはされなくて……きっととても怖い思いをした後だったから、大好きな人のことが恋しくてたまらないんでしょうね」
「いえ、あたしが驚いたと云ったのはアキトくんの方です……彼、自分のことをノーマルプロダクトだなんて云ってましたけど、一体どこがノーマルなものだか……あれは……」
アナスタシアは一呼吸おいてから秋乃に目線を向けると
「……本当にあの子はただ事じゃない……あの子は紛れもなく天才ですよ、おそらくIQは百四十を超えるギフテッド、数百人に一人の恵まれた資質を持って生まれてきた……」
「やはりそうですか……とても頭のいい男の子だというのは感じておりましたけれど、先生が仰るのでしたら間違いありませんね」
「いえ、わたくしも専門ではないので迂闊な物言いは控えなければなりませんが……ああ、このゼリーとても美味しいです、上品な甘みと爽やかな酸味が心地が良くて、ご馳走責めですっかりお腹がいっぱいだった筈なのですが、スルスルと喉を通っていきますね」
「ご馳走だなんて、お粗末さまです」
アナスタシアは甘酸っぱい梅酒のゼリーを口に運びながら、科学がたどり着いた現状について簡単になぞっていった。
その上でアキトの配偶子供与者が、そもそも優れていた可能性についても触れる。
「……接した限りでは知能や才能の人為的な制御というのは大変難しいのだそうです。遺伝子を操作すると云っても、人にできることは精々のところ人工交配とそれほど違わないのだとも……例えば遺伝性疾患の発症のリスクを抑えることが出来れば上々で、それ以外のことになると途端に難しくなる。むしろ期待通りになることの方が稀で、デザイナーズという言葉が皮肉に聞こえるくらいに、実際は当たるも八卦の神頼みになるものなのだそうです。ですからギフテッド……神様からの贈り物、という話になるわけで……」
アナスタシアは人間の発生については専門外ではあったが、それでも同じ生物学という近傍分野に居ることから多少は知識があり、その課題と問題点についての概略を手短に秋乃に語るのだった。
「……遺伝子は生命の設計図ではなかったのですか?」
「一般では多くの方が今もそのように思われているようですが、実際はかなり違います。仮に人体を大企業や軍隊に準えると、上でいかに号令をかけても現場が動かなければどうにもならないという意味で、遺伝情報とはトップの意向程度の重みしかないのです。遺伝子の発現と表現形の間には途方もない距離があるので……しかも原因と結果が果てしなくループしていて、こうなると全体を見渡して統括するものがあるのかどうかさえもが曖昧になってしまう……」
「でも、遺伝子が同じ一卵性の双生児はそっくりになるじゃありませんか」
秋乃は素人が抱える当然の疑問を投げかける。
「そうですね、だから不思議なんです。なぜあれほど途轍もなく複雑な化学反応のネットワークがそれぞれ独立して動きながら、最後にはほとんど同じ形に収束するのだろうか、と……これは驚くべきことなんですよ……生命については人類は未だにブラックボックスで……その意味では、重力石で手痛い挫折を味わい尻尾を巻く遥か以前に、私たち人類の理性は既に一敗地に塗れていたということなのかもしれません……」
「……なんだか、先程までのお話と繋がるものがあるようですね……」
「ええ……だから彼には驚きました……本当にあれは……先生がおっしゃられていたように、あの見かけには騙されないようにしないと……あのバカ娘のことだから、おかしな男にひっかかってとんでもないことにならないかとずっと案じていましたが……」
科学者から母親の顔に戻ると安堵を覗かせながら言った。
秋乃もまた、アナスタシアがアキトに対して自分と同じような印象を得ていることに特別な感慨を抱いていた。
それはアリシアが、巡り逢うべき相手と巡り逢うことができたのだという確信――そう言えるものなのだろうと思うのだ。
自分たち二人の“親”たちの度肝を抜いても事も無げに、なお慎ましく自らを見失わずにいる少年には、かつてアリシアと出会ったときのものにも通じるいい意味での胸を突くような衝撃があったのだった。
「……科学においてはしばしば、問いを立てる方が課題そのものを解くよりも重要である場合があります……あるいはそちらの方こそ科学の本質と言えるのかもしれません……例えば人が何かを目にしたり聞いたりしても大抵の場合、ただそのままやり過ごしてしまう。そうですね……まぁこれは尤もらしく脚色されたお話らしいのですが、人類は長らくリンゴが落ちるのを見ても、それが当然のことだとして誰も不思議には思わなかった。先生もご存知ですよね?」
「ええ、科学には疎い私ですが、さすがにそれは存じております」
「でも、ニュートンはそこに問いを投げかけました……結果として彼はその問いに自ら答えを導くことになるのですが、そもそも気づきがなければ始まらなかったことです」
秋乃は納得して頷くと、
「気づきがあるかどうか、ですか……それは、私たちにも覚えがあることかもしれません。才能やセンスとは、言い換えるときっとそういうことなのでしょうから……」
伝えても伝わらない、という経験は、多くの後輩たちと接してきた指導者としての過去とも重なるものがあるのだった。
気づき――とは、アリシアや灯里が特別だっただけで、もしかするとごくひとにぎりの人が備えた特別なものだったのかもしれず、自分を含めて誰もが難なく辿り着けるものではなかったのだと今更ながらに思うのだった。
「そうなんです。ですから科学者は、現象における“気づき”を大切にするためのトレーニングを積んだ者たちとも言えるのですが、稀にそうしたものを身に備えているものがいます。それこそ科学者としての才能に恵まれたものが……あたくしには、アキトくんはそれを持って生まれてきたように思えるのです。さもなければ、仮にいくらアンドロイドのチューダーは人類知の全てにアクセスできるのだとしても、投げかけられる問いが陳腐なものであれば、良質な回答を与えることはなかったでしょう。子供に広がりや膨らみのある深い知識を持たせることなど出来はしなかった……ましてや彼が今たどり着いているところは、基礎的には我々が寄って立つところと殆ど同じだと言っても過言ではない……それをわずか十五歳の男の子がはたしている、これがどれほど特筆すべきことか、彼がいかに価値のある問いを重ね続けてきたか、その明瞭な証左となるものなのです……」
アナスタシアはすっかりしてやられた、というように頭を振った。
「彼の才能をこのままにしてしまうのが惜しくて……なんとかしなければと、つい思ってしまったものですから……」
苦笑する。
研究者であるとともに、教育者、指導者でもあるアナスタシアは、若い才能に気づいてしまった以上、見過ごすことを潔しとしなかったのだった。
確かにアキトに秋波を送ったのは、親に内緒で勝手を働く娘への意趣返しの意味もあったのだが、自身のラボに招きたいと思ったのは本音だったのだと。
「なるほど……おっしゃられることは良くわかります……ただアキトさんの才能、というのであれば……やはり先生にもこれをお見せした方がいいのかもしれませんね……」
秋乃は背にした棚に立てかけてあったスケッチブックを取ると
「……これは彼から手土産代わりということで、ついさっき戴いたものなのですが……先生もご覧になってみてください……」
アナスタシアに差し出した。
「これは……?」
広げた途端、アナスタシアの目が驚きに見開かれる。
「……これは……これ……あの子が描いたのですか……?」
秋乃は首肯する。
「それも、図書館で私の昔のアーカイブ映像を、たった一度、見ただけで……」
「――!――」
「ずいぶん盛ってくれているものですから、こちらとしては気恥ずかしい限りなのですが……」
アキトはただ見たままを描いたと主張していたが、描かれた側としては到底、信じられない出来栄えなのだった。
「美しい……先生そのものではありませんか……」
ただ一度、目にしたものをここまで精緻に正確に描き切ることが、どれほど特異な能力であることか、しかも、頭の中で再構成していたのだとすると――。
たとえ美術には覚えがなくても、それが途方もない才能であることぐらいは判るのだった。
科学においても芸術においても、甲乙つけ難いほどの資質を持った男の子――。
娘の選んだ相手が特別であることは、もはやどこにも疑いをさし挟む余地などなかった。
二人の母は、互いにすっかり納得した様子になってしばし視線を交えている。
そしてキッチンに顔を向け、コーヒーを淹れる幸せそうな二人を満足げに見遣るのだった。
「それにしても大変だわ……うちの娘は、いつもこんな目を持った相手から見つめられているなんて……」
アナスタシアはスケッチに視線を落としてから秋乃を仰いで言った。
「そうですね……」
「高精細のカメラで常に観察されている――」
半ば冗談まじりの物言いを一つ、大きなため息を吐く。
「でも……アリシアさんにそのことを聞いたら、気にしたことはないと言われていましたよ……彼の眼差しはいつでも、とても温かくて優しいから、まるでおひさまの中にいるようだから、と――」
それを聞いてアナスタシアはクスリ、と鼻を鳴らした。
「どうやら私たちの完敗みたいですね……ちょっと癪ですけれど……」
そう云う顔は晴れやかで、少しも悔しげには見えないのだった。
「私も、初めはアキトさんに恨み言の一つも言ってやるつもりでいましたけれど……」
秋乃も同意するように肩を竦めた。
「あの子にしては上出来……これもきっと先生の日頃のご指導の賜物なのですね」
「何を仰います、お嬢さまは先生同様、とても賢くて聡明な方ですから……ただ私は横に居ただけですので……」
「いいえ、今のあの子があるのは先生のお陰であることはよく存じておりますので……母親として、自分は何もしてあげられなかったですから……」
アナスタシアが頭を下げると、秋乃は色を失って
「どうか頭を上げてください……本当にわたしは何もしてはおりませんので、全ては彼女が、アリシアさんがご自身の才能と能力を伸ばす努力の結果なのです……アキトさんのことは……強いていえばアリシアさんはこのAQUAの精霊たちから愛されて、加護を受けているからこそ、石が招いて二人を引き合わせてくれたのだろうと……今、あたしはそんな風に思っています」
「石が、招いた……ですか……」
AQUAで良く唱えられる言葉で、アナスタシアは科学者としての忸怩があってあまり口にすることはなかったが、改めてその意味を噛み締めていた。
「そうなのかもしれませんね……」
深く頷く。
キッチンから、またコロコロとアリシアの笑い声が聞こえてくると、二人の母は自然に目配せをして苦笑し合った。
「あの子が、あんなに嬉しそうにするのを見るのは初めてかもしれません……恥ずかしながら……」
「あら、あたくしも同じですよ……」
「幸せ、なんですよね、あの子……」
「ええ……それは、間違いなく――」
「よかった……」
それは親になってこそ知る、娘の幸せがもたらす幸福――なのだった。