ARIA A SECRET SCHOOL DAYS 作:真夜中のミネルヴァ
1
終業チャイムが鳴って、アリシア・フローレンスは板書の書きかけを手早く仕上げると体を捻って生徒たちを振り返った。
細い腰を中心に胸からお尻にかけての凹凸が一段と強調されて、ジャケットを通しても見事に八の字を描いているのがうかがえる。
「どうする? 今日はここまで? それとも区切りのいいところまでもう少しだけつきあってくれるかしら? あと二、三行ぐらいだけど……」
清潔感のある淡いクリーム色のジャケットの背中で長い金髪がサラサラと流れていた。
学生時代はフィッシュボーンに編みこんでいた豊かな髪を、教師として奉職した今はより手入れのしやすいように自然なロングストレートにしている。
「五分くらいの延長になるけど……」
行儀のいい生徒たちはチャイムが鳴っても彼女がおしまいにする、と言うまで教科書を閉じずに大人しくしている。が、一瞬、静寂が支配した教室に、ゴロゴロゴロと、誰かのお腹が盛大に鳴いて、教室がどっと笑いにつつまれた。
「誰だよぉ、またグッチャンかぁっ!」と叫ぶ声、「俺じゃねぇよっ!」と応じる声。
緊張感が一気に破られて、アリシアは、
「仕方がないわね、もうお終いにするわ」
折れることにした。
一方で、内心、ちょっとホッとしてもいるのだった。
というのも今日はこの後、昼食の約束をしていたからだ。
楽しみでもあり、また気がかりでもあるデートの約束を。
いささか古風な、また彼女が感心している習慣でもある授業終了の儀礼を済ませると、みな一斉に待ちかねたように教科書を机の中にしまい始めた。
おもいおもいに昼食の用意にとりかかる。あるものは鞄の中からいそいそと弁当箱を取りだし、またあるものは仲間と連れだって学生食堂を目指して教室を出ていく。
アリシアはチョークをおくと、ハンカチで額に浮いた汗とチョークに白くなった指先をきれいに拭った。
貼りついていたほつれ毛を左右に分けて整え、広い額を面にする。
整った鼻梁の白い瓜実顔。
知的な美貌をしているが、目と眉が彼女固有のパーソナリティと言うべき穏和な性格を印象づけている。
いつでも頬笑みをたたえているような口許、心の裡を映すように、光の加減によって快活な明るいグリーンになったり、メランコリックな深いマリンブルーに変わったりする大きな碧い瞳、天に懸かる三日月のようにくっきりと美しいカーブを描いている眉。
コットンの白いハンカチがなぞるおとがいの線は細く見るからに清らで、蒼を沈めたような白い喉もとの輝きはひっそりと神秘をたたえているようだった。
輝くばかりの美貌とセックスレスの清楚な威厳は教職員、生徒、男女の別なく目を惹かずにはおかない魅力に溢れている。
今も彼女のすぐ目の前、最前列に居る男子生徒のひとりが目のやり場に困ったような、それでも本当は見たくて仕方のない、という怯みがちな好奇の眼差しでアリシアの肢体を盗み見ているのだった。
やや不用心に晒されている甘やかな喉から首のライン、白無地のブラウスのフロントを内側から誇らしく圧しあげている胸の膨らみや、クリーム色のタイトスカートの裾から伸びているスラッとかたちのいい白い生足などに。
講義後の身支度を整えていたアリシアは視線に気づいて声をかけた。
「あら、どうかしたの?」
目が合うと、少年は急にドギマギしたように下を向いてしまう。「いいえ」というのがやっとの様子で真っ赤になった。
教師と向き合うのがそんなにも気詰まりなものかしら、と、美しい誤解をしたアリシアは穏やかに苦笑する。
おしなべて内気で恥ずかしがり屋、というのがこれまでずっと抱いてきた彼女の自校の生徒評だった。
相手が何か言いたそうにしていることを察して、「なにかしら?」と自分の方から水を向けてみる。
「な、なんでもありません……ただ、質問が……」
「いいわよ、なあに?」
話しかけてきた生徒は銀縁眼鏡をかけて色白、いかにも気弱そうな見かけをしているが成績はクラスでもトップレベル。教壇に立つ側からすると授業運営の起点にできる生徒の一人だった。
「でも、もし、お忙しければけっこうです……」
堅苦しく敬語を使っているところも好感がもてるのだった。
質問というのは個人的に読んでいたテキストについてで、
それで
と、彼女らしい誤解を重ねる。
「遠慮しないで。でも今は時間がとれないから後で……放課後でもいいかしら?」
「かまいません、僕はいつでも……」
「じゃあ、三時に一階の講師控え室で待ってるわね」
少年はホッとした様子で、どんな顔をしたらいいのか途惑っているようにも見える幼い笑顔を向けている。
「感心ね、みんなもあなたぐらい熱心だと私のような新米教師は助かるんだけど……このクラスは進みが遅いから、このままだとそのうち晃ちゃんからたっぷりお小言をちょうだいすることになりそうよ、困ったわ、うふふ」
出席簿や教科書、プリント類などを茶色いボール紙製のブリーフケースの中にしまいながら、アリシアは涼しげなアルトの声音を親しげに、悪戯っぽくさせて言った。
困った、といいながら、全然困ったふうには見えない。というのもアリシアにとって晃は幼なじみで、姉妹と言ってもいいくらいの大の仲良しだからだ。
女教師の親しみのある接し方に安心したのか、少年も少しだけ舌が滑らかになったようである。
「晃先生ですか……僕、あの先生、苦手で……」
さぐりさぐりに本音を吐露しはじめた。
「あら、どうして?」
「……ものすごい美人なんですけど、アリシア先生とは全然違うから……なんだか恐くて……」
首都圏郊外、ウォーターフロントにある阿久亜市――。
この町に古くからあるミッション系の進学校、私立ネオ・ヴェネツィア学園には他校の生徒たちが羨む三人のうら若き女性教員の姿があった。
理科と音楽の講義を受け持つアテナ・グローリィ、
保健体育と現代国語の晃・E・フェラーリ、
そして外語担当のアリシア・フローレンス。
高度な専門性と職業意識に加えて、彼女たちを際だたせているのはやはりその恵まれた容姿であろう。
世界的なミスコンのファイナリストたちでも、きっと彼女たちとのツーショットには鼻白むに違いないナチュラルな美貌。
それゆえ人々から深い尊敬と賛美をもって、三大妖精――と、讃えられる非常勤の講師たち。
しかし、ウチ一人はすくなくとも男子生徒たちにとっては憧憬の対象というよりも畏怖すべき脅威であるらしい。
「あら、そうかしら? 少しもそんなふうには見えないけど……晃ちゃんはとってもやさしい人よ」
言ったとたん、少年の下アゴがカクンと落ちたことに、はたして彼女は気づいたかどうか。
アリシアは気のおけない友人を想って大きな目を細め、いっそう和んだ表情になる。ノーメークの楚々とした口許にマリア像にも似た穏和な、それでいて厳かな微笑がつくられた。
が、それも数瞬のこと。壁の丸時計に気づくと思い出したようにブリーフケースを胸に抱える。
「じゃあ、あとでね、待ってるわ」
少年の眩しそうな視線をくすぐったく感じながら背中を向けた。
その時である、
「えっ、なになにっ? 先生っ、コイツと後でナニすんのっ?」
聞き覚えのある声が呼び止めて、アリシアは、また始まったわね、と軽く身がまえて足を止めるのだった。
振り向くと頭を丸刈りにした、運動部系のみるからに元気の良さそうな男子が内気な少年の肩にがっしりと抱きついて――というよりも背中からのしかかるようにして、
「愛澤ァ、ナニひとりでズッケェことやってンだぁ、テメェが先生とデートなんて百万年早ぇえンだよぉ!」
巻き舌になって脅かしている。
「で、デートだなんてっ……」
「チガウって言うのかよぉ? 先生っ、コイツは先生のことが好きなンすよっ、だからナマイキにちょっかいかけてるンすっ、そうなんダロぉっ?」
「ぼっ、僕はっ、そんなことっ……」
愛澤と呼ばれた少年は顔を赧らめ、怯えた様子で、傍目にも気の毒なくらいにしどろもどろになった。
「何か勘違いをしてるみたいね。愛澤君はただ質問にくるだけよ」
みかねてアリシアは、下になって圧しつぶされそうになっている少年の言葉を引き継いだ。
「そんなの口実っスよ、コイツの本音はただ先生に近づきたいだけなんスからっ」
イガグリ頭の少年は容赦がない。が、実際のところ、何を勘違いしているものか教師である自分にしきりにモーションをかけているのは、当の本人の方なのだ。
アリシアは軽く受け流していたが、件の少年は最近ではすっかり慣れて寧ろそのやりとりを楽しんでいるように悪怯れるところがなかった。
「ズルイっスよぉ、コイツばっかし」
いつの間にか教卓の周りに群がってきた悪ガキ仲間とともに、えこひいきだの、差別だのの合唱となる。どさくさに紛れて放課後のカラオケにまで誘われる始末。
「あらあら、そんなに気になるのなら本城君たちも講師室に来る? きっと先生方みんなが親身になってあなたたちの相談にのってくれるはずよ……昨日アテナちゃ、グローリィ先生が頭を抱えていたの、わたしのやりかたがいけないのかしらって」
同僚の名前を使って軽い牽制を入れてみた。
受け持ちの二年生のクラスで、中間テストの理科の成績が惨憺たる結果に終わってしまったことを、きまじめな友人は自分の至らぬせいだと言ってひどく落ち込んでいたからだった。
とたんにイガグリの顔色が変わる。
「みなごろしの……アテナ……」
一緒になって
「知ってるか、C組の伊藤のこと」
「ああ、今期のギセーシャ第一号だろ」
「あいつ放課後、六時間以上もぶっとうしでアテナ先生の個人講義受けたらしいぜ」
「で、解らないとうるうるっ、とされるんだって、それじゃあもう逃げらンねぇだろ」
「こえぇー」
「ホントかよぉソレぇ、カワイソー」
「最後にはフラフラになって自分の家に帰る道もわかんなくなっちまったって話だって」
「ムゲぇーっ」
「人体実験……だな」
「餌ももらえずに迷路を行ったり来たりさせられたら、そりゃもうカラっからの日干しになるしかねぇよ」
「六時間もつき合ったんなら、せめてお茶ぐらいしてくんなきゃモトが取れねぇって」
「ソレはアリエネーよな。アテナちゃんの目には俺たちなんか、どーせ服着たモルモットぐらいにしか映ってねぇんだから」
「あらあら、みんなどうしたの? 元気がないわよ、うふふっ、遠慮しないであたしたちの控え室へいらっしゃい」と一同を見回してから一転、声音を抑えて
「あなたの願い、叶えましょう」
と、厳かに宣告をする。
それはうろたえる少年たちを一瞬で凍りつかせる魔法の言葉だった。
シュンと静かになった一同をアリシアは、またニッコリ晴れやかな笑顔を振りまいた。
「本城君に限らないわ、質問なら誰でも大歓迎よ」
「イイッス……辞退するッス……」
イガグリ頭の少年は、目の小さなのっぺりした顔をひきつらせて後ずさる。まわりのガヤも顔をうつむけてアリシアと目が合うのを避けていた。
「遠慮しなくてもいいの、それが私たちのお仕事なんだから」
お仕事――というところがイタリック体になっているように感じて、一同はますますとりつくしまもなく完全にお手上げ状態。
「黒ェ……」
誰かがぼそりとつぶやいた。
「白き妖精、黒すぎ……今このタイミングでアテナさんの名前出すかよ……」
白き妖精――というのは生徒たちがアリシアにつけたあだ名だった。
白磁の肌と非の打ちどころなき美貌、清潔感いっぱいのイメージに因んでのことであるが、時にその純白の翼が黒くなる、という噂も秘かにささやかれている。
もちろん戯れ話としてだったが――。
「あら、なあに? グローリィ先生がどうかしたの?」
しーん、となったまま応えるものもなかった。
中間テストを終えてまだ日の浅いこの時期、セイレーン――アテナのまわりをうろつくのは自殺行為であるのを誰もがよーく心得ていたのだ。
ギリシャ神話に出てくる用心深くて老獪な水夫たちのように。
人生に一度のピンク色の思春期、フルーティーな香りのするカワイイ女の子たちのことで幸せいっぱいな脳みそを、元素記号と数式と遺伝暗号とで洗脳されてしまうのはあまりにも危険だった。
ひとつ間違うと水底に引き摺り込まれてそのまま一巻の終わり、たとえ運良く助かったとしても気の毒な廃人になって人生を棒にふることにもなりかねない。
こうなると人生の墓場行き、負け組決定――。
英雄を自称する舞い上がった脳天気にのせられて、泣きをみるのはいつでもワキに居るやられ担当のモブキャラ。
テメーひとりでさっさと死んでこいよ、まずは言い出しっぺからホンキみせろヤ!
仲良くつるんでいるようでも少年たちの思惑はそれぞれだった。
かくして今日もアリシア――スノーホワイト――大先生の勝利に終わる。
方や完敗の体の悪ガキ一同。
数を頼みに攻めたてているつもりが、あっさり大将の首を討ち取られ、算を乱してちりぢりになって敗走中。
「残念ねぇ、勉強熱心なのは愛澤君ひとりだけなんて……」
アリシアは仕方がないわね、というように肩を軽くすくめた。チラリと腕時計に目をやると表情を変え、すこし慌てた様子になる。
「いけない、もうこんな時間っ、あたし行かないと」
大きな目をぱちくり、そそくさとなって腕の中のブリーフケースを胸に圧しつけると軽やかに身を翻らせた。
すると背中の長い髪がふわっと広がってあたりに甘やかな香りをふりまき、まわりに居た少年たちはみなビックリしたように顔を見合わせるのだった。
「じゃあ愛澤くん、放課後にねっ」
返事を待たずに小走りになると、スニーカーの跫音も軽やかにアリシアは教室を後にするのだった。