ARIA A SECRET SCHOOL DAYS 作:真夜中のミネルヴァ
こちらを振り返り振り返りしながら、アナが通りを去っていく。赤みがかった巻髪を実用的にひっつめにした職業婦人の後ろ姿。地についた者のしっかりとした足取り、たくましい生活者である母親の歩みで。
遠ざかっていくアナに小さく手を振って笑顔でこたえながら、アリシアは罪の意識に胸が疼くのを感じていた。
アナは初めて会ったにもかかわらず、どこまでも誠実に接してくれていた。
それに対して自分は――。
いったい、いくつ嘘を重ねただろう……。
それは大切にしてきた友人たちについても言えることだった。偽ったり秘密を持つようになったり……。
恋を知ってからの大きな変化。
ただ、後悔はしていなかった。
もう何も知らずにいた頃とは違うから。
いちばん大切に思うことが、自分の中で少しだけ変わってしまったのをはっきり感じる。
アリシアは包み紙を見てすぐに気づいたのだった。贈り手が誰であるかを。
無地の茶色い包装紙は、彼が時々使っているのを見たことのあるスケッチ用のカラーペーパー。
そもそもポシェットは忘れ物などではなかった。みんなアキトにリクエストされてのこと。
男物の鍵付きのポシェットは、彼に言われていた通りにスパのロッカーに残されていたものだった。
(本当に……いけない子なんだから……)
アリシアは手の中の小箱に視線を落とした。
彼からのお返しの、クリスマス・プレゼント――。
「これも……あなたのたくらみのウチなの……?」
建物の外壁のアルコープに身をあずけて手の中の包みを解いた。現れたのは白くて四角い紙の箱。チョコレートのブランド名が読み取れる。紙箱の蓋を開けると中には二つ折りされたメッセージカードが入っていた。が、そのカードを取り出して中に目をやったとたん、アリシアは、はっとして息をのみこんだ。
カードに隠れて、その下にとてもチョコレートケースとは思えないものがおさまっていたからだった。
「……これ……まさか……」
ふるえる手でメッセージカードを開いた。
『いまキミがこのカードを手にしているということは、ミッションが無事完了したっていうことですね。おつかれさま、そしてありがとう。それから……ごめんなさい……。きっと今日のボクはキミにイケナイこと、いっぱいしていると思うから……キミを啼かせるようなヒドイことばかり、しているはずだから……。
読み進んだところでアリシアの目のまわりと頬はたちまち真っ赤になった。まわりに目をやって、ひと気のないことを確かめずにはいられない。幸い水路には人影も行き交うゴンドラもなく、寒気を避けて家々の窓も固く閉ざされ、あたりはひっそりと静まりかえっている。
……でも、どうかボクのこと、嫌いにならないで……ボクはキミが、好き……誰よりも……。
箱の中味は、聡明なキミのことだから確かめなくても判ると思うけど、ご想像通りのものです。来年、またボクがこの惑星に戻って来たときには、キミがそれを嵌めてくれることを心から希っています。サイズは少しゆるいかも知れませんが五号にしておきました。これはすぐに投げ捨てられるように、というのではなくて、ずっとずっと身につけていて欲しいから。いくらキミでも五十年もすれば関節が固くなったり、太くなったりするハズでしょ(ゴメンねっ!)?
本当はプラチナにしたかったんだけど、それが叶わなくてちょっと残念。でも今のボクにはそれが精一杯で、だから、
じゃあ、メリー・クリスマス。またね。
ボクの永遠の白き妖精、最愛のアリシア・フローレンスさま
A. H. より 』
思いがけずプロポーズの言葉が添えられていた。
(……さっきまで一緒に居たのに……そんなことおくびにも出さなかったのに……)
胸に熱いものがこみあげてくる。
「なまいき……言って……」
カードの上にぽとり、と、ひとしずく。インクが滲みかけて、アリシアはポケットからハンカチーフをとりだすとカードを汚さないように丁寧に吸わせた。目の周りと頬についたドロップも。けれどもどうしたことか、ぬぐってもすぐに視界の方が滲んで文字が読めなくなってしまう。
鼻をしくしくさせて、誰もいないのに、ひとりばつの悪そうな顔をしてみた。
「ウンディーネがはなをすすっているところなんて見られたら、人にわらわれてしまうわ……」
笑顔をつくろうとしても、また目頭が熱くなって表情をくずしてしまう。目がしらをおさえて涙をこらえた。
濡れた指先を何どもぬぐって、きちんと手を清めてから、汚さないように箱からリングケースを取り出すと、蓋を開けて中を確かめる。
アリシアのちょっと泣きはらして赤くなった目に、カードにあったとおりの銀のリングの輝きが眩しく映った。地味なスリムストレートリング。自分であれば手に入れるのはさほど難しくはないもの。
でも、彼がそれを得るためには、いったいどれほどの時間と労力とが必要だったことだろう……。
十五歳の美術奨学生の男の子には――。
「無理をして……」
学校の授業と課題をこなす合間に、自身の制作を進めながらのアルバイト。さぞや大変だったろうと思う。タイトなスケジュールを組んでいたことはアリシアもよく知っていた。
そうでなければすれ違いはもっと少なくてすんだはずだった。
「……!?……」
よく見ると、リングの内側にはレターまでが彫られているらしい。ケースをかたむけて、リングを留めたままで、くるくるひと回りさせて文字を読み取ってみた。
AKITO TO ALICIA, LOVE
まぎれもなく、エンゲージリング。
放置すれば黒く錆びついてしまう、シンプルな銀のリング。
「……これが……あなたが言っていた、呪い――なのね……ええ、そうね……磨きつづけないといけないわね……でも、ずるいわ、こういうの……お返事、できないじゃないですか……」
自分の声がふるえていて、それが呼び水となってアリシアはふたたび強い感情におそわれた。今度はたえきれずに嗚咽してその場に
リングケースを両手で胸に抱きしめ、熱い思いに身をゆだねた。
「……アキトさん……」
声を忍ばせ、あふれる涙もそのままにアリシアは薄い肩をふるわせる。
「……あいたい……もう一度……」
やさしくされた肌の記憶がよみがえると、恋しさにアリシアの胸はまたかきみだされた。
別れはすませたはずなのに、目覚めた女の感情はままならない。アキトの居るドミトリーへ向かうようにしきりにせきたてる。
陸に渡れば歩いても三十分とかからない、出発までには十分に間に合うから、と。
(……だめ……そんなことをしたら……)
思いに応えてあげなくて、いいの――?
(……………)
彼なら、きっと歓んで迎えてくれるわ――。
(……………)
抱いてくれるわ、可愛がってくれる、さっきみたいに――。
(……………)
今の彼なら、欲しいものをみんな、あなたにあたえてくれる――。
「だめっ!」
どうして――?
「できないわ……もう、お別れは、したんだから……」
ひとしきり感情との押し問答を繰り返すうちに、気持ちがすこし軽くなってくる。アリシアは断固として、誘惑をはねのけた。
「また、会えるから……春には……必ず会えるから……」
言い聞かせるようにつぶやいた。
そっとリングケースを閉じた。メッセージカードも元通りにする。と、折り返しの裏に、まだ何か書かれてあるのが目に留まった。
追伸
ボクもキミからのクリスマス・プレゼント、とてもとても楽しみにしています。長旅とマンホームでの退屈な生活をささえてくれるにちがいありませんから。
「バカ……」
“とても” という副詞を重ねて、さらにそのまわりをハートマークで飾り立てている。
それを見たアリシアの泣き顔に長姉の笑みさえ浮いていた。弟をたしなめるときのような。
「ほんとうに、へんな子……あんなものを欲しがるなんて……」
正規のクリスマスプレゼントの絵の具のセットは、結局、ポシェットには入らずに、泣く泣く諦めていた。
その代わり……。
アリシアは目を閉じた。
別れの口づけがよみがえる。最後のキス。
惜しんで交わしたディープキスの後で、いちばん最後にされたキスも、やっぱりお口を使った愛撫なのだった。それも性器ばかりか背後までしっかり舐り取られて。
思い出すと女の身が、きゅん、と疼く。
ほんの一時間ほど前には、彼に全てをゆだねていたのだ。互いの体がそれぞれ自分だけのものではないことを、たしかめあっていた……。
でも、今は違う。もう、それぞれの道を歩き始めたのだから。
熱いため息をひとつ。
アリシアは女から、白き妖精にもどる方を選んだ。
今は……。
ゴンドラの小さな置き時計を見ると、針が5時半をまわったところを示している。
(会社に戻らないと……あの子たちが帰ってくる前に……)
荷造り――の為にいったん社に立ち寄ったものの、急いでいたので髪はスパを出たときのまま、解いた状態でそのままになっている。
灯里には『藍華ちゃんたちとクリスマスのお買い物をするから遅くなります』とは言われていたものの、今日、この夜、6時をまわって開いている店はそうはないはず。みんなじきにもどってくる。
その前に身繕いは済ませておかないと……。
事後のけだるい雰囲気を引きずったまま、鋭敏な少女たちの前にたつのは勇気がいった。