ARIA A SECRET SCHOOL DAYS 作:真夜中のミネルヴァ
イヴの宵、日の落ちたグランキャナルには行き交う舟もまばらで、たまにヴァポレットのひいた
代わりに両岸は祭りの夜のにぎわいを見せている。
イルミネーションにライトアップされた町並みが目をひく。けれども藍華の関心はそこにはなかった。
ちょっと気になることがあって、それを友人にたしかめたくて、ずっと機会をうかがっていたのだ。
広いキャナルの中程はガールズトークにはかっこうの場所だった。
「ねぇ灯里、あんた気がついた?」
藍華はためらいがちに灯里の背中に話しかけた。
「え、なにを……」
逆漕ぎ手をゆるめずに、背中を向けたままで灯里は受ける。
「さっきのアリシアさん……」
「アリシアさんがどうかした……?」
いつもどおりの間延びした返事が戻ってきた。
「何かへんじゃなかった?」
「そうかなぁ……」
灯里の食いつきが悪くて、じれったくなる。
「べつに気がつかなかったのなら、それでいいんだけどサ……」
そもそもカンが鈍いからこそ灯里なのかもしれない。
自分とそりが合うのも、マンホームから落っこちてきた友人の、万事におうようでおっとりとした性格のせい。それが分かっているから、それ以上は踏み込まない。
とは思うものの、なんでアンタは、と言いたくなるのを藍華はガマンしていた。
件の天然少女はクリスマスの町並みに心を奪われているらしく、はへー、とか、ほへー、とか、惚けたような嘆声をあげるばかりで、それとなく仄めかしても期待する反応がさっぱり返ってこないのだ。
「先輩、やっぱりアリシアさん、何かあったんでしょうか?」
代わりにアリスの方が先に反応した。振り向くと、真剣な顔で、藍華の言葉を待っている。
「後輩ちゃん……」
やっぱり――というのは、アリスも自分と同じように感じていた、ということ。
後方からの支援に、藍華は話し相手を変えようとしかけて、言いよどんだ。
藍華の感覚では、灯里とは対照的に、たとえ察しが良くても”その手”の話をするにはアリスは、まだ不足感があるのだ。
ミッドスクールの少女には、女の会話はちと早い、そんな思い込みが。
「アリシアさんって、この季節……なんかアレルギーとか、ある?」
代わりに、わざとピントを外したことを訊いて、”同輩”の、反応をうかがった。
「どうかなぁ……別にないと思うけど……」
「だよねー、ミス・パーフェクトって言われてる人だからねぇ……」
空振り。
「わたしもさっきのアリシアさんには気になることがありました」
代わりにアリスがきっぱりと言った。
「アリシアさん、もしかすると泣いていたんではないかと。目が赤くてまぶたが少しはれぼったかったですから」
藍華が気にしていて、言い出せなかったことをズバリ指摘した。
「それよ、それそれっ」
ここぞとばかりに、藍華はアリスの尻馬にのっかる。
「そうかなぁ……」
少し間があって、灯里がようやく口を開いた。
やっぱり背を向けたままで。
「そうかなって、アンタ、びっくりしないの?」
「アリシアさんだって泣きたいときぐらいあるよ……人間だから……」
「灯里……」
藍華にすれば、灯里の反応は意外。
が、友人はまた口をつぐみ、なんとなく話しかけづらい感じになる。少し前まで和気あいあいと賑やかだったゴンドラが、にわかに妙な雰囲気につつまれていた。
「人間って……そりゃ確かにそうかもしンないけど、でもアリシアさんはどこか人間ばなれしてるから。だからもし泣くようなことがあったら、それこそ天地がひっくり返るくらいの大事件じゃない。あたしにはアンタがそれに気づいていながら、のんきにゴンドラ漕ぎしていられる気がしれないわ」
微妙な空気を払おうとして、藍華は語気を少し強めた。
「灯里先輩、私も、もしもアリシアさんのお身内に何かご不幸があったりとかだと、クリスマスを祝う気分にはとてもなれません」
アリスの懸念は藍華とは少しばかり違っていて、お子ちゃまはそっちかよ、と思いつつ、藍華は後輩の片棒を担いだ。もちろんアリスの懸念こそ言い方は悪いが、いちばんリーズナブル、そして差し障りが無い。
「それはないと思うよ……」
灯里はすぐに否定した。知らない、判らない、と言うかわりに。
だから、そう。
それはない――。
灯里は嘘をついたり、その場をとりつくろったりする子じゃないから。
「じゃあ、やっぱり……」
「やっぱりって、何ですか、藍華先輩?」
言葉尻をつかまえられた藍華は、後輩に同調していた手前もあって、しかたなく気になっていることを話し始めた。
絶対に秘密、口外しないという確約を二人にとりつけてから。
それは――。
だいぶ前、メストレの通りでアリシアが男と二人で歩いているのを見た、というもの。
すっかり忘れていたが、昨日、急にそのことを思い出して、以来ずっと気になっていたのだ。
だって、街の外でアリシアさんの姿を見かけるのは、初めて。それも男性とのツーショットだなんて!
デートっ?!
当然まず、そう考えるし。
だとしたら、アリシアさんにはもう彼氏がいるってことにならない?
もしそうなら、それこそ大事件じゃない!
だって今夜はクリスマス・イヴ。
シングルの若い男女が、最も身近な家族、つまりは恋人と一夜を過ごす、聖なる夜。
そんな時期に女の子が涙するワケって、そりゃあもう彼氏とうまくいってないとかってのが相場でしょっ!
藍華にすればとっておきのナイショ話を披露したつもりだった。
だが、アリスから返ってきたのは予想外の反応。淡白、というよりもずっと冷淡な。
「先輩が気になってた話というのは、それだけですか?」
「それだけって、だって、あのアリシアさんが彼氏とトラブルかかえてる、なんてことがホントなら、それこそ一大事でしょっ!」
「本当ならばそうです。でもわたしにはとてもそうだとは思えません。だいいち、先輩の見かけた人がアリシアさん本人とは限らないじゃないですか」
「まぁ、そうだけど……でも、他人のそら似だとしてもよ、あんだけの人がそうちょくちょく居るとも思えないでしょ?」
「走る車のリアシートからチラッと見かけただけで、どうして見間違いはないと言い切れるんですか?」
きっぱり。アリスは少し不機嫌になっていた。
「でも着ていたスーツもアリシアさんのによく似てたし……夕べ晃さんに見せてもらったアルバムの中に同じスーツ姿の一枚があって、それで、ああ、やっぱそうだったのかなって……」
「思ったんですか?」
ツメの甘さをすかさず突っ込まれる。
「え? うん……」
藍華は自分の考えにはそれなりに筋が通っていると思っていたが、アリスから脈絡の弱点を指摘されて、だんだん自信がゆらいできた。
「それに、その女の人が仮にアリシアさんだとしても、殿方とデートしてることにはなりません。ましてや泣いているのをみただけで、即座にトラブルと結論づけるのはいくらなんでも飛躍のしすぎです。先輩のお話にはあちこち仮定や想像のつぎはぎだらけで、でっかい人騒がせですっ」
アリスのクレームはもっともで、藍華は言い返そうにも言い返せなかった。
「そっか……そうかもね……ただ、スーツのアリシアさんって、ふだんあまり見ないせいか妙にインパクトがあってサぁ……またシックにキマッててカッコよくって……それに、髪だってストレー……あれ、そういえばさっきもアリシアさんの髪、ストレートだったわよね……」
藍華は、不意に重大な事実に気づいた探偵のように難しい顔で額に手のひらをあてると、ひとりまた考えこむ。
女の子はね、髪形を変えると、歩き方まで変わるのよ――。
思考をめぐらす少女の脳裏に、アリシアの凛とした清らな声がかぶった。
「髪形を変えるって……やっぱり女にとっては一大事でしょ……心境の変化とか、いろいろと……彼の好みに合わせようとしたり、フッたりフラれたりで人生をリセットしようとしたり……」
「……よく……わかりません……」
ようやくアリスの苦手を見つけて、藍華はニンマリ。
「だから、やっぱり何かあったのかもって、まだお子さまの後輩ちゃんにはうかがい知れない大人の世界よン」
「灯里先輩、藍華先輩がそう言ってますけど」
アリスは藍華の頭越しに、いくぶん声を尖らせて灯里に確かめた。
それまで黙って二人のやり取りに耳を傾けていた灯里が、おもむろに口を開いた。
「きっとそれは今日、午後がお休みだったからだよ……プライベートではアリシアさん、髪をおろしていること、よくあるから」
「そうなの?」
「だって、アリシアさんが髪を結ってるのは、ゴンドラを漕ぐときに邪魔にならないようにって、そう言ってたことがあったよ。目が悪いくせに背伸びをして眼鏡をかけないでいるから、風に髪が舞うとよけいに視界の妨げになるんだって」
「へー、初耳……やっぱ、そばに居る人は違うわね……で、アンタとしてはどうなの?」
アリシアのプライベートに通じている灯里を、ちょっと羨ましげに藍華は訊く。
「どうって、なにが?」
「アリシアさんの極秘デートの話にきまってんでしょっ」
「どうかなぁ……その藍華ちゃんが見たっていう男の人って、どんな人?」
「それが、よく覚えてなくて……一瞬だったし、アリシアさんが居るなんて夢にも思わなかったから、隣を歩いてる男の顔なんて大して気にもとめなかったし……」
「でも、いくつぐらいの感じの人とか……」
「うーん、あんまし若いって感じでもなかったかな……ビジネスマン風でスーツ着てたような……背はアリシアさんより高かったから、きっと暁さんくらい……もちろんアイツじゃないわよ。髪は短かかったし、これは鉄板。後ろ姿は覚えてるから。ひょろっと痩せ型の、わりと普通っぽい……あんま印象に残ってないってのは、たぶんそのせいよ……」
「藍華先輩の話からすると、でっかい普通のオジサンです。とてもアリシアさんの恋人って感じではありません」
アリスには”ふさわしい”イメージがあるらしく、即座に門前払いの判決が下された。
「もしもアリシアさんだとしても、きっとメストレで仕事関係の打ち合わせかなんかがあったんだよ。ビジネスで長期滞在する人は、本島よりも、シャトルの駅や宇宙港近くのホテルを利用することが多いから……」
「そうね……きっとそうよね……」
いつもながら灯里の言葉は容れやすかった。
「そもそもアリシアさんの涙のわけを、藍華先輩のお話と関連づけるのは、でっかいムリがあります。アリシアさんがたかが男ごときに泣かされるはずはありません。泣くとすれば男の方のハズじゃないですか」
さすがにこれには降参するしかなくて、ひとまず藍華の目撃談は落ち着くべきところに落ち着いた。
「それもそっか。万が一にもアリシアさんをソデにするような男が居るとしたら、そいつの頭のなかはきっとエメンタールみたくナンとか幼虫のパラダイスになってて、脳みそスッカスカになってるにちがいないし……」
辛辣な言いように灯里は眉根を寄せて、しっとりたおやかに苦笑する。その顔をみて藍華は、軽く胸を突かれた感じになった。
アリシアから受け継いだのは、どうやらゴンドラを操る技術ばかりでは無いらしかった。
「藍華先輩、エメンタールチーズの穴は発酵時にできた気泡で虫食いではありません」
「へいへいっ、ホントに何でも良く知ってるお子ちゃまねっ」
藍華はアリスが頬をふくらませるのを見届けてから、ぷっ、とふきだす。アリスにしても本当にむくれていたわけではなくて、すぐにつられて相好をくずした。
ゴンドラの中に狎れた空気が戻っていた。
「けど、今の話はやっぱりナイショね。アリシアさんにも……」
灯里がこっくりして、アリスも大きくうなづいた。
またひとつ、秘密を共有することで、なんとなく絆が深まる気がするのだった。
アクアの長い一年の締めくくりの一週間。
名残を惜しんでそわそわする気分と、新年を待ち望むうきうきする気分とが交差する。
いろいろなことがあった年。
シングルになって、
灯里に会って、
そこへアリスがやって来た。
励まし合う友がいるのが、どんなに心強く思えたことか。
でも、出会いの喜びがあれば、一方で別離の兆しも感じている。
成長は変化をもたらし、現状にとどまることを許さないから。
「ねぇ灯里ぃ……」
「なぁに藍華ちゃん」
「もしもアリシアさんに彼氏ができて、でもって結婚するって話しになったら、アンタ、どうする?」
「どうするって……どうもしないよ……」
「ショックじゃないの?」
「どうして? だってアリシアさんが幸せになるんだよ、うれしいにきまってるじゃない……藍華ちゃんはうれしくないの? もしも晃さんが結婚したら……」
「え? あの人? 晃さんにはそれはないから、ないない」
暑苦しそうに顔の前で片手をひらひらさせる。
が、本当は、考えようとしなかっただけ、考えたくなかったからかもしれない。
「そうかなぁ……アリスちゃんは?」
灯里に水を向けられたアリスは、藍華の後ろで複雑な表情をしていた。
「……わたしは……」
「アテナさんに好きな男の人ができたら、アリスちゃんは、イヤ? だいじなお姉さんを取られちゃう、そんなふうに思ったりする?」
「アテナ先輩は……」
灯里に訊かれて、思い詰めるようにゴンドラの床に視線を落としていた天才少女は、すぐに実に即妙の答えを練りだした。
「相手次第ですっ! あのドジっ子のアテナ先輩のことですから、私がしっかり見張ってないと、どこでどんなハズレくじをつかむかもわかりませんっ」
まなじりを決して、きっぱり。
その肩肘の張りように、子供っぽいいじらしいさがあった。
でも藍華にはアリスの気持ちがよくわかるのだった。そのときにはきっと、自分も同じようにするだろうと思う。
晃には、幸せになってもらわないと困るから。
絶対に!
めいめいが、それぞれの形で、大切な人を思っている。それがわかって、運河を渡る風の冷たさも忘れるほど、藍華の気持ちもポカポカだった。
でも――。
藍華は、ひとつだけ、とても不思議なことに気がついた。
灯里は……?
ゴンドラを操る友人の背中に、問いかけるような視線を送った。
長い
もしも真っ暗で、シルエットだけなら、自分でも、もうアリシアさんと見分けがつかないかもしれない、そう思いながら。
藍華は口元に、うっすらと笑みを浮かべた。
「また、雪が降ってきたわね……」
訊くのは無粋というものだった。