ARIA A SECRET SCHOOL DAYS 作:真夜中のミネルヴァ
ARIA A SECRET LIFE AS UNDINEから
少女のアリシア・フローレンスが大人になる運命の一夜の物語です
長い夜のお話になりますが、お時間のある方はおつきあいください
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第一節 ネオ・ヴィチェンツァの館
「無理もないかもしれませんが貴方にそのようにされると、まるで私たちが極悪人のように思えてしまいます。どうかいつもの笑顔をみせてくれませんか?」
馭者の男は振り返ってときおり話しかけるが、女は顔をうつむけたままでけして男の顔を見ようとはしなかった。
女のかたくなさに男は軽く肩をすくめるが頬には馴れたものの、少し自嘲気味の笑みが刻まれている。
いつものこと、とばかりに。
深夜十一時。
四輪馬車が暗い森の中にのびる一本道を奥へ奥へと分け入っていく。
鬱蒼とした広葉樹林は日中であれば秋色に染まったネオ・ヴィチェンツァの景観に訪れる人々の心と目を癒したことだろう。けれども今は街の灯は遠く窓外に見えるのは黒々とした樹影ばかり。
さながら異界の宴に集まった物の怪たちの群れの中をつき進むようだった。
キャビンの乗客は一人だけ。
馬車には手綱を握る五十がらみの男と黒いオーバーに身を包んだ若い女が居るだけである。
フードから覗く心もとなげな女の白い横顔はスッと通った鼻筋も高すぎず低からずでとても美しい。
「もうじきですよ」
「………」
「少しも怖いことなんてありません。私が連れてきたレディたちはみんな去る時には一様に務めを果たしてほっとした顔をされておりましたから」
やがて馬車が舗装された道に入ったらしく不意に揺れが静かになった。それまでサスペンションをギシギシと鳴らしていたのがゴーという振動音に変わっている。
暗くて良くわからないが、外はひらけていてどうやら広々とした庭園のようなところに来ているらしい。
ネオ・ヴェネツィアの対岸、陸側郊外に広がるネオ・ヴィチェンツァ地区には大きな屋敷を持つ荘園がいくつもあってどうやらそのうちの一つに。
噂はやっぱり本当だった……。
女の胸に鈍い悔悟の念がよみがえる。
だがもう後戻りはできない。
ほどなく馬車は館の車寄せに停まり、男はてきぱきと馬車を降りると付き人のように彼女のいる側のドアを恭しく開いた。
「お疲れさま」
差し出された男の手を借りず、女はひとりキャビンを降りるとのしかかるように迫る大きな屋敷を見上げた。
窓というものの無い建物には灯火ひとつ見当たらない。
まだ閏十一月の初旬だというのに舞う風が肌に刺さる。
ひとたび制服に身を包めばたとえどんなに冷え込んだ冬の朝でも気持ちにピンと芯が通って寒さなど意識せずにいられたものが、今は冬用のコスチュームを着た上にフード付きの黒いロングオーバーを重ね着しているのだが、それでも頼りなさを感じずにはいられなかった。
肌が自然に粟だってきて女はしなやかな両腕をまわして自らを抱きしめた。
普段は誰も立ち入ることのない深い森の奥にひっそりと建つ、暗く、黒い屋敷――。
AQUAに暮らす男たちの誰もがその噂を耳にしてはいても、誰もがそ知らぬふりをする沈黙の掟に守られた儀場。それを知る女たちの口からはけっして語られることのない秘密と運命の儀式がいま始まろうとしていた。
目の前には大きな金属製の門扉があって、男は片側だけを押し開くと女に屋敷内に進むようにと促していた。開いた扉の間から仄灯りとともにもうっと暖気が溢れてくる。
中は天井の高い広々としたホールになっていた。
「ここで待っていてください。私はここまでですが貴方の侍女への引き継ぎがありますので」
言いながら背にしたドアの前で男はハンドベルを振った。
チリリン……。
がらんとしたホールに鈴の音が長く響きわたる。
するとややあってホール奥の通路に人影が現れた。
シルエットからするとゆったりとした寛衣を纏っているらしい。だが近づくにつれてその装いの異様さに気がつき、連れてこられた若い女は見てはならぬものを目にしたように視線を床に落とすのだった。というのも侍女と呼ばれた女が身にまとっていたのは薄いヴェールのようなものだけで、全身を透かしていて全裸でいるのとかわらなかったからだ。
スラリと背が高く長い手足にメリハリのある体をした美女だ。ヴェネツィアンマスクで目元を隠しているが、整った鼻梁のエキゾチックな美貌は肉体同様に隠しきれては居なかった。股間を飾るヘアは黒々と豊かでたくましい太腿の張りとともに情熱的な風情である。
「今宵の“ウンディーネ”をお連れしました」
ここでいうウンディーネとはゴンドラを操る水先案内人のことではない。
もうひとつの意味で使われている“ウンディーネ”。あるいはこちらこそAQUAの真のウンディーネというべきかもしれない。
「待っていたわ、お目にかかれてとても光栄よ」
侍女は感じ入った様子の男の方には一瞥もくれずに、連れてこられた若い女にだけ言葉を向けている。
「これから一晩、明日の朝あなたがここを出ていくまでの間のお世話をさせていただくからよろしくね」
若い女に手を差し出しながら男には無言で出ていくようにと命じている。ステータスは館の女の方が上手であるのは間違いなかった。
「じつは指示を受けておりまして」
男は弁解気味に言葉を返した。
「七賢会の意向でこのまま直接儀場の方へお連れするようにと」
「このまま?」
「私には仔細はわかりかねますが」
「沐浴もさせなくていいの?」
「はぁ、それは私には……」
「そう……そういうことなのね、わかったわ。わかったからあなたはお下がりなさい」
ホールから男が出て行くのを見届けると
「あいつ大っ嫌い」
と吐き捨て、侍女はマスクを外した。うってかわって親しみのある笑顔を向けてくる。
仮面をとった侍女の顔をみて若い女は息をのんだ。
「あなたは……あの……」
殆ど全裸の美女は、あろうことか著名な舞台女優のアイリーン・デュボワなのだった。
「びっくりさせてしまったかしら、スノーホワイト」
少し屈折を滲ませながらも焦げ茶色の瞳で若い女――アリシアをやさしく見つめる。
「どうしてここに……アイリーンさんのような方が……」
アリシアの当惑は無理も無い。
ついひと月ほど前に、いつもの”仲良し三人組プラスおまけ三人”で彼女の舞台を観劇したことがあったのだ。
二十代半ばにして既に大女優の風格を
たとえ活躍の場は違っても人前に立つ演じ手として重なるものは多い。
水の上を劇場とみれば水先案内業もまた女優のひとつの形と言っても良かった。
ひとりひとりがゴンドラという舞台で観客に手が届くほど間近で演じるオリジナルの即興劇だ。
だから共通する希望と志をもった先輩として、アリシアも尊敬と憧れの念を抱いてアイリーンの姿を追っていた。
かけだしの頃の新鮮な自分を思い出しながら。
心地よい節回しで朗々とよく通る声、躍動感あふれる身のこなし、あるときは力強くまたあるときは女性らしく優雅に。
とても美しかった――。
その当代きっての女優の一人がいま薄いヴェールだけというあられもない姿で自分の前に立っている。
普通ならばわが目を疑いたくなる不条理な状況だった。
訝しげなアリシアに視線の意味に応えるかのようにアイリーンは、
「私もかつてここへ連れてこられたひとりだからよ。もうかれこれ五年も前のことだけれど……」
「アイリーンさんが、ウンディーネ……」
AQUA暦で五年前と言えば標準齢で十年前、彼女が十五、六歳の年端もいかぬ少女の頃の話である。
「ウンディーネに選ばれた女の子の世話をするのはウンディーネだったものの定まりなの。あなたの身支度を整えて儀場まで送り届け、必要に応じて儀式の間のサポートをして、式が完了した後はここから送り出すまでが私の務め」
アイリーンは今夜の儀式進行のあらましについてアリシアに語って聞かせた。
「問診と誓約書、契約書への署名をする前に、私には最後にもう一度だけあなたの意志を確認する権限が与えられているわ。もしあなたが望まないのなら、あなたはウンディーネになる権利を棄ててここから何事もなく立ち去ることができるのよ」
アイリーンは一歩前に近寄り両手でアリシアの頬をはさむと、こんどは視線を強くしてアリシアの瞳の奥をじっと覗き込むようにした。
「あなたは知っていて? 自分がここでこれから何をするのか」
”ウンディーネ”がどのようなものかは知っている。
太古の、海と大地の神々との契約になぞらえ常世の平安を祈念して一年に一度、神々の前で演じる一夜だけの儀式。
『海との結婚』の
この時ウンディーネは海の使いとして若い女に姿を変え人間の男と
この秘密の儀式のことをAQUAに生きる女たちはものごころがつく頃からロマンチックなおとぎ話として知らされていた。
もちろん“一夜”の意味を知るのはずっと後になってのことだったが。
「何をされるのかを知っているの? それでもいいの? 本当に?」
「………」
アイリーンに訊かれたことは会社に奇妙な招待状が届いたときから何度も何度も自問していた。
たとえどんなに神聖な儀式のためであっても見知らぬ男性に身をゆだねるのは女の本能が拒絶する。このまま立ち去れるのならどんなに良いことか。
「ここはあなたのような女の子にはふさわしくない場所よ……」
それでも招待を受けることにしたのは、自分が行かなければその役目が他の誰かにまわるからだった。
贈られた招待状にははっきりと、もしも招待を放棄した場合は他者への権利譲渡に同意したものとする、と一文が添えられていた。
身代わりをたてるなど、そんな卑劣なことができるはずもない。
罪の意識とともにこれからの人生を生きていかなくてはならないとしたら、たった一夜を忍ぶ方がいい……。
「あなたが候補にあがってると知った時、私は儀式までにあなたが“資格”を失えばいいと思っていたわ。だってあなたは19歳、恋人がいても少しもおかしくはないでしょう?」
「……恋人は……いません……」
「どうして? こんなに綺麗で可愛らしい女の子なのに」
アリシアは力なく頭を振った。
「アイリーンさんは……どうしてウンディーネになると決められたのですか?」
「私はあなたとはちがって選択ができる立場ではなかったからよ。二番目の候補には選択権はないの。ただ連れてこられて、何もわからないままにここで処女を奪われることに同意させられる……」
アイリーンの口から、処女を奪われる――と、思いがけずあからさまな言葉が返ってきてアリシアは言葉を失った。
このAQUAにそのような非人道的で残酷な儀式があることが信じられなかった。
「でも二番手にもお得な部分があるのよ。一番手さんのような選択権が無い代わりに見返りが与えられているから。多くは仕事だったり金銭的な援助だったり……」
アイリーンはまるで自身の今日の成功はウンディーネの責務を果たしたからだともとれる物言いをしていた。
「娼婦みたい? それとも有力者の情婦にみえる? でもそのどちらでもないわ。これはあくまでもこの惑星に古くから伝わる儀式だから……故事にまつわる儀式、あなたたちのあの盛大な表のセレモニーと同様……」
「もしも、拒んだらどうなるのですか?」
「代わりの子が引き継ぐだけよ」
「いえ、その身代わりの人が拒んだら……」
「拒んだ子は居ないわ」
「でも、もしも……」
「そーねぇ……その時はこのAQUAから出て行かなければならなくなるんでしょうね、儀式はこの惑星に暮らすものの運命でもあるから……マンホームの一部で今も残る兵役にも似た義務よ、それが果たせないのなら権利も失う。あたりまえでしょう? でも程度の差こそあれ男だって面識のない女の相手をするのはそれなりに負担の筈よ。それぞれ事情もあるだろうし……あ、そうだわ、かつて一人だけ恋人を裏切りたくないとかで市民権を失った男が居たそうだけど……」
「………」
「今の話、あまり慰めにはならなかったわね……」
言いながらアイリーンは背を向け、もと来た方、ホールの奥へときびすを返し、アリシアはその背中について行くしかなかったのだった。