ARIA A SECRET SCHOOL DAYS 作:真夜中のミネルヴァ
第二節 問診 その1
案内されたのはかすかに消毒液の臭いのする学校の保健室のような部屋だった。
壁に木製のデスクがあって部屋の片隅には診察台が置かれている。ハイバックチェアに患者用の黒いビニル張りの丸椅子、臭気の元となる消毒液らしき白諾した液体を満たした手洗い用の金だらい、それに薬品庫のような木製のキャビネットなどが配置されている。
デスクの上に置かれたファイルの一つが開いたままになっていて、自分の写真が何枚か添えられているのが目にとまった。
身上調査書――?
内容はかなり充実したものらしくちらっと見ただけでもかなりのページが費やされているのが窺える。
「お掛けなさい」
促されるままにアリシアは黒い丸椅子に腰をおろした。膝をそろえて座り、背筋をピンとのばしてアイリーンと向き合った。
「綺麗よ、本当に綺麗……」
「………」
「椅子に座るだけのそんな些細な所作ひとつとっても、今のようにできる子はウチの劇団に一人も居ないわね」
アリシアはつぶらな瞳を少し怪訝そうにしてハイバックチェアーに座るアイリーンの顔を仰いだ。
間近に対峙した年上の美人女優は厳かな雰囲気を纏って裸身でいることを忘れさせる存在感があった。ハスキーな声音には澱みがなく言葉には、まるで台詞まわしをしている時のような力強さを感じている。
調査書の件もあって、こうして向き合っているとむしろ自分の方が裸にされているような頼りなさを感じてくるのだ。
「……教えればある程度まではいくけど、でも簡単な動きほど伝えられるものじゃないのよ。結局しぐさや立ち居振るまいっていうのは女の品性がそのまま写し出されてしまうもの。だからとても怖いの。舞台にあがるまでに自分がどのように生きていたか、心持ちでいたか、それが満座の前でさらけ出されてしまうから……」
「………」
「だから私は今のあなたのままでここを立ち去って欲しいの。あなたが傷を負うのを見たくないから……どのみち強制はできないけど……」
アイリーンは抽き出しからA4サイズの書類の束を取り出すとデスクの上に置いた。
「これが今からあなたに記入してもらう問診調査書よ、といっても記入するのは上の三枚だけ。読めばわかるけどいろんなことを根掘り葉掘り訊いてくるわ。女の子にはとても答えにくいことばかり」
質問項目の書かれたページを表にしてアリシアの前についっと押しやる。
白い上質紙の上に黒く文字が印刷されていて、各項目の右側にチェックボックスや記入用の空欄が設けてあった。
ミッドスクールでの学力試験や水先案内人になるための資格試験で目にしたものと書式はよく似ている。
けれども記載されている内容はそのどれとも違う異様なものだった。
マスターベーション、ペッティング、性器……。
非日常的な文言が目にとびこんできて、アリシアの頬は当惑のために白々とそそけてくる。書類に手をのばすことも躊躇われて、白皙の顔色をいっそう青白くすると唇を固くむすんで
「驚いた? でもきっと寝所ではもっとずっと辛いことが待っているかもしれないわ」
背後にまわったアイリーンは、教師が教え子を親しく教導する時のようにアリシアの両肩に手を置くと、かがみ込んで耳もとに囁きかけてくる。
「だから考える時間をあげるわ。この調査書を埋めるか、それとも……」
後ろから長い腕をのばしてデスクの上にあった別の書類を取りあげるとアリシアの手に取らせた。
「こっちの書類にサインをするか……」
「……?……」
「リザーバーの女の子の調査書よ。中にウンディーネの権利譲渡承諾書が挟んであるからそれにサインしてくれればいいわ」
「でもアイリーンさんっ、わたしは……」
「簡単に答えを出さずにじっくり考えてからお決めなさい。女にとって一生の大事なんだから。そうね、三十分ぐらいあればいいかしら? 進行をあまり遅らせるわけにはいかないので……あたしはその間スタッフの女の子たちと打ち合わせをしてくることにするわ」
アイリーンが部屋を出て、ひとりになると否応もなく突きつけられた不条理と向き合うことになった。
手元に残された二つのファイル。
勇気を奮い立たせてその一方を手にした。が、字面を追ったとたんに心がくじけそうになる。
それは実に邪な好奇に満ちたアンケートだった。文面こそ事務的な装いをしていても内容は女にとって最も触れられたくないプライベートに関する容赦のない詮索に他ならない。
「どうして、こんなことを……」
忍耐強いアリシアにしてはめずらしく非難めいた言葉が美しい唇から紡がれている。腹立たしさに書類を持つ指先が小刻みにふるえていた。
そればかりかアイリーンの説明によれば問診票は記入後、儀式運営に携わるスタッフたちによって写しが男性候補者全員の間で回覧されるというのだ。
匿名とはいえ見ず知らずの男たちにプライバシーをさらけだす辱め。
アリシアの心は鉛のように重たくなった。
(女になんて……生まれなければよかったのに……)
ずっと考えまいとしていたが、そう呪わずにはいられなかった。
儀式では常に女の側に負担が大きいのだ。男と女の立場は公平ではない。
ふと、いつか耳にした奇妙なフレーズが胸奥によみがえる。
“参道は男にとっての極楽道、女にとっての地獄道――”
なんだったかしら? と案じて、だいぶ以前に読んだ小説のなかの一節だったのを思い出した。
大昔のマンホームを舞台にした、貧しさゆえに離ればなれにされる少年と少女の哀しい恋物語。
今それがどのような意味だったのか身にしみてわかる。
身売りされた少女にどのような運命が待っていたのかも……。
それと同じことが今宵、我が身にふりかかろうとしていた。