ARIA A SECRET SCHOOL DAYS 作:真夜中のミネルヴァ
第二節 問診 その2
問診票では生理や性病などの健康、生理的状態についての設問の後は、具体的な性経験の有無を確認される項目が続く。さらには性に関する知識や、許容できる性行為など性的嗜好についても回答を求められていた。
………設問十七 引き続き性経験の深度について伺います。ペッティングの経験はありますか(はい□↓設問三十一へ/いいえ□↓設問十八へ)
………
………設問二十八 引き続きマスターベーションについて伺います。小道具を使った経験はありますか?(はい□/いいえ□↓設問二十九へ)………
萎えそうになる気持ちを奮い立たせてチェックボックスを埋めていたが、通常とは異なる性行為――に関する設問まできたところでついに手がとまってしまった。
「……これ……どういう意味……」
設問六十八 設問六十七で『いいえ』と答えた方は、以下どこまでなら受け容れられますか?
1、指による刺激 □ 2、指の挿入 □ 3、口腔による刺激 □ 4、いずれにも応じたくない □↓設問八十一へ
異常な性行為の嗜好などもとよりあるはずもなく、アリシアにしてみれば示唆された行為のどれもが変質者の所業としか映らない。それなのに設問の欄外には
”あくまでも参考意見としてでありパートナーによっては受理されない場合もあります”
と、謎の但し書きが添えられていた。もう我慢の限界だった。
我身を守りたいという本能が悲鳴をあげている。
会社を出るときに心はきまっていたはずなのに気持ちが大きく揺れてしまうのだ。
「……もう、帰りたい……お部屋に……」
屋根裏の星空の見える暖かいベットとお気に入りのパジャマ、それにいつのまにかもぐりこんでくるぬくぬくのアリア社長の真っ白で柔らかい毛並みと日なたっぽいにおい……。
ほんの数時間前まで自分が過ごしていたあたりまえの日々、日常。
「土曜日の朝は、アリア社長の大好きなストロベリークリームののったパンケーキとメープルシロップたっぷりのホットミルクですよ、それにブロッコリーとニンジンのシチュー……」
胸にこみあげてくるものがあって
「ニンジン、残さずにきれいに食べてくださいね、アリア社長……うううっ……」
自分を励ますつもりで言葉にして、かえって心を乱す結果になっていた。
背を丸めてしばらく嗚咽する。金髪が長くかかって白い顔の上に深い影をつくった。うなじにつづく薄い肩がふるえている。襟足にのぞく首筋は少女のように繊細で、髪間に垣間見える肌は穢れを知らない静謐さをとどめている。
スノーホワイト、史上もっとも美しいウンディーネ、水の精の生まれ変わり――。
ネオ・ヴェネツィアに限らず人々の賞讃と憧憬を一身にあびるAQUAの名花。
おっとりとした性格と輝くばかりの美貌から大人びて見られることもあるが、実際はまだ十九歳になったばかり。友人と恋を語るのもためらうやや控えめな少女の素顔が表になっていた。
そんなアリシアにとってかけがえのないもの、失いたくないものの全てはあの狭い屋根裏部屋のある小さな会社とそこから見わたせる世界にあった。
平和で穏やかで善意に満ちた人々の暮らす美しい街に生きるよろこび。
プリマウンディーネとしての自分――。
それが今は夢の中の物語のように遠く儚く感じられる。
暗い森の奥、真夜中の城館で行われる秘儀。
美しいAQUAにはもうひとつの顔があったのだ。平和と繁栄が女たちの血と肉、涙をもって
アリシアには他人の犠牲の上になりたつ繁栄など信じられなかった。
AQUAは人が犯した数々の失敗を苗床に、ここを訪れた先人たちが人類の叡智を注ぎ込み、AQUAの神々の祝福によって生まれた現代の理想郷のはず。
それなのに……。
全てが偽りだとは思いたくない。けれども現実と向き合うと、信じていたものから裏切られたようで気持ちはささくれてくる。
潤んだ視界にデスクの上に残されたもうひとつのファイルが目にとまった。
閉じたままのクリーム色のペーパーファイル――。
それはいまのアリシアにとっては自由と日常への扉を開くパスポートに他ならない。
(……アイリーンさんの言うとおりに、これに……サインをすれば……)
下した選択はここだけの秘密。外部にもれることなく厳重に守られる。誰からも咎められることも責められることもない。
そうすればまたいつも通りの朝が待っていた。
なにもかもすっかり忘れてしまえばいい、悪い夢だったと。
誘惑が胸の奥でふくらんでいる。
(誰だって同じことをするわ……女の子なら……)
アリシアは少しふるえる手をファイルにのばした。
身代わりのプロフィールを見まいと瞼を閉ざしファイルを開いて手探りする。書式の体裁は自身のものと同じ筈、承諾書はきっとそんなに複雑なものではないだろうと。
案の定、一枚だけ独立した書類が手に触れてそれを抜き出した。ファイルをしっかり閉じてから目を開く。
思ったとおり見出しが“ウンディーネ権利譲渡承諾書”となっていて、アリシアはほっとひとつため息をついた。
が――。
署名しようとペンを取ったが、そのままの格好で凍りついてしまった。
テキストには権利者の空欄の隣にはっきりと譲渡者の名前がプリントされていたのだ。
「そんな……」
自分のエゴの身代わりはあろうことか顔見知りだった。それ以上に親しみを感じてもいる少女だ。
同業の後輩ということで街で会うとびっくりした顔をして、いつもくりくりした瞳で仰ぎ見るようなひたむきな視線をむけてくる。それがとてもくすぐったいのだった。
つややかな髪の愛らしい女の子。たしかこの秋にミッドスクールを卒業したばかりのはずだった。
藍華・S・グランチェスタ――。
業界トップ、栄えある姫屋の跡取り娘であり、また将来を嘱望する次世代スター候補。じきにシングルへの昇格も噂されている。
なにより少女の母親からはゴンドラ協会の寄り合いで会うたびに、最愛の娘の将来について相談をもちかけられていた。多くは愚痴をきかされるばかりだったが、けれども端々に親心がのぞくのだ。どんなに期待をしどんなに愛しているか。
アリシアも藍華の才能とそれを上まわる努力を認めている。
そんな未来のある子を自分ひとりのエゴでどうして陥れることができようか。
見知らぬ男の待つ閨へと追い立てるなどというのはミドルティーンの純潔な少女には過酷すぎる仕打ちだった。
「そんなこと……」
藍華のファイルを開いた。書類に貼付された写真が目にとまる。屈託のない笑顔をむける幼い頃のものが数枚。自分と同様に詳細な調査がなされていたらしく、他にも家族や友人の写真がいくつか添えられていた。家族の中心で愛情を一身にうけて育つ幸せそうな少女とその一族。
さらにページをめくろうとして、他人のプライバシーに立ち入るのがはばかられて書類を元に戻した。少女の身上調査書を膝に背筋を伸ばして、ふぅぅ、と長く息を吐く。
するとそれまでこわばったままだった肩の力がすっと抜けていくような気がするのだった。
「バカだったわ……ありがとう藍華ちゃん、教えてくれて……」
もとより代わりの子が藍華ではなかったとしても同じことだった。
わかっていたことなのに……。
アリシアは未署名の承諾書を藍華の関連書類の中にもどすとファイルを閉じた。元どおりにきちんと揃えてデスクの上にもどす。
「わたし、平気……」
声にまた凛とした張りと力がよみがえっている。
覚悟をきめた頬にはかすかな微笑さえ浮かんでいた。すこし寂しげな諦念の笑み、慈悲の笑みが。
ペンを取るとふたたび升目を埋める作業に戻っていった。てらいもいつわりもなく素直な今の自分をさらけ出すことにする。
きっと明日の朝には今とは違う別の自分と出会うことになるのだろう。
でもそれがどうだというの……?
女であれば誰もが一度は通る道、あまり大げさに考えなくてもいいのかもしれない。
「きっと、平気よ……大丈夫……」
自分に言い聞かせると、愚かしい設問にもできるだけ真摯にマークを付けていくのだった。