ARIA A SECRET SCHOOL DAYS 作:真夜中のミネルヴァ
第五節 大聖堂
背伸びをして腕を一杯にのばせば天井に届きそうなほどの狭隘を、ひとり壁のランタンの灯りをたよりに歩いている。両側に間隔をおいてオレンジ色の頼りない炎が隧道の先の方まで伸びていて、その先がぼおっと明るくなっていた。
かすかに花の香り、遠く涼しげな水の流れる音がきこえる。振り返ると出てきたアイリーンの居る部屋の扉が小さく見えた。
実際にはほんの一分あまり、四、五十メートルほど歩いただけだったが圧迫感もあって、あるいは気持ちが萎縮しているせいもあるのだろうアリシアをその何倍も歩いているような気分にさせている。
いったいどのくらいの深さまで下りているのか、湿度、気温ともにかなり高かった。これまでのウンディーネたちがみな着衣を脱ぎ捨ててこの道を歩いたというが、それも宣なるかな。少し動くと冬服の体がうっすら汗ばんでくる。
ワンピースの腋の下のあたりが湿った感じになっているのに気づいてアリシアは当惑のため息をついた。
日付が変わって、昨夕遅く会社に戻ってシャワーを浴びて以来ずっと肌着を替えていなかったのだ。
「どうしてこんな地下に聖堂を作ったのかしら?」
つい恨みごとっぽい調子の言葉が口をついてしまう。
足もとこそ裸足でも歩けるように巾が五十センチほどの板を渡していたが、トンネルは途中からはコンクリートの打ちっ放しも途切れてくり抜いたままの岩肌がむき出しになっているのだった。かつては坑道であったものらしく岩壁のところどころに当時を伝えるよすがともいえる手書きの標識が残されている。
わざわざ開拓期の廃坑を利用してまで築く地下聖堂とはいかなるものだろう。アイリーンに念押しされた秘密厳守というのも気になっている。
(セックスはとてもデリケートなことだけど……)
性が絡めば大抵の人は口を閉ざしてしまう。
自分も……。
ふと相手の男性のことに考えがおよぶ、と、見えない手で胃をわしづかみされたようになってアリシアはすぐに気持ちをきりかえた。
(いまは考えてもしかたないから……)
けれどもそんな沈鬱な気分も出口が見えてくるにつれて興味と驚きへと変わったのだ。
長い廃坑を抜けるとそこは、
「すごい……」
一変した光景にアリシアは碧いひとみを大きくした。
そこは地底の大鍾乳洞だった。アリシアが見聞きした限りもっとも壮麗で広大な。
一面なだらかな起伏を描いて乳白色の石筍の森がひろがっている。そそり立つ巨大な石柱はいったい高さがどれほどあるのか、岩肌に這わせたランプの灯ぐらいでは見上げても真っ暗でわからなかった。
薄暗がりであるうえに大きさを比較できるものも無くて遠近感も掴みにくかったが、洞の端までは数百メートル、あるいは一キロほどもあるかもしれない。巾も狭いところでも優に二百メートル以上はありそうである。
「ここが……地下聖堂……?」
聖堂という言葉のもつ厳かな響きさえもここではつつましく思えた。これに比べればサン・マルコ大聖堂やドゥカーレ宮殿さえもミニチュアモデルだった。
豊かな地下水脈の作用によって溶食、再凝集を繰り返し、気の遠くなるほどの時間をかけて造られたまさに神の手による天然の大聖堂だ。
「地下にこんな世界があったなんて……」
渡り板は乳白色の森の中ほどへと続いていて、雪だるまのような石筍にぶら下げられたランタンの炎が奥へ奥へとアリシアを誘っている。遊歩道の両側に広がる大小さまざまな石筍の群れを見やりながら、まるで真冬のドロミテみたいとアリシアは思った。
ネオ・ヴェネツィアの北、ネオ・ドロミテは冬になると一度は訪れるアリシアにとってはなじみのある地方だった。スキーや橇を楽しみに冬の訪れを心待ちにしている人もネオ・ヴェネツィアには少なくない。アリシアも例外ではないが、一番のお目当ては森林散策にあった。山裾に広がる豊かな樹氷群はとりわけ見事で、どこまでも静謐で清潔な白銀の世界は子供の頃から憧れだったのだ。そこに居るだけで癒しとなる心のオアシスともいえるパワースポットでもある。
もっとも夜スキーに出かける時などはたいてい"連れ合い"と一緒で、こんなふうに一人で暗い森を歩くなどということはなかった。だから今は異界に迷いこんだようでちょっぴり心細くもある。
なだらかな斜面を上りきると百メートルほど先の小高い丘の頂がほの明るくと照らし出されているのが見えた。
祭壇……?
近づくとハミングまじりの歌声が聞こえ、たちまち胸がまた早鐘をうちだす。
誰か、いる……。
歌は聞き覚えのある旋律でアリシアも耳にしたこともあった。マンホームのクラシックソングだ。声は若いというよりも……。
アリシアはおそるおそる足を忍ばせて声のする方に目を凝らした。
祭壇の上に置かれたいくつもの燭台の蝋燭が薄闇に馴れた目に眩しいほど明るい。まわりを飾る絢爛たる薔薇の薫りがアリシアの居る丘裾にまで濃厚に香ってきている。
と、祭壇の陰からひょこっと、白い寛衣をまとった男の子がひとり現れたのだ。
(どうして、こんなところに子供が?)
とっさにそう思ったのも無理はない。
口にカットオレンジをくわえたままの無邪気な様子はミッドスクールに通っているかどうかも怪しい年格好。けれども深夜二時を過ぎた真夜中の地下鍾乳洞に聖歌隊の少年など居るはずがなかった。
(そんな、うそよ……うそでしょ、だってあの子……)
気づいた少年が目を丸くしたまま無言で見おろしていて、アリシアの心臓は喉からせりだしそうになった。
祭壇に続く化粧石の階段を努めてゆっくりと上りながら、アリシアは混乱する頭で相手の素性を推し量る。
(ノームさんっ?)
考えてすぐに否定した。
殆どを地下に暮らすノームは青白い肌をしているのが普通で健康そうなブロンズの肌をしたものはいないのだ。
階段を上りきり迎える少年と向き合う。間近にするとブーツのヒールの分もあって裸足の少年をかなり見下ろすかたちになった。
薄闇の中の見間違いなどではなかった。正真正銘の男の子、それも若いという以上に幼い見かけの。
(この子が……パートナー?……十二歳ぐらいかしら、もっと小さいのかも……ちがうわ、そんなはずはないから……でも……)
思いが入り乱れる。それを隠してアリシアは少年に微笑みかけようとした。自然な笑みをつくろうと。けれどもいつもの笑顔が思い出せない。
きっとぎこちない顔をしている――それが相手のとまどいの表情からも読みとれるようで余計に余裕をなくしてしまうのだ。
いまにもひび割れそうな薄い仮面の下から緊張と当惑の素顔が剥き出しになってしまいそう。
(ああ、なにやってるのっ、あたしっ! 男の子なのよ、ほら、こんなに心細そうな顔してるわ。あたしがお姉さんなんだからしっかりしないといけないのに……)
思えばアリシアはこれまで異性――についてこんなにも真剣に考えたことはなかった。
まして――。
(どうしよう、なんて話しかけたらいいのかしら、もしもいきなり変なことを言って傷つけたりしたら……)
けれどもそんなアリシアのどぎまぎする思いをよそに
「遅くなってしまってごめんなさい」
言葉がかってに口をついて出ていた。シチュエーションからするともっともあたりさわりのない言葉が。まるで自分の中にもう一人、我を失っていない冷静な自分が居て、それがじたばたする”自分”を押しのけて不意に前にあらわれたような。
「……やっぱり……アリシアさん、だったんですね……」
思いがけず抑制のきいた声が返ってきた。相手の幼い顔立ちに不釣り合いともいえるような当惑がよぎって、かいま見たアリシアの胸に見知らぬさざ波となって広がっていく。
(きれいな黒い瞳……やさしそう……でも髪はもうちょっとだけ短くした方がいいかな、目の周りがくすぐったそう……)
「ボクも今ついたばかりです」
「うそ……」
少年の手の中にはオレンジ色の果皮がいくつか握られている。どうやら祭壇の上の物に手をつけるくらいの余裕があったらしい。察した少年はぎょっとしたように言葉につまると、
「そこに案内書みたいなものがあって、食べてもいいって書いてあったから……」
キマリ悪そうに弁解する。
「(まるでお供え物の盗み食いを見とがめられた男の子みたい……あらあら、そのものね)うふふっ」
「ダストボックス、さっきから探してるんですけど見つからなくて……」
「ふつう祭壇のまわりにはそうしたものは置かないわね」
アリシアは制服のポケットからハンカチをとりだし、手の上に広げながら少年の前を差し出した。
「いただくわ」
「できません、そんなこと」
アリシアの申し出を少年は固辞する。果皮を握った手を背中にまわして隠してしまうのだった。
「じゃあこれを使って」
アリシアは深追いを避けハンカチを勧めると少年は申し訳なさそうに手を出した。
「ありがとうございます、後で洗ってお返ししますから」
「いいのよ、さしあげるわ」
「でも……」
少年が果物の残りかすをていねいにハンカチに包んだ後も、アリシアはなお小首を傾げてわざと無言のままで少年を眺めていた。相手が何かを言うのを待つ気配を滲ませて。
「……あ、あのっ……まだ何か?……ボク……」
「どうして?」
「どうしてって……!?」
「いま『やっぱり』って言ったわ」
怪訝な面持ちの少年に理解の色が浮かぶ。
「だっていくら仮面で顔を隠しても、あんなに綺麗な口元をしている女の人が他にいるはずが……それに、フードの陰に金色の髪も見えたから……だからもしかしたらって……」
言葉を選びながら訥々とつづける少年だったが、不意に思い出したように顔を上げるとアリシアを一瞥して、またまぶしそうに視線を落とした。
「あの……ボク、ヒイラギ……柊、アキトです。この秋にマンホームからこっちのスコラダルテへ奨学生として来て……」
「ヒイ、違うわね、ファーストネームはアキト?……アキトくん、そう呼んでもいいかしら?」
目を細めてそう言うアリシアの頬にはいつもと同じアルカイックな微笑が浮かんでいた。