ARIA A SECRET SCHOOL DAYS 作:真夜中のミネルヴァ
第六節 アキト その3
祭壇奥の祠の入り口前でアリシアは、また自分からかがみ込んで口づけを求めた。アキトは従順に顔をあげてアリシアに唇をさしだしている。目を閉じて濃くて長い睫をくっきりとさせて。ほのかに香る柑橘の薫りは無垢でナイーブな男の子のにおい。
戻り道の途中、アリシアは勇気をかき集め自分の方から顔を寄せてアキトと唇を重ねていた。異性を異性と意識してかわす初めての口づけを。薄闇のなか手をつなぐアキトをとても近くに感じて。
けれどもそれはアリシアの勝手な思い込み、錯覚なのかもしれなかった。そのときの少年のびっくりした顔と、潤んだかなしげな眼差しが胸のなかで小さな棘となっている。
それにアキトは今もアリシアの体にはけして触れようとしないのだった。だからアリシアもアキトの体に身を寄せられずにいる。
顔と顔を寄せ、唇を触れ合わせるだけの軽いキス。
「ごめんなさい……」
乱れた前髪を整えながらアリシアはくすんだ声で言った。男の子の目をちらっと盗み見て、どこか傷ついた容子を見て取るとまた気持ちが沈んでくる。
「どうして、あやまるんですか?」
「だって……」
アキトが自分の本心を裏切って好きでもない年上の女の相手をしなければならないとしたら。そう思うとなんだか自分が汚らわしい不浄な女のように思えてやりきれなくなってくる。
もちろんそんな葛藤など話せるわけもなく、だからアリシアも答えを曖昧にするしかなかった。
「ねぇアキトくん、少しの間、わたしを一人にしてくれませんか?」
「はい……」
少年はここでもやはりアリシアの申し出にすなおに頷いた。
「十五分くらいでいいわ、階段の下で待っていて、時間になったらいらっしゃい……でも……」
アリシアはそれを言うべきか否かしばし迷った。けれどもいま伝えておかなければ公平とは言えないのだった。
言い出す勇気が持てなくて先延ばしにしていたが、うやむやのままに関係を結べば罪の意識に苛まれることになるのは目に見えていた。
「……どうしてもイヤだったら……そのままお部屋に戻ってもいいのよ……だから今、あなたの鍵をお返ししておくわね……」
アリシアは候補者たちから託された件の子鍵を胸のポケットからとりだすと、少年はわずかに眉をひそめたが黙ってそれを受け取った。
これがあればアキトは部屋に戻ることができるのだった。
本来は儀式を終えたあとにウンディーネとなったものが、恋人――に契りの証として与えるのが慣らいとなっていたが、それを先にすることでアキトに選択の自由を与えたのだ。
「事情は私から主催者の人にお話しておくから心配しないで……」
「………」
「それにアキトくんの場合は辞退してもペナルティはそんなに大きな負担にはならないはずだから……」
マンホームからの長期留学生であるアキトには仮市民権しか与えられていない筈だった。たとえ失っても留学期間の短縮までには至らないと思う。
アリシアは反応を待ったが、アキトは自分の意志を明らかにするつもりはないらしく、アリシアは少年の気持ちを探ろうとしている自分を戒めた。
言いつけどおりに階段をかけ下りていくアキトの後ろ姿を見送りながら、こちらを振り返ることもないその淡白な様子がまるで授業を終えて帰宅する生徒のように見えて、アリシアはアキトと自分との立場の違いをまた意識してしまうのだった。
十四歳――。
(それなのに私ったら……)
子供はいとも簡単に自分たちの世界から大人を閉め出してしまうもの。
でも……。
はじめての口づけは子供たちが戯れに交わすような幼いキスとは違っていた。
親しい友人との挨拶のキスとも違う。
あれはやっぱり男と女の接吻だったのだと思う。自分が初めてキスをした男の子……。
「ありがとう、アキトくん……」
アリシアはひとりごちた。もしかするともう二度と会うことはないのかもしれないと思いながら。それを寂しく思っている自分に戸惑いながら。
(これが女の子の気持ち、なのかしら……)
アリシアは自分の変化を認めるしかなかった。
アキトに戻ってきて欲しいと願っていたのだ。もっと一緒にいたい、アキトのことを知りたかった。
(男の子を好きになるって、こういうこと……?)
恋をするというのがどのようなものかアリシアにはまだよくわからない。異性を好きになるということが実感として今もわからずにいる。ただ、アキトと体の関係を結ぶことへの抵抗感は驚くほど薄れているのだった。こんなにも容易く自分の心が開かれていることが不思議でならなかった。
はっきりわかるのはこのままアキトとお別れになってしまうとしたら、きっと後悔するだろうということ。
でも会うことなら外でもできるのかしら……?
アリシアは鈍く重苦しい気分で、そうはならないことを認めた。
見知らぬ男と番った自分はもう今の気持ちを抱くことはゆるされない。もはやそれはただの未練だった。これから青春を迎える少年への冒涜。
アキトから拒絶されれば自分は別の夜にまた見知らぬ男性の待つ寝所へと向かうことになるだけだった。
穢れを纏った自分が少年たちと同じ場所に立つことはない……。
ブーツを脱いで寝所に入る。藁の感触を確かめながら奥へと進んだ。
でも、もしも戻ってきてくれたら……。
そのときは……。
一人になりたかったのはせめてもの女のエチケット、汗ばむ体を水で洗い流してさっぱりしたかったからだった。が、うらめしいことにこの地下世界には浴室はおろかシャワーさえも備わってはいなかったのだ。
流れる水脈の音は聞こえていても、結局、水たまりひとつ見つかることはなかった。
仕方なくアリシアは祠の奥に配された水琴用に置かれた水盆の水を使うことにした。
幸い飲用や
水盆の置かれた床にはいつ頃に作られたものか分らないほど古い仕掛けの排水口があって、ちょろちょろと音を響かせながら地の底深くに流れていく。
制服のポケットから予備のハンカチをとりだして水で湿らせると額に滲んだ汗を拭った。顔と首まわりも。
それから……。
脱いだ制服はきちんと畳んで部屋の隅に置く。白い肌着は汗を吸って重くうとましいばかりになっていて、それをアリシアは制服の中にひっそりと隠した。
なやましいため息をつく。
小さなハンカチで体の汚れを拭うのはどうしても不自由があるのだった。人にはけっして見せられないような浅ましい姿になるのはたとえプライベートであっても自分を情けない気持ちにさせるのだ。
みぐるしい姿になる前にアリシアはいまいちど背にした入り口の方をうかがおうとした。
(誰も居ないのに……あの子、もう戻ってこないかもしれないのに、バカね……わたし……)
一人で舞上がっている自分が哀れで自嘲気味の微笑みが浮く。
が――。
「えっ!?」
そのまま悲鳴をあげる形に口をひらいたまま凝固まってしまった。
「あ、アキトくんっ!」
いったいいつ戻ってきたのかアキトが入り口の前に立ち尽くしていて、おし黙ったまま思い詰めた顔でじっとこちらをみつめていたのだ。全裸の自分を。
とっさにアリシアは両手で裸の胸と秘所を庇った。
予想もしていない事態に混乱してしまう。
「ど、どうしてっ!?」
十五分どころかまだ別れてからほんの五分も経っていない筈だった。
「まっ、まだよっ、まだ来ないでっ!」
アリシアは制止する。が、従順だったはずの少年はそれを無視して無遠慮に部屋の中に入ってきてしまう。
「アキト、くん、どうしたの?」
アリシアは本能的に身を守ろうとする女性らしい姿で少年と対峙することになった。
身を丸め半ば背を向けた半身にちかい状態で。
けれどもそんなことではアリシアの若々しい魅力は隠しきれない。
ひきしまった胴のくびれとふっくら張りのあるヒップライン、骨細のからだには重々しい豊かなふくらみがはち切れそうになってアリシアの手の中で息づいている。白い背中をさらさらと流れるブロンドの髪。
アキトはすぐ近くまでやってくると、上気させた顔を伏し目に「そんなことしないでください……」と、小さな声でうったえた。
「え?!」
「おねがいですから……そんなこと……」
少年は同じことをもう一度くりかえした。
「何を言ってるの……? わからないわ……」
「ボク……そのままの……アリシアさんが欲しいから……」
躊躇いながら、言葉を選びながらアキトはとても言いにくそうだった。
はげしく赤面しているのか少年は耳朶まで赤く染めていて、それでアリシアは少年が言っていることがようやくわかったのだった。
唇に毒を塗ってぼくの部屋に来たでしょ
吐き気がするくらいあなたの心美しいのに
なにもできない僕にどうしてキスしてくれるの
「アキトぉ、炭水化物ぅ!」
「アリシアさん、飲み過ぎですよ」
さらにアリア社長からも呼び捨てにされる未来が待ってたり……しませんけど
聴錯覚に眩暈がしそうになるプログラムはきっとわざとだよなぁ