ARIA A SECRET SCHOOL DAYS 作:真夜中のミネルヴァ
第十一節 朝、夜の儀の終わり その1
午前六時を回り――。
アイリーン・デュボワは侍女長の控え室で、独り一睡もできぬままに朝を迎えることになっていた。
他の七名の侍女たち――いずれも、かつてここで儀式をいとなんだ経験を持つ元ウンディーネたちだった――も、おそらく同じであろうと思いながら。
この『幻影の館』に戻ってくると誰もが否応もなく、自分が儀式へと追いやられた時のことを思わざるを得なくなる。
青春時代の大きな節目としての、自身が初花を散らすこととなったあの夜のことを……。
女であれば誰にとっても見知らぬ男の寝所に向かうことは不安で、気持ちの通わない相手に肌を許すのはとても辛くて哀しいもの。それがまして初夜ともなれば心にも体にも大きなショックを受けることになる。
「……アリシア……貴方が受け止めきれないほどの、
仮設の簡易ベッドに身を横たえたまま、クリーム色に塗装を施しただけの簡素な天井を見上げながらアイリーンはひとりごちた。
きっと彼女であればそんなに酷いことにはならないのではないかと、そんな気もするのだが……。
確かに、これまでこの夜の儀の侍女をした過去数度の経験では、ウンディーネとなったものが心に大きな深傷を負うような悲惨な例にはあたったことはなかったし、神々――の加護が働くのか自身の場合を含めても、どうにか折り合いをつけられるぐらいの所に落ち着くのが常であるとも言えた。
ただ、それが今夜の彼女にも当てはまるかは儀式が終わるまでは分からない。
夜の儀――。
初めは女にばかり負担を強いる陰湿で淫らな実におぞましい儀式だと思っていたが、いわゆる啓示を受けた後は、また七賢会のメンバーの一人であるウンディーネの大先輩からその成り立ちと意義を教えられて以降、確かにこれもAQUAに暮らす女の義務、ある意味ではノブレス・オブリージュであるとも思えるようにはなっている。
七賢会のメンバーが神々から受けた啓示によって選ばれるウンディーネは、心技体におけるあらゆる面で傑出した、まさにAQUAにおける選り抜きの女性であることの証でもあるのだった。
たとえ本人にそのような自覚はなくともアイリーンもまたその栄誉に浴していた。成長の機会を与えられていることを実感として持っている。
啓示――。
神々からの啓示。
全てはあの実に見事な、そして淫らな交歓像が地の底から発見されたことに始まっていた。
きっとアリシアも目にしたであろう、若く美しい男女が互いの陰部を貪りあって思いを伝え合っている巨大な重力石の像を。
人類が繁殖を離れて誰もが普通にオーラルセックスを愉しむようになって、まだたかだか数百年。
対してあの像は、一説には地質学的年代を遥かに超えて天文学的な太古の昔からあそこにあったという。
まさに神々の時代のものだった。
その不思議な物語と、それに関わった人たちのその後の運命、そして冷たく乾いた赤い星が豊かな水の惑星AQUAに至るまでの歴史、マンホームと袂を分つことになった所以や、なぜ、火、水、風、地の精霊と呼ばれる人たちが現れたのかも起源を辿ればあの性愛像に一本の線で繋がっている。
夜の儀とは、まさにその根幹にあるいとなみだった。
儀式で彼女たちの流す血と涙は、神々に捧げられる贄なのだ。
そしてウンディーネの尊い犠牲がAQUAの繁栄を支えている。
この惑星は、地球を中心とする人類文明圏の中において、唯一、女性原理によって運営されている惑星国家だ。
確かに表面上の政治形態は自由主義世界における議会制民主主義と同様に、有権者である国民の投票に依って選ばれた代表による議員が、かつてのマンホームのヴェネチア由来ともいう複雑な手続きと選挙を経て行政機関の長である
しかし、その背後には七賢会――七名の全員が女性で、その中には複数名のウンディーネであったものが居るという――のような権威が国家意志の妥当性について評価を下しているという。
普段の彼女たちはいずれも市井に暮らす平凡な老女ということなのだそうだが、国が道を踏み外すことのないように常に水面下で支える精神的な拠り所でもあるのだった。
そして彼女たちの判断基準となるのが、女性らしく美的で細やかな情の通う治世。
力と理を基本理念とし、ともすれば争いをも辞さない猛々しい文明は、著しい発展とめざましい進歩という恩恵をもたらす一方で、常に破綻と背中合わせにいる。一つ間違うと破滅しかねない危うさを内包しているのに対して、美と愛を尊ぶ女性的な価値観は長きにわたる安定と平穏をもたらす。
AQUAはまさに愛と美、平和こそを理念とする女権国家だ。
ただ平穏は、その負の側面として停滞を招き、それはしばしば外圧によって意図しない変更を余儀なくされる。
かくして人類は、その歴史の殆どを男性中心の国家観で乗り切ってきたのだが、こうした力学の前に女性的でしなやかな世界はいかにもひ弱で、脆くみえるだろう。
かたや惑星文明から恒星文明へのさらなる跳躍を目指す地球連邦と、自給自足で慎ましく生きる道を選んだAQUA。
そんなAQUAがなぜ、強大な地球圏から自立、独立することができたのか――?
かつて火と戦いの神の星であったMARS――火星――が、なぜかくも温和で平穏な水の惑星AQUAとして成立し得たのか?
さながら屈強な兵士たちを前に、薄衣を纏っただけの肌も露わな少女が一人、佇立しているような危うさでありながら、自尊のための強力な手段を持つわけでもない自分たちが、今も地球圏に吸収されることなく対峙し続けられるのは何故なのか?
自身は政治家でもなく、一介の女優に過ぎないアイリーンはその詳細を知るところではない。
しかし、その一つには間違いなく、神々からの加護があったと思うのだ。
神々の加護――。
それは信仰や偶像崇拝といった不確実なものではなく、顕現の仕方や程度、頻度に個人差はあるもののAQUAに暮らす人間には誰にも人生の中で一度や二度、覚えのあることだった。
夢のお告げや啓示、閃きなどの様々な形をとってしばしば経験される、あたかも幸福と安全とを約束するフラグのようなもの。
もちろんアイリーン自身もこれまでの人生で一度ならず経験している。
例えば迷いがあった時、ひとり静かに身を鎮めていると、不意に耳に届く誰かの会話や、たまたま目に入ってくる本のタイトルなどの他愛もない形をとって閃きがもたらされることがあるのだった。
それを啓示と感じる時、確かな指針となって自身の行動のよすがとなってくれるのだ。神々の囁きに心を開き、耳を傾けている限り喜びと実りは自然に向こうからやってくる。
こうした気づき――が、日常のいたるところで人々を待っているようだった。
そのことを知っているから、みなが大きな過ちを犯すことはないのだ。
高度に自己抑制の利いた社会。
例えばマンホームと比べると著しく低い犯罪率が、AQUAに暮らす人々のささやかな自信と誇りとなっている。強い権力や制度で縛らなくても、人々は軽々しく犯罪の誘惑に負けることはなかった。
とりわけ凶悪犯罪の類は、彼女が知る限り一度も発生してはいないのだ。最後に起きたのは今から三十年以上も前、ネオ・ヴェネチアの郊外での強盗事件だそうで、しかもその犯人とされる人物はマンホームからの旅行者だった。
なぜかくも平穏で居られるのか?
それは、いちいち法に依らずとも、犯罪が割に合わないことをこの惑星に暮らす人々は、自身の生活感からくる経験を通してよくわきまえているからだ。
奪わなければ、やがては奪う以上のものがもたらされることを知っている。
これをもしも信仰、というのであれば、AQUAは宗教的な感覚をほどよく纏った人々がいたるところにいる社会だ。
そしてその裏付けとなっているのが神々との繋がりであり、そのために捧げられるのが夜の儀だった。
だからといって――。
アイリーンは唇をキリリとさせる。
うら若き女性にとっては惨い儀式だと思う。たとえ命を奪われるわけではなくても、女の命を散らすというのは一人の女性が担うにはあまりにも負担が大きい。
だから、新たにウンディーネになったものを迎えるために自分たちが居るのだった。
自分を含めて八名の同じ経験を遂げた者たちでなければ、彼女の痛みや哀しみを分かち合うことはできない。
迎え入りの儀式を通して、せめてもの慰めになれば、と。
アイリーンは、できることならアリシアをウンディーネにしたくはなかったのだった。
白き妖精の彼女は、その愛らしさと美しさにおいて、彼女の目から見ても特別だったからだ。
やがてはアリシアも恋をするとしても、それまでは穢れのない乙女であるべきだった。
だから翻意を促したくていくつもの意地悪をしていた。
もとよりウンディーネ候補となるものの世話役となる侍女長の役目は、贄となる女に覚悟を促すべく様々な仕掛けをするのが習わしで、過去にはアブノーマルなセックスの図譜を見せられて辞退したものも居たというし、体位のイラスト集を開いて泣き崩れた娘も居たという。
それでも儀式を受ける用意ができていれば、現場で実際に不意を突かれるよりも遥かに心のダメージは抑えられて、後々の回復も早まる。よしんば覚悟をしていたものよりも実際の方が穏便なものであった場合にはかえって好都合だった。
こうしたことを先のウンディーネたちは長い歴史から学んでいて、今日の形になっていったのだろうと思う。
ただ、アリシアの場合は本当に辞退して欲しかったのだ。
スケジュールが押していたこともあったが、あえて沐浴の時間を取らなかったのも
また体に触れて、女が肌を許すことの覚悟を問い質したり、あの醜いセックスチェックのアンケートもそもそもは彼女の発案だった。アリシアの心を挫くために、敢えて酷い文言を散らして動揺を誘ったが、結局は決意を変えるまでには至らなかった。
もしも自分だったらきっと早々に退散していたところだろうと思うが、心根のやさしい彼女は、やはり我が身を犠牲にすることを選んだのだった。
だからこそより強く希う。
大きな傷を負うことなく儀式が終えられるように、と。
アリシアがあのアンケートにどのように答えたかは分からないが、書類は写しを取られることなどなく、回覧されることもなく封じられて、パートナーとなる男性の元にのみ届けられている。
きっと彼女らしい純白の無垢な自分をさらけたものになっているのだろう、それを見た男がどう感じるか、どう思うか……。
どうか心やさしい相手でありますように――。
あの子に酷いことをしないで欲しい。
もしも白き妖精のままで帰って来てくれるのなら……。
そして僅かでも儀式の間の彼女が安らぎの時を持てるとしたら……。
表の世界で史上最も美しいウンディーネと称えられる彼女が、この夜の儀を経て、こちらの世界でも最も美しいウンディーネになれるように、と。
チリリン――。
控室の壁にかけてあった鈴が小さく鳴って、沐浴室の扉が開かれたことを伝えていた。
儀式を終えて戻ったアリシアが浴室へと入ったらしい。
アイリーンは簡易ベッドから身を起こすと、不安に胸をドキドキとさせながら足音を忍ばせて、灯を点けずに隣室の容子を窺うのだった。
浴室は脱衣室となる小部屋の先に曇りガラスの引き戸があって、その先が特に大きいというわけではないが一人用にしては十分な広さのある浴槽と、ゆったりとした洗い場のある沐浴室となっていた。周囲を岩壁に覆われていることを除けば、宗教的施設というよりも温泉宿にある露天の個浴室の趣きを備えた、落ち着いた雰囲気の
外から光の差さない浴室は壁の燭台のゆらめく炎だけが頼りの仄暗い中、曇りガラス越しにゆらめく人影が目に入るのだった。
よもや嗚咽や嘆きが聞こえてきはしまいかと、耳を澄ませて気配を窺う。
失ってしまったものの大きさに気がついて心を痛めるのは、多くの場合、男の腕の中にいる時よりも、むしろ一人になって自分と向き合えるようになった、儀式を終えたばかりの今だったからだ。
が、アイリーンの心配をよそに、やがてザザっという掛け湯の音が二度、三度と響いてきて、とてもアリシアらしいと感じて肩の強張りが少し解けた。
浴槽はそもそも掛け流しの天然温泉であるが上に、利用者がウンディーネただ一人でもあることから、入念な掛け湯などは必要なかったのだが、こうした気配りができるほどに一事を終えた彼女には、まだ気持ちの上での余裕があるからだと期待する。
それから彼女が静々と浴槽に身を浸すのが判って、アイリーンは脱衣室に入ると曇りガラスをコツコツと叩いてから中へ向けて声をかけた。
「開けてもいいかしら? スノーホワイト……」
「ええ、かまいません、アイリーンさん……」
いつもと同じ、涼しげでいて和やかな艶のある声が返ってくる。
引き戸を少し開けて中を覗いた。薄暗がりの中に湯船に身を浸したままこちらを振り返るアリシアのほの白い顔が見えている。長い髪をきちんと頭の上にまとめていて、心なしか微笑んでいるようにも思えて、その容子に安堵したアイリーンは普段通りの声で
「バスローブを出しておくわね、着ていたものはクリーニングして、あなたがここを離れるときまでに乾かしておくわ」
そういうと、相手の口が何かものいいたげに開かれた。
が、そのままこっくり素直に頷くと
「すみません、お世話になります……」
愛らしい会釈を返してきて、アイリーンはますますアリシアのことが好きになるのだった。
棚の脱衣籠の中に丁寧にたたまれていた着衣を抱える。彼女の仕事着のアリアカンパニーの白い制服やトップスやボトムスを。ただ、衣類が濃厚な牝の移り香を放っているのを感じると、少し驚いたように眉を吊り上げるのだった。
それに肌着が上下ともにどこにも見当たらないことも気になる。アリシアが手洗いするために浴室に持ち込むようなことをするとも思えなかったからだ。
ただ詮索は無用。
相手に恵まれていたらしいとだけ判れば、侍女としてはそれで十分なのだった。