ARIA A SECRET SCHOOL DAYS 作:真夜中のミネルヴァ
第十二節 ウンディーネたちの宴
午前八時過ぎ――。
少し離れたところからハンドベルの音が響く。
「用意ができたみたいね」
アイリーンは顔にまた銀の仮面を付けると椅子から立ち上がった。
アリシアも促されて彼女に続いて問診室を後にする。二人とも身につけているものは顔半分の目許を覆うヴェネチアンマスクだけである。
誰もいない薄暗く長い廊下の、先の方にある一室の扉が開かれていて、部屋からの灯が暗紅色の絨毯の床に四角く伸びていた。人の気配も感じられて裸足の二人はそちらに向かって静々と進んでいった。
お披露目の儀――アイリーンの話では儀式と言っても非公式なものだそうで、直近八代目まで遡る歴代のウンディーネたちの自己紹介と親睦会を兼ねて、夜の儀でのおつとめを終えたばかりの新メンバーの支援、慰安を目的として自然発生的に生じた立食のパーティーということだった。
その会場となる館のバンケットルームは天井も高く広々とした場所で、地下にあるために窓こそなかったが、紫檀材を基調にした白塗りの壁の美しく重厚でクラシックな意匠が施された、歴史を感じさせる造りだった。
天井中央から巨大なシャンデリアが吊り下がり、夥しい数のランプが室内を明るく照らし上げている。
そこで二人を軽やかな拍手で迎えたのは、やはり全裸に仮面を付けただけの七名の美女たちである。
髪色、髪型、肌の色こそ違いはあったが、いずれも体のメリハリも見事なプロポーションをしている。常ならぬ美しい女性たちがみな全裸でいることから、あたかも女神たちの饗宴に招かれたかのような非現実感があるのだった。
「みなさん、いちばん新しい私たちの“妹”をお連れしたわよ」
アイリーンが告げると、美女たちからまた歓迎の拍手が上がった。
「お疲れさま――」という労いの声もそちこちからかけられている。
広間の中央にまで進んだ二人だったが、アリシアを残してアイリーンはそのまま奥の厨房の方へと向かい、一人になったアリシアを真ん中に、数メートルほどの距離を置いて七名の仮面の美女たちが周りを丸く取り囲むようにした。
「まぁ、なんて綺麗なウンディーネだこと」
「可愛らしい妹の誕生ね」
「あら、でもたくさんキスマークを貰って、ずいぶんお盛んな儀式だったようじゃない」
アリシアはその言葉を耳にして、俄かに羞恥を意識して心許なげに両手で胸と股間とを庇うようにする。
「アディリー姉さん、そんなこと言って妹をひやかしちゃダメでしょ、みんながあなたみたいにメンタルモンスターじゃないんだから」
「誰がモンスターよ、可憐な美女をつかまえて。それくらいいいじゃない、あたしなんかここに連れてこられたのは十四の時だったのよ、何にもわからない少女だったのにさっ」
「アリシア、気にしなくても良いのよ、口は悪いけど、このアディリー姉も含めてみんなあなたの味方なんだから」
アリシア――と、呼びかけられて、その聞き覚えのある声の方を伺うと、見覚えのある赤みがかったブラウンの髪をショートヘアにした女性が片手を上げて親しげにサインを送っていて、アリシアは大きな瞳をさらに大きくするのだった。
「あ、アンナさん……!?」
「あら、やっぱり判っちゃった?」
いらずらっぽい笑顔の口許を見せていた相手が仮面を上げて素顔を覗かせて、そこに馴染みのある顔が見えてアリシアも驚きと共に仮面の下の表情を和ませている。
「こらこらアンナ、一人一人の自己紹介は後でしょ、自分だけ先走りしないで」
白いクロスのかかったワゴンを推して戻ってきたアイリーンが窘めながら輪の中に分け入ってくる。ワゴンの上にはワイングラスが幾つかと、ワインクーラーに入れられたワインボトルが見えていた。
「すみません、アイリーン姉さん」
陽気なアンナらしさは、この儀式の最中にあっても昔と少しも変わらなかったことでアリシアを安心させていた。
「もう、みんな気がついているみたいだけど、彼女はアリシアよ、表のウンディーネのアリシア・フローレンス……いらっしゃいアリシア、お姉さまたちに仮面をとって可愛らしい顔を見せておあげなさい」
アイリーンに言われるままにマスクを外すと、また歓声と拍手が起こるのだったが、なお所在なげな顔でいるアリシアに、
「恥ずかしがらなくてもいいのよ、ここではみんなが同じことを経験しているんだから」
「あなたは私たち姉妹の大切な妹よ、だから心配しないで」
あちこちから歓迎の声がかけられる。
「そうよ、アリシア、リラックス、リラックス」
「以前にあなたのゴンドラに乗せてもらったことはあったけど、こんな風に裸のお付き合いができるとは思っていなかったからすごく嬉しいわ、大歓迎よ」
ひときわ背の高い銀髪をベリーショートにした女性がアリシアに笑顔を向けていた。
「ねぇアイリーン、今年は何本用意できたの?」
アディリーと呼ばれていたブロンズの肌をした女性が訊いて、アイリーンは誇らしげに片手でVサインを示している。
「なーんだ、前回は三本だったのに、今年はたった二本かぁ……」
「仕方がないでしょ、このところ不作続きだったそうだから。この2296年もののハンガリー産は多分、AQUA全体でも十本も入ってきてはいない貴重品よ。あと予備のもう一本は2295年のスロヴァキア産。これも悪くはないそうだけど、これだって滅多なことでは手に入らないんだから、一人でがぶ飲みしないでねアディリー姉さん」
「あまーいデザートワインで酔っぱらったりできますかって――」
「さすがねー、かつて酔い潰れかけた人が言うと、いちいち説得力があって感服するわ」
「あー、アルティア姉さん、ソレいま言いますか? あん時、あたし十四だったのよ、そりゃヤケにもなるでしょ」
「私だって連れてこられた時は花も恥じらう十六歳の乙女よ、大して違わないわ。もう十六年も前になるけど……今となってはいい思い出……と言いたいところなんだけど……やっぱりここへ来ると思うわね、いろいろと……でもお披露目の儀でヤケ酒して潰れたのは、後にも先にもあなた一人よ、アディリー、十分、尊敬に値するわ」
古参と思われる二人のやり取りは、旧知の気やすさからなのだろう、言葉の応酬を重ねながらも逆に場を和ませている。
十六年前というと、もしかするとこの中で一番、年嵩なのかしら? とアリシアは思うが背の高い銀髪の女性からは少しも老いを感じなかった。若々しく見事な裸身を誇らしげにしている。
ただ彼女の自信に満ちた堂々とした振る舞いは、座のベテランであるという理由ばかりではないようだった。その彼女がアルティアと呼ばれているのを知って、またアリシアは目を丸くしている。
その名前の美女にひとり思い当たる人物が居て、それは著名人というよりも要人と言うべき存在だったからだ。
まさかこんな人まで夜の儀に加わっていたのか、という驚きは、自分の抱える羞恥心などいかに取るに足らないものであるかを思い知らされているようで、アリシアの緊張は自然にほぐれていくのだった。
「ハイハイ、やられ自慢は後にしてね、まずはお披露目の儀を終えてから」
アイリーンの仕切りで八名の歴代のウンディーネがアリシアを中心にして丸く輪を作って囲むようにして並んだ。
「では、アルティア姉さんから――」
件の銀髪女性がアリシアの前まで進み出ると、仮面を外して素顔を見せた。
予期してはいたものの、その顔を見上げるアリシアの瞳には畏敬の色が泛かんでいる。
「アルティア・フォン・ワイスラー……さん!?」
「覚えていてくれたの? 光栄だわ、スノー・ホワイト」
覚えているも何も、アルティア・ワイスラーの顔は、AQUAに暮らすものであれば誰もが頻繁にニュースなどで接している。
とりわけ昨今はマンホーム――地球連邦政府――に誕生した新政権が突如発した関税措置への対応で、各メディアからの取材もあって日に何度も目にしていた。
政府外交委員会代表次席、事実上、AQUAにおける外交政策の舵取り役なのだ。
各国政府からは
「そんな目で見ないで――」
「でも……」
文字通りの政府最高位の高官の一人を前にして、まだ十代の美少女には気憶れがあったとしても致し方なかっただろう。相手はそれを汲んで、
「国の外交委員なんて言っても、私なんか、ただの使いっ走りに過ぎないんだから……後であなたもきっと会うことになると思うけど、おっかないお婆ちゃんたちに代わって、動ける若い者が、あっち行ったり、こっち行ったりさせられてるだけよ……」
アルティアは高い背を屈めて顔を寄せると小声になって
「それとは関係ないけど……あなたにひとつだけいいことを教えてあげるわ――」
「いいこと……ですか?」
アリシアは畏まって傾聴する。
「まだ下でのことで心の整理がついていないかもしれないけど、でもアレってね、悪いことばかりではないのよ……いいこともあるの。ウンディーネになったものの役得みたいなことが」
「役得……?」
「私は今年三十二よ、ここの最年長のアザリーは確か、三十三のはずなんだけど……わりとスッキリした体をしているでしょ?」
単にスッキリどころか、二人を含めて居合わせた全員がメリハリのある美しいボディラインを保っていた。
「私たちってね、わりと体型の維持管理が楽にできるみたいなの」
「……!?……」
「まだ若いから分からないかもしれないけど……人は歳をとると代謝が衰えて太りやすくなったりするんだけど、なぜか私たちはダイエットにそんなに気を使わなくても大丈夫みたいで……食べても太りにくい体質になるらしくて……もっとも、ここにいる全員が儀式とは無関係に、そもそも生まれつきそういう体質なのかもしれないけどね……」
「そう、なんですか……ありがとうございます、教えていただいて……」
アリシアは深く頭を垂れた。
「アリシア、恐縮する気持ちはわかるけど、おしゃべりはそのくらいにして、アルティア姉さんのワイングラスにワインを注いであげて」
アイリーンに促され、アリシアは予め告げられていた段取り通りに、ワインクーラーにあった茶色いボトルを手に取るとグラスの一つに注ぐのだった。
アルティアは二オンスほど、とろりとした琥珀色の液体が注がれたグラスを取りあげると、
「ありがとう、アリシア、ここで会えて嬉しいわ」
との言葉を贈って下がっていく。
このようにして、ウンディーネとしてのキャリアの長い順に、美女たちはアリシアの前で仮面を外すと、自己紹介をしながらワイングラスを受け取っていった。
若き気鋭の彫刻家として知られ、マンホームとAQUAを股にかけて活躍するアディリー・バロン、今は主にマンホームで研究者として活躍する生命科学者のアザリー・ロストフ、大女優のアイリーン・デュボワ、社会経済学者で政府専門家会議のメンバーでもあるアルキオナ・ヴィッティーリア、元プリマ・ウンディーネのアンナ・ヨーテンハイム、婦人科の医師の榛名アスナと続き、最後に仮面を外したのが――。
「やっぱり……アトラさん、だったんですね……」
「なんだか不思議な気持ちになります。アリシアさんとこんな形で会うことになるとは……上では気後れしてお話しする機会も無かったから……」
同い年で同じ学年の、そして同業者でもある二人ではあったが、これまでほとんど接点がなかったのは所属が違うこともあったが、やはりウンディーネとしての立ち位置の違いが大きかった。
アリシアはオレンジ・プラネットではアテナとは長い付き合いがある一方、アトラはアテナとも距離を置いていた。それは社の運営の都合で仕方のない面もあったのだった。
「気後れだなんて……そんな……ここでは、アトラさんがあたしのいちばん近いお姉さんになるんですから……」
「そうみたいですね……でも私の方が、二ヶ月くらい年下になるので……誕生日前だからまだ十八で……だから姉というよりも、お友達、ということで……」
アトラが躊躇いがちに笑んで、アリシアもこっくり頷いて応えた。
「はい、これからもよろしくお願いいたします」
「あのハグ、してもいいですか?」
申し出にアリシアが少し驚いたのは、相手の控え目で物静かな印象からだった。だが、大きく頷く。
生身の女性と直に肌を接するのは初めて、と思いつつ身を委ねた。互いに相手の背中に腕をまわすと、アリシアの方が抱かれる感じになる。
二人は背格好は近いが、アトラの方が肩幅が広い分、よりグラマラスな印象があったのだ。若い美女、美少女が互いの胸を接してはち切れそうなほど、白い肉を輝かせて抱き合っている。
その容子は、居合わせた他のウンディーネたちの目も楽しませていた。
「お二人さん、気が済んだ? じゃあアトラ、ちゃんと引き継ぎをしてちょうだい」
「ハイ、アイリーン姉さん……ではアリシアさん……」
アリシアはワインボトルをグラスに注いでからボトルを戻すと、深く一礼をした。
当礼に応えてアトラはグラスを取り上げると、
「我ら
それに合わせる形で、他の七名のウンディーネたちも同じ祝詞を復唱するのだった。
ついでアリシアはワゴンの反対側にまわり、入れ替わる形でアトラがアリシアのいた場所に移って、今度はアトラがボトルを手に取ると最後に残ったワイングラスに中身を注ぎ入れた。
アリシアの前、正面奥の壁には、歴代のウンディーネと思われる女性の顔をかたどったレリーフが数十も並んでいる。
アトラが輪の中に戻り、今度はアリシアがワイングラスを手に、アイリーンから教えられた通りの祝詞、
「我ら古の神々の裔、盟約により新たな縁を結ぶ。ここに連なるもの地に永久の平和と安寧をもたらす支えとならん」
と唱えて、他の八名が祝詞を唱和すると、互いにグラスを掲げあい、そして琥珀色の液体を傾けるのだった。
アリシアもワインを飲もうとグラスに唇を寄せて、まずその香りに驚いていた。
どこか花の香りを思わせる、ふくよかで奥行きのある豊かなアロマとブケ、白ワインというよりも黄金ワインというべきブランデーを思わせる深い色あいの、にもかかわらずまるでシロップのようなとろみのある液体は、ひと口含んだだけで甘さに衝撃を受けるほどだった。
これがワインなの――?!
と思わざるを得ない、とても印象的な出会いとなっている。
これまでにも甘みの強いポートワインやクリームシェリーなどを呑んだことはあったが、それとは全く別の体験で、
アキトさんに教えてあげなくちゃ――と、思いつつ、まだ未成年の彼にはお酒を勧めるわけにもいかずに、心密かに苦笑していた。
「おめでとう、アリシア」
「これであなたも正式に私たちの仲間入りね、歓迎するわ」
「みなさまにあたたかくお迎え入れていただき感謝いたします、ありがとうございます」
アリシアも腰を深く折って頭を下げた。
「どう気に入って? 帝王のワイン、ワインの帝王の味」
「はい――」
晴れ晴れとにっこり歯を見せて応えた。
心惹かれる甘美な至高のワインの味わい。
ただ、さすがにこれを酔うほどがぶ飲みするのは無理だと思う。それほど甘味が強くて、糖度だけで言えば少量の水でゆるくのばしたはちみつなのだ。
アルコール度もさほど高くなく、酔う前に体の方が悲鳴をあげてしまいそうだった。
「じゃあ、堅苦しいのはここまでにして、後は朝食をとりながら、各自、ご歓談をお楽しみください。時間はたっぷりとってあるからごゆっくり。それとアリシア、あなたにはこの後、アヤコさまとのお目どおりがあるから、九時になったら迎えにきた馬車に乗ってね。昨夜の馭者がまた来るから」
「わかりました――」
「ちゃんと服を着ていくのよ」
誰か――恐らくアディリーの声――に、アリシアはこっくり頷く。
女性同士ならばともかく、アキト以外の男性に肌を晒すつもりなど、もちろんなかった。
それに、アヤコさまという人物がどういう存在なのかは分からないが、彼女の名前を口にするときのアイリーンの
祠で顕現した神々も、アヤコという名を口にしていたことから、おそらく歴代ウンディーネの一人か、ウンディーネに縁のある女性なのだろうと想像する。
場合によっては七賢会のメンバーだったりするのかもしれないと考えると、終えたばかりの事後を窺わせるような見苦しい姿でお目もじするわけにはいかないと思うのだ。
「……それから、アルキオナさん、アンナさん、アスナさん、それとアトラさんの四名は祠の方の後片付けをよろしくお願いします。あなたたちが無事に戻ってきたら館を閉めてお開きにしましょう。あたしを含めてシニアの四人は館の方の後始末をするから」
「了解よ、アイリーンも仕切り役をご苦労さま」
「順番で行くと、次回はアルキオナさんが侍女長になるけど、宜しくお願いするわね」
「任せてください、アディリー姉さんが参加する最後になるから、今から二年越しでエッセンシアの予約を大量に取り付けておきますので」
「じゃあ、私はインスリンをたっぷり用意しておかないといけないわね」
清楚でおとなしげな外見のアスナが辛辣な軽口を言って、アディリー以外は皆が我が意を得たりとばかりに座が晴れやかな笑いに包まれるのだった。