ARIA A SECRET SCHOOL DAYS 作:真夜中のミネルヴァ
六年前――。
アリシア・フローレンス、ミッドスクール三年目の夏。
娘から、卒業したら進学せずに本格的にウンディーネになるための修行を始めると聞き、顔色を変えた母親が翻意を促すためにアリアカンパニーにやってきたのだった。
「……ねぇアリシア、普通に学業を続けて大学に行って、ちゃんと分別がつく大人になって自分の適性を見極めてから、それから将来の進路を決めても遅くはないと思わない? もし仮にウンディーネになるとしても……だってまだあなたは十四歳なのよ、一生の選択をするには早すぎるわ……」
「……それでは間に合わないんです……大人になってしまってからでは……お母さま、あたし、どうしてもウンディーネになりたい……」
アナスタシアの眉間に苦悩する母親の縦皺が作られていた。
「天地さん……でしたね? この子はご覧の通り、内向きで引っ込み思案の人見知り……そんな子が、はたして大勢のお客様の前に立ってお相手をするような仕事ができるものでしょうか? あたくしにはとてもそうは思えないのです」
母の言葉にアリシアはテーブルの前の椅子に座ったまま肩を寄せて
「アリシア……お母さんね、何もあなたに学者になれとは言わないわ、でもあなたには体を使う仕事が向いているとは思えないのよ」
「アリシアさんにはたしかに必要以上に自分を抑える傾向がありますが、でもそれはウンディーネになるために、けして不都合なものではありません。寧ろ好ましい資質です。自己抑制能力というのはすばらしい美質なんです。誰でも望んで備えられるものではない天性のもの……」
秋乃は母親をあまり刺激しないように、慎重に言葉を選んで
「天地さん、この子は小さい頃からお友達と遊ぶよりも本を読むのが好きで……気がつくと部屋の隅で静かに読書をしていたりする大人しい子でした……聞き分けも良くて、親からするとあまり手のかからない良い子だったんです……あたくしも夫も仕事で家を空けることが多かったのですが、ちょっと不憫に思うこともあったのですけれど本をあてがっておくといつもおとなしくしていてくれたものですから、ついつい甘えてしまって……それが今になって、こんな我儘を言うようになるなんて……」
「スターリング先生、このAQUAには精霊にまつわる四つの仕事があることをご存知ですか?」
「えーと、たしか……ウンディーネとノーム、サラマンダー……それにシルフでしたか?」
「そうです。このうちノームは生まれながらに、それに次いでウンディーネも若い頃から修行をしないと身につかないと言われています……精霊の加護を受けられないと言われていて……」
「精霊の加護……ですか……
「先生は、海洋生物学者でいらっしゃるそうですね……」
「はい……」
「ではこのAQUAの成り立ちについても、よくご存知のはずですよね……」
「ええ、それなりにですが……」
「この星にはいろいろな不思議があります……わたしはそれをとても素敵なことだと思っているんです。人と精霊とが普通に交わりを持って生きていける世界……人々が神聖な声に耳を傾けて暮らす社会を……」
「わたくしも科学が万能であるなどと思い上がったことを申し上げるつもりはありません。むしろそうした考え方を嫌悪している側に立つ科学者の一人です。でも科学には科学の役割がある、たとえ我々の理解を超えるものであったとしても、理解しようと努めることには意義があると信じたいので……ですから精霊と言われると、やっぱり……そんな曖昧なものにと……この子の将来はもっと地に足のついた……済みません天地さん、あたくしウンディーネという職業についてあまりよく存知あげないものですから……夭折した夫ともども世事には疎い方なので……ねぇ、アリシア、何も特別なものになろうとしなくても普通で良いのよ……お母さんの言うこと、わかるでしょ? お父さんだって、生きていたらきっとそう言うと思うの……他人前で歌ったり踊ったりしながらゴンドラを漕ぐなんて……」
「………」
「あの、失礼ですがアナスタシアさん、お母さまの目にはアリシアさんが普通のお嬢さんに映っているのですか?」
「ええ、平凡な、ごく普通の中流家庭に育った娘です。地質学者だった夫と、生物学者である私との間にできた子供ですから……この子に特別な才能があるなんて……多少、容姿に恵まれている部分はあるかもしれないですが、でもそんなものは所詮、一時のもので……」
アナスタシアは小さく頭を振ってみせた。
「もし本当にそうお考えなのだとすると、私はなんとしてでも、アリシアさんをおあずかりできるよう説得しなければならなくなります」
「どういうことですか――?」
「わたしの目で見て、お嬢さまはとても非凡な方です。類まれな容姿、聡明さ、素直なやさしい心、努力を惜しまないひたむきさ、たとえ嫌なことにでも楽しみを見出そうとする健康で明朗な意思、バランス感覚、どれひとつとっても、私たちのような凡庸な人間には到底、及ばないものです。アリシアさんのそれは、みな天からの授かり物……より多くを与えられたものには、より多くの責任が伴う。彼女もまたそうです。そして大人であるわたしたちには、そうした恵まれた資質をもって生まれた彼女の支えとなって、才能を伸ばす責任と義務があるのではありませんか?」
「………」
「わたしはあなたがとても羨ましい。こんなにもすばらしいお嬢さんのすぐそばに居られるんですから、なんてありがたいこと。でも、もしかすると母親として一緒に過ごされていると、それが当たり前の日常になってしまって、かえってその幸運に気がつきにくくなるものなのかもしれませんね」
アナスタシアの顔にも動揺が兆していた。それは恵まれしもの、選ばれしものを我が子にもつ親であることの葛藤だったのかもしれない。
彼女もまた聡明な女性であるが故に、その意味をかみしめていた。
「私にはアリシアさんをこのままにはしておけません。彼女が彼女らしくあること、誰よりも美しく羽ばたけるようにすること、それが私たちの責務だと思うからです」
「………」
「あなただって本当は娘さんの非凡さに気がついていらっしゃるのではありませんか? 気付かぬふりをされているだけで……」
秋乃は、アリシアのともすれば過剰にも思える自己評価の低さは、母親から厳しく躾けられた所為なのかもしれないと思うのだった。
「お母さま……わたし……これからもグランマの元でウンディーネになるための修行を続けたいです……」
「アリシア……」
「アリシアさんはきっとすばらしいウンディーネになります……これまで誰も出会ったことのないような……」
「そう言われても……」
「……お願いです……お母さま……」
懇願する娘の必死な容子と、グランマ秋乃からの説得によって、漸くアナスタシアは折れて、愛娘のアリアカンパニーへの就職を認めたのだった。