ARIA A SECRET SCHOOL DAYS 作:真夜中のミネルヴァ
十五日、午前四時過ぎ、ネオ・ヴェネチア――。
「……メディアの言うことは、あまり気にしない方がいいと思うよ……彼等が伝えるのは、自分たちがこうしたいと思ってることだけだから……」
アルと暁とウッディーの三人は、本島の東端、リメンブランツェ公園の、目の前にネオ・アドリア海を臨む水際の縁石に並んで腰掛けていた。
「ああ……でもなぁ……もみ子が……もみ子のヤツが気がついてたのは本当みたいだからな……」
暁は背中を丸めて、また嗚咽する。
「泣いてるのか、あかつきん……だがそれでいいんだぞ、泣きたい時は思いっきり泣いとけ、なのだ」
「うるせぇ……」
「泣けるってことは、それだけまだ元気が残ってる証拠だからね……」
遠く大陸側から、また緊急車両のサイレンが聞こえてくる。ほんの小半刻ほどの間にも既に何度目だろうかと思う。
「今日はやたらにサイレンが鳴りますね――」
今夜は度々、緊急通報があるらしく、途切れることなく一晩中、そんな感じになっているのだった。
ネオ・ヴェネチアを、AQUA全体を覆う不穏な空気。
痛ましいことにならなければいい、とアルは思った。
理由は、やはり彼女――の件なのだろう。
だが、小さな嫉妬の炎に、盛大に燃焼促進剤を放り込み続けたのはメディアだった。
低俗な欲望を露わにした劣悪な興味本位の情報の垂れ流しによって、アリシア本人はもとより、一体、どれほどの人が傷ついたことだろう。
アル自身も、心穏やかならざる気持ちにさせられていた。
「……もう、死のうなんて考えちゃダメだよ……暁くん……今の君には、死ぬよりも生きる方がずっと勇気がいるんだとは思うけど……」
友の震える背中に手を置いた。
「大丈夫ですよ……立ち直れるから……立ち直らなければだめです……生きるってことには、これからもあらゆる苦しみが待ち受けているのかもしれません……でもこの件も、自分自身を変える為のきっかけと考えて……どう変わるのか、どう変えなければいけないのか、今の僕にはさっぱり見当がつかないけど……だけど一人一人が、それぞれの持ち場で生き抜き、耐え抜き、そして懸命に自分の運命と向き合えば……」
アルはここで言うべきか迷ったが、やはり伝えておくことにした。
「僕は、きみにはまだアリシアさんに出逢う準備ができていなかったんだと思いますよ……」
「……まだ……? まだって……どういうことだ――?」
思いがけないことを耳にしたように、暁は顔を上げ、泣き腫らした目で傍を窺う。
「そのままですよ、きみに出会う準備が整ったら、きみはきみのアリシアさんに巡り逢うことになるっていう……」
「俺が俺のアリシアさんに……?」
「ええ、だから……少しだけ辛抱して……そうすれば……」
「そうすれば……どうなるって言うんだ……」
「今はわからなくても、時がくればわかるようになりますよ……」
人が想っている以上に世界はあまりにも広く、人は自分たちが想っている以上にあまりにも小さいこと――。
日常の眩しさについ事大主義に陥りがちだが、こうした時こそ立ち止まる必要があった。
少し落ち着いて俯瞰できるようになると、やがて視界は晴れてくる。
「夜明け前がいちばん暗い……でも開けない夜は無い……」
「そうだぞ、あかつきん、開けない夜は無い、なのだ」
「おまえら勝手なことを……」
「まぁそう言わずに、今だけ……今だけ、騙されたと思って……」
不貞腐れる暁の顔に、少し精気が戻ってきているようだった。
「言ってろ――」
暁は顔を上げた。
「もう間も無く夜が明けますね……火星歴七十六年十四月十五日か……」
いつもなら白みかけてくる頃だったが、空には分厚い雲が覆っているらしく、まだ東の空は真っ暗なままだった。
その夜、AQUA全土で緊急通報が激増し、殊にネオ・ヴェネチアを含む周辺は平時の八倍にも達し、それはAQUA全土での緊急車両の出動要請総数の1%にも達するという異常事態となっていた。そしてその多くが自殺未遂、家出人の捜索願い等であり、事件を引き起こした当事者の過半が対象年齢区分でいうところの青少年男子に相当していたのも当該事案の特異性を示していた。
これは前日のアリシアの婚約発表と、その後の報道が何らかの影響を及ぼしていることを示唆しており、事態を重くみたAQUA行政府は明け方、総督名で緊急声明を発出した。
#アリシア・フローレンス氏の意思は既に明らかにされました。この上は全国民、市民こぞって彼女の思いに寄り添い、氏がこれまで果たして来られた幾多の功績、積み上げられた輝かしい栄誉の数々をけして辱めず、国民ただ一人に至るまで断じて軽挙妄動することなく、氏の名誉と栄光とを中外に鮮明されんことを切望して止みません。小職は
幸いにして一人の死者、行方不明者を出さなかったことは、担当部局の心血を惜しまぬ努力の結果であることは言を俟たない。
かくしてネオ・ヴェネチア市警察メストレ分署は、スターマイヤー警部を含めて皆が眠れぬ一夜を過ごす事になったのだった。
一方、地球連邦においては不可解かつ奇妙な事態が発生していた――。
開けて十五日朝から、ロンドン市場は寄り付きから売り一色の全面安となり、売りが売りを呼ぶ展開に下げ幅は一時、三十パーセントに迫る大暴落を記録した。これは北米メテオショックの際のブラックマンデー2291で記録した下落幅二十八%を上回る規模で、その波はニューヨーク、東京、シンガポール、上海、香港、ボンベイと地球を一周する津波となって再びロンドンを襲ったのである。
ブリッジストーン関税による世界同時株安からようやく立ち直りの兆しを見せていた矢先のことに、市場関係者には先行きを懸念する声が多く、特に材料のないままの謎の大暴落には何らかの意図が働いているのではないかと疑心暗鬼になる中で、その後も売りが先行する不機嫌な地合いとなっていた。最大の憂慮は、自由コロニー連合公国が再び武力行使を行うのではないかとの観測が広がっていたことで、意図するしないに関わらず、再びメテオショックのような災厄が引き起こされた場合、今度こそ連邦は公国に対して全面的な報復を行うことを宣言しており、この謎の世界市場の同時大暴落は、両者の対立が決定的になる前の予兆ではないかと危ぶまれたのであった。
これに対して、自由コロニー連合公国側は直ちに声明を発出して、公国にはそのような意図は全くないことを強く訴え、連邦側の不用意な挑発行為を非難し、このような策謀に対しては常に断固たる対応をとる用意があるとしつつも、これ以上の関係悪化を望むものではないとして事態の沈静化を図ったのだった。次いで連邦政府側も公国の声明を事実上追認しつつも、事態を複雑化させないように釘を刺すことを忘れなかった。こうして再び、両者の睨み合い、主戦場の舞台はテーブルの下へと移ったのである。
しかし事態が収束へ向けて動き出す中、尚、謎めいていたのは、以前として同時大暴落の原因が不明であったことであった。
推定総額十兆クレジットにも及ぶ途方もなく巨大なマネーが、わずか二日の間に投げ売りされた理由はわからないままに、この件は2303ゴーストショックと命名され、マーケットではどんなことでも起こる、どんなことでもだ! という全く役に立たない教訓を残したのだった。
次回はR-18にします