ARIA A SECRET SCHOOL DAYS 作:真夜中のミネルヴァ
「牝犬か……言ってくれるよな、アイツら……」
アリシアを真ん中に三人の美女はゴンドラを並走させていた。近くにいた若いウンディーネたちはみな事情を知っているらしく、一様に進路を開けると舳先を立てて威儀を正している。
晃、アリシア、アテナはそれぞれ答礼しながら沖へ向けてゴンドラを進めていた。
「あの人たちの目にそう映るのなら仕方がないわね、うふふ」
「おまえ、平気か? ずいぶん酷い言われようをされていたみたいだが……」
ネットを中心にアリシアに浴びせかけられている言葉は、彼女のような女性がけっして纏うべきではない猥褻なものだった。妄想の中で男たちの劣情の餌食となって汚穢なザーメンまみれにされていたからだ。
普通であれば自分が露骨なまでの性的な好奇の眼差しにさらされていると知って平静でいられるはずは無かった。
きっと部屋の外に出るのも怖かったに違いない。
にもかかわらずアリシアは今、群衆の前に立とうとしていた。随分、毅くなったものだと晃は感心している。
「平気よ……だって大好きな人から言われているわけじゃないから」
おとなしくて内気、ちょっと人見知りをするところもあった本好きな友を変えたのは、やはり大人の女としての自信からなのだろうかと思う。生来の温和でまろやかな性格が母性のような落ち着きを備えることで、声の調子や振る舞いにも艶がのっていて一段と優雅さを増しているようにも映っている。
「晃ちゃんたちが、あたしたちの身代わりになったのは、もしかするとアキトさんに何か言われたの?」
「ああ、昨夜、アイツから電話がかかってきてな」
「やっぱりそうだったのね……あのホテル、以前に利用したことがあったから……」
件のホテルには、奨学金の資格試験に無事通ったお祝いと、それまでのお礼と感謝の気持ちからアリシアがアキトを招待したのだった。ちょうどひと月前のことだった。
「そうか……」
もうアリシアがプライベートでは恋人と関係を結んでいるのを隠そうとしていないことに、晃はさほど驚きを感じてはいなかった。
ともに恋を知るものとして、女であることの自覚を持っているものとして。
「アテナちゃんもありがとう、アテナちゃんの男の子のコスプレ、アキトさんよりも素敵だったわ」
「ありがとうアリシアちゃん、あたしも楽しかったぁ、だって男性の格好をするのって初めてだったんだもん」
日頃、私服のアテナはボーイッシュな、どこか中性的なファッションを好むようだったが、どうやら意識していたわけではないようである。
「……それにのんびり映画も見られたし……」
「ああ、こいつ、古い映画を見て涙ボロボロ流して大泣きしてた」
「あらあら」
「それに朝メシのスクランブルエッグも美味かったな」
「スクランブルエッグが? そう……」
「アテナの彼氏、例のオッサンのお勧めだったそうだ。あのホテルのモーニングブフェのスクランブルエッグが美味いって……まぁ確かに使ってる玉子も、それにバターの風味も良くて……おまえたちは……さすがに食事を……できっこないか……それにしてもホテルにはよくバレなかったな」
「それは……あの時はあたしが殿方の格好をしていて、アキトさんが女の子の格好だったから……」
それを聞いて晃が吹き出した。
「予行演習済みだったってワケか、まったく、食えねぇ小僧だぜ……ごめん、おまえのダイジな旦那さまだったな……しかし、アイツにはこの晃さまを使ってくれた落とし前、後でしっかりつけてもらわないとな」
「ええ、でもホテル代はあたしに請求してくださいね、まだあの子には大変だから」
「バカ云ってんじゃない、そんなことはしないよ、あれぐらいどうってことないさ。俺がいったいいくら稼いでいると思ってる? 天下のプリマ・ウンディーネの晃さまだゾ、まぁ確かに額面ではおまえの方が多いのかもしれないが、個人経営のアリカンとは違って、うちもアテナのところも福利厚生は段違いに充実しているから自由にできる割合は大きいのさ」
「そうかもしれないけど、でもけじめだから……」
「水くさいこと云うなって……それに今度のことはもうおまえ一人の問題じゃなくなっている……いましがたの奴らのようにメディア連中の傍若無人さには俺もアテナもほとほと呆れてるんだ。俺たちだけじゃない、今、海に出てきてるみんなが憤慨している」
晃は振り返らずに背後のアリアカンパニーの方を
「国内メディアはともかく……“地球”からきた奴らは俺たちを、まるで娼婦か何かのように扱いやがって……」
姫屋でもプリマウンディーネの一人から、男性客にアフターを持ちかけられて意味が分からず、後で判って愕然としたと、そんな話を聞かされたばかりだった。
「今朝に続いて、正午にもまた総督が声明を出すらしいが、おそらくこの件がらみだろうな」
「まさか、こんなことになるなんて……わたし……」
アリシアの表情が翳り、儚げに俯く。
「おまえの所為じゃない、誰もおまえを責めてなんかいない」
「アリシアちゃんは何も悪くないから」
「だが俺たちだけでできることは限られてるから、だから国にもしっかり動いてもらわないとな……」
晃がそう思うのも当然だった。
なんとなればAQUAは、このネオ・ヴェネチアを中心にして発展を遂げた惑星だったからだ。
今ではネオ・ヴェネチアよりも遥かに大きな都市が至る所にあっても、AQUAの中心はやはりネオ・ヴェネチアだった。そしてネオ・ヴェネチアにおける最大の観光資源であり、命を持った生ける財産こそウンディーネたちなのだ。
もちろん彼女たちは客を取るために技芸を仕込まれている芸妓などではなかった。
そもそもたとえ望んでも、ウンディーネになれるものは限られている。
高い知性と教養、優れた身体能力、そして容姿――。
心身ともに恵まれたもののみが目指しうる高み。
分けてもプリマにまでなれるものは十人に一人も居ない狭き門なのである。
語学一つとっても、プリマであれば最低でも標準語以外にも三カ国語以上を自在に操り、晃、アテナ、アリシアの三大妖精はそれぞれが五カ国語に堪能だった。グランマ――天地秋乃――に至っては往時には実に十三カ国語にも通じていて、ある時など、携帯していた同時通訳機をなくして途方にくれる迷子を助けて無事親元に届けたというので、外交部を通じて連邦政府から感謝状を贈られたこともあったという。
それというのも当該児童がアマゾン河流域の少数部族の出身で、全世界で母語話者数がわずか数百名程度とされる希少言語の部族語でしかコミュニケーションがとれなかったからだ。
その件について秋乃は、たまたま興味があって学んでいたことが役に立って良かったと述懐するばかりであったが、当代切っての最高のウンディーネと言われた彼女の、平時における不断不休の自己研鑽と努力とが垣間見えるエピソードとして今も人々の言の葉種になることのあるエピソードの一つだった。
この秋乃の一件は稀な事案であったとしても、ウンディーネは一人一人が末端のペアに至るまで外交官であり観光大使としての自覚を持っていて、ネオ・ヴェネチアについては勿論のこと、客の要望に添えるべくAQUA全体の観光知識も豊富で、常に情報の更新にも余念がなかった。
この惑星を訪れた人たちは、ウンディーネの振る舞いや言葉を通してAQUAの文化を知り、そして愛してくれるようになる。
文化交流の礎にして、美しき平和の使徒――。
彼女たちはけして虚栄からではなく裡に抱えた矜持として、自分たちの務めに誇りを持っているのだった。
それは同時に、この惑星に暮らす人々の胸に根を張った共通認識なのだ。
それ故、ウンディーネの代名詞ともいうべき白き妖精、アリシア・フローレンスの婚約発表は人々には衝撃で、一時の混乱をもたらすことになっていたのだった。
だからと言ってアリシアの身持ちの良さを疑うものなど誰もいないし、もちろんウンディーネが現代に蘇ったコルティジャーナなどであるはずがなかった。
だが、ひとたび拡散されたマイナスイメージの払拭は容易ではない。
この後のアリシアのスピーチ次第では、彼女はさらなるバッシングを受けることにもなりかねず、もしもそうなった場合には取り返しのつかない事態に発展するやも知れないのだ。
晃は一時、自身の隷下に置かれた残る五艘のゴンドラの隊列を整えながらアテナとともに先頭に立った。
アリシアのゴンドラを中心に五つの白いゴンドラが綺麗な輪形陣を描いて進んでいく。
見渡す海上には既に優に百艘を超えるゴンドラが集結し始め、カナルグランデとジュデッカ運河の河口を中心にひしめいていた。
海沿いの道にも、アリシアの登場に気づいて多くの人々が集まりつつあり、住人たちのほとんどは歓声で迎えていて、一部の罵声はかき消されている。
アリシアは微笑みを贈りながら小さく手を振って応えていた。
「さて、スピーチはどのあたりでやるつもりなんだ?」
晃は周囲のゴンドラの群れに手と腕とでサインを送って水路を広げるように指示をしながらアリシアに訊いた。
「それが、あたしにもよくわからないの……ゴンドラが教えてくれる、としか……」
「そうか……それなら俺たちはここまでだな。あとはお前の動きに合わせる、それでいいか?」
「あたしには何も言う資格はないわ……ただ、できることをやろうと思っているだけで……」
「わかった……任せろ……」
晃はゴンドラを停め、アリシアをひとり先に行かせる。
「あたしたちはどうするんですか?」
次第に小さくなっていくアリシアの後ろ姿を見ながら、晃の背後からゴンドラを寄せて藍華が訊いた。
「あいつが場所を決めたら、次はおまえたちの出番だ」
アリシアはどんどん岸から離れていき、本島とサン・ジョルジョ・マッジョーレ島の間のあたりでゴンドラを停めたようである。
ドゥカーレ宮殿を正面に臨み、サン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂、サルーテ聖堂を一望にする運河の中ほど。
両岸に集まる群衆にアリシアは深く腰を折って礼をしている。
周囲のゴンドラの群れがみな舳先をアリシアへと向けていて、遠巻きにして幾重にも広がったそれは、まるで海の上に描かれた巨大な花のようになっていった。
「どうやら、あのあたりに
「じゃあ、あたしたちも――」
撮影に向かおうと少女たちがゴンドラを漕ぎ出そうとした時、
「……晃ちゃん……」
不意にアリシアの声が耳許に聞こえてきて、晃は動きを止めて目を瞠る。
アリシアのゴンドラとの距離はすでに数十メートルもあるようなのだったが、静かな水面を渡る風に乗ったものなのか、まるですぐ隣にでも居るようにはっきりと声が届いていたのだ。
「待て、おまえたち――」
「どうしたんですか?」
「いま、アリシアの声が聞こえたように思ってな……」
「うん、わかったわアリシアちゃん、そういうことなのね……」
隣でアテナが頷いていた。
「まさか、この距離ですよ……聞こえるはずが……え?……ええっ……あ、はい、こちらこそ……何のお役にも立てずに……はい……」
「どうやら藍華、おまえにも聞こえているみたいだな……」
「はえー、なんでだろう、あたしにも聞こえてます、アリシアさんの声……」
「私にもアリシアさんの声がはっきり聞こえます。これはでっかい謎です」
みんな揃ってアリシアと話をしていた。正確にはこちらの声がアリシアに届いているかまではわからない。しかし彼女の意思は確かに伝わっているのだ。
アリシアの周囲を幾重にも取り巻くウンディーネたちの間にもざわざわと驚きが広がっていく様子が見てとれて、彼女たちにもまたアリシアの声が聞こえていることが窺える。
アリシアは静かに語りだして、晃たちはその場に留まったままで彼女の言葉に耳を傾けるのだった。
Aパートです