ARIA A SECRET SCHOOL DAYS 作:真夜中のミネルヴァ
十五日、正午過ぎ、ネオ・ヴェネチア――。
「……そうかい……そうだったのかい……あんた、そんなことまで考えて……別に気にしなくてもよかったのに……ただみんなちょっとびっくりしちまっただけなんだよ……」
庵野波平はサンマルコ広場近くの海岸から、遠く海の上で話を始めたアリシアの言葉に耳を傾けつつ独り呟いた。
近くでは慌てふためく外国テレビクルーたちが苛々と怒号を発しながら機器の調整に取り組んでいる。
「
「さすがにこの距離ではノイズが多すぎて、一機だけで拾うのは無理ですっ、せめてもう一機、入管で通してもらえてれば……」
「クソーッ、あのバカ女っ、あんな遠くの海の上で勝手にひとりで喋りだしてナンの意味があるってんだっ、誰にも聞こえやしねぇじゃねぇかっ……大山っ、とりあえず最大望遠でアリシアの顔のアップを抜けっ! 唇の動きを読んで同時スーパーを入れるんだっ」
「でもドローンも使わせない、海にも出られないって、新井さん、俺たち、この後いったいどうすりゃいいんですか?」
頭数は揃っても、手元の機材の殆どが役に立たないと知ってクルーたちの間に動揺が広がっていた。
「ホント、めんどくせーよな、ここの連中はよぉっ」
「そこどいてくださいっ、撮影のジャマですからぁっ!」
大口径の望遠レンズを載せた台車を押したてて、海岸を埋める人垣の中に無理やり分け入ろうとしていて、たちまち詰めかけていた住人との間の空気が刺々しくなる。
見るに見かねて波平は
「あんたら、もうちょっとお上品にやってもらえんもんかね……アリシアさんの話がさっぱり聞こえないから」
「話が聞こえない? 当たり前だろ、あの声がここまで届くわけないだろがっ」
「いいや、よく聞こえるよ。あんたらがおとなしくしてくれてりゃ、もっとよく聴き取れるんだがな……もしかして、あんたらには聞こえないのかい?」
不思議そうな顔で問い返す傍で、波平はアリシアの言葉に「うん、うん」と頷いている。
「バカな、ありえんだろ、あそこまでは百メートル以上、いや二百メートル近くあるかもしれないんだゾっ、きっと爺さんの空耳だろうな、すぐに耳鼻科、いや精神科の受診を勧めるよ――」
失礼な物言いが返ってきたが波平は取り合わない。
代わりに居合わせた住人の数名が振り返り、
「あんたたちには聞こえてないのかい?」
「さっきから騒々しいと思ったら、やっぱりそうだったのか……」
「“連邦”の人たちは耳が悪くなっちまったのかねぇ」
どう見ても自分たちよりは三回り以上も年上の連中から憐れむような眼差しを注がれて、ほとんどが三、四十代の中年男たちで占められていたクルーたちは鼻白む。
「嘘だろ……あんたらには……あんな離れた声が聞こえてるっていうのか?」
「ああよく聞こえるとも、そもそもあの子の声が聞こえてきたから、みんなここに集まってきてるんだからねぇ」
「やっぱり女神さまの声を聞くのはテレビよりも生の方がええものなぁ」
誰かが言うと、「そうだ」「そうだ」という同意の声が周りからもあがっていた。
「テレビ――?」
「国営放送がいまアリシアさんの声を全国に届けているみたいじゃけんども、せっかく地元に居るんじゃから、あの人の声は直に聞いた方がええわな」
「ふん、なんだあんたら、テレビの音声を聞いてたのかよ――」
ほんの一瞬でも老人たちを相手に怯んだことへの意趣返しとばかりに、男は精一杯の蔑みを言葉にのせて言い放った。
が――。
「テレビ? まさか、ホレ、ワシの耳にイヤホンなんかどこにも付いとりゃせんじゃろ?」
「どうじゃな? わしもじゃ――」
老人たちは両耳を手で引っ張って何もないことを示している。
「だから、さっきから言ってるじゃろ、あの人の声を直に聞きたいって――」
「ありえない……そんなことが……ありえるはずがない……」
ようやく自分たちの理解が及ばない奇妙な事態が起きていることに気がついて中年男たちは絶句する。
「あの……アリシアさんはいまなんて云ってるんですか――?」
近くに居た、そんなに若くもないクルーに訊かれた一人は
「……えーと……アリシアさんは自分が原因で、こうした騒ぎを起こしてしまったことを謝罪してるよ、あの子はなんにも悪くないのに……」
国外メディアの男たちはなおも疑り深げに互いに顔を見合わせていたが、カメラのモニターを覗いていた一人が
「読唇ソフトのスーパーの表示では確かにそう言ってるみたいです……」
と、応じると、戸惑いの表情は明らかに畏怖を含んだものへと変化していった。
「もちろん、ワシらでもこんなことはいつでもあるわけじゃないよ……普通なら聞こえるような距離じゃないってことぐらい分かってるさ。じゃがこのAQUAでは、ネオ・ヴェネチアでは時々こうした摩訶不思議なことが起こるんじゃ……摩訶不思議なことがな……」
「やっぱりアリシアさんは水の精霊のご加護にあずかってるんだねぇ……きっと精霊さまがあたしらに、あの子の声を届けてくれているんじゃよ」
老女の呟きに、周りの住人たちは一様に頷いていた。
「精霊だって……? そんなもの……いる筈がないだろ……バカバカしい……」
新井と呼ばれていたリーダー格のパーマヘアの男が吐き捨てる。
「そんなんだから、おまえさんたちには何も聞こえないんじゃないのかい?」
「あんたら“地球の人たち”は、どっかで大事なものを失くしっちまったのかも知れないねぇ」
「見えるものが見えのうなって、聞こえるものが聞こえのうなるなんて、かわいそうになぁ……」
「ほうじゃなぁ……ほんにお気の毒に……」
老人たちから、また哀れみの眼差しを向けられた男たちは忌々しげに頬をピリつかせていた。
発展途上の弱小国と見下していた筈のAQUAの住人たちの中にあって、今や自分たちがまるで健常者の中に混じった少数の障碍者のような気分にさせられていて落ち着かない。
「……あのアリシアさんはな……ワシらにとって娘であり妹であり、姉であり母であり、姫さまであって……そして水の三大妖精のおひとりであり、女神さまなんじゃ……」
一人の老人が、クルーたちを諭すように語り始めると、近くに居た老人たちは、みなまったくその通りだ、というように深く首肯している。
「ワシらにとって大切な、大切な、この星に暮らす誰にとっても尊いお方じゃ……」
「なのに、それをあんたらは傷つけようとしてたんじゃよ……他所の家にズカズカ土足で上がり込むと、家人がだいじにしていたものを許可も取らずに勝手に弄くりまわしてな……そんなことをされて誰もいい気はせんわなぁ……」
「みんな、あんたらにはガッカリしとるんじゃ……マンホームはワシらにとっての故郷のはずなのに……そこから来た人たちは、もう礼儀も作法も弁えんようになってるとは……嘆かわしいことじゃ……」
マナーの悪さは自覚していても、それは相手が自分たちよりも弱くて劣っているからであり、取るに足らない存在だと見做したからだった。男たちは、それこそが自分たちの特権だと思いこんでいたが、このAQUAではどうにも勝手が違うことにフラストレーションを抱えている。
「アリシアさん、さぞ心細かったろうになぁ……でも、ああしてみんなの前で自分の言葉で気持ちを伝えてる……えらいお方じゃ……」
「まだ二十歳そこそこの女の子がじゃよ……ホンにご立派なことじゃなぁ……」
「ありがたや、ありがたや……」
岸辺に詰めかけていた住人の中には手を合わせて拝むものまで現れて、アリシアのスピーチは、始まるまでの喧騒が嘘のように静まり返って、いつしか神聖な儀式であるかのような厳かな雰囲気に包まれていくのだった。
粛々として傾聴を続ける住人たちとは対照的に、いつもは情報の最前線に居ると自認するものたちは、住人たちから向けられる白い目から逃れるようにして岸辺を離れ、壁際に屯するとイライラしく不要になった余分な機器を片付け始めている。
疎外される側に立つという屈辱を味合わされていた。
「おいっ、誰かテレビの用意をしろ――」
苦々しい顔のチーフDが命じると、
「新井さん、アリシアのスピーチ、貸し出されたスマホで見られるみたいですよ」
若手連中は既に自分たちの機材を脇に、スマホの画面に目をやっていて、
「やっぱりキレーだよなぁ、アリシア・フローレンスは……こんなカワイイ子が結婚するって、やっぱ悔しいよな」
「エッチも、もうバッチリしてるんだろうからなぁ……」
「オトコなら当然、めちゃくちゃセックスしまくるから……チックショーっ」
AQUAの国営放送を通じて流されているアリシアの映像を見ながら、だらしなくニヤついていた。
「オマエら、いつまでもガキみてぇなこと云ってんじゃねぇゾ、さっさと仕事しろっ!」
反応の悪い部下たちに業を煮やして新井チーフがまた怒鳴りつける。
「いいから早くスマホをモニターに繋げっ! 誰のでもいいっ」
「チーフ、スマホ持ってきてなかったんですか?」
「あんな骨董品、使うとは思わなくてな、だからポケットにかさばってジャマなんでホテルに置きっぱなしだよ」
一人がスマホの映像を調整用の小型のモニターに飛ばして、公式の映像が一瞬、受像機に映し出されるようになるが、静止画のまますぐにまたプチッと途切れてしまった。
「おい、浜田っ、画面が真っ黒になってるぞっ」
「おかしいな、これ古いからイマイチ使い方がよくわからなくて……こっちのだとこのままじゃダメなのかな……」
「チッ、ウチらのとは規格が違うみてぇだからな……」
「ラインで繋いでコンソールを挟めば、なんとかなるかも……」
「有線でも何でもいいから早くしろっ!」
「和田さぁん、新井さんが有線にしろって、今日、92番のケーブルって持ってきてましたっけ?」
「ああ、たぶん機材ケースに入れてあると思う……」
男たちはそれぞれが自身のスマホ画面に映る端整な顔にチラチラ視線を送り、無駄口をききながら、サッパリ気ののらない倦んだ動作で作業にあたっていた。
「……こんな清楚な品のいい顔してるのに、オッパイもかなり大きいってのがまたエッチなんですよね、サイズも推定九十三以上のエッチカップ越えだって……」
「え? ソレ、どこ情報?」
「ホントかぁ? 服着てると細く見えるのに」
「昨夜、“スプラッシュ”のサイト見てたら、ムフフな彼女のボディデータの詳細な分析結果があってですねー」
「なんだスプラッシュかよ、あそこはガセばっかだからアテにはならんな……あ、これダメだ、和田さぁん、やっぱり迂回させるしかなさそうですっ」
「四番に繋いでダメならそうするしかないな……めんどくセーな、ほっそい回線の方もいっぱいいっぱいみたいだからよ……お、あったぞ、92……」
最高齢と思われる胡麻塩頭のベテランカメラマンが、ジュラルミンケースの中からケーブルを掴み出すと、画面に見惚れている後輩のカメラマンに放り投げるようにして渡した。
「……あれ、和田さん、92ってコンソールで使えたんでしたっけ?」
「クンニはコンドームなんか使わねぇよっ!」
「またぁー、和田さんのエッチぃ。まぁ俺はアリシアちゃんのマ◯コならエンドレスでおしゃぶりできる自信ありますけどっ」
「ハマさん、ヘンタイっすよ、そういうのっ」
「プロ上等、本職がヘンタイのオマエには言われたくねぇなっ、井川クンニはっ」
「自分、ヘンタイってのは認めますけど、先輩にはかないませんって、だって俺、まだ性病ってのに罹ったこと無いんで――」
「俺がいつ性病に罹ったっていうんだよっ」
「そりゃセックスワクチンばっか、ダースで打ってる人は罹りたくても罹らないしょw」
「あんだとーっ」
互いに売り言葉に買い言葉の卑猥なワードが飛び交う。
「でもアリシアちゃんにはオレが教えてやりてぇなぁ……ワガ一門に伝わるオンナゴロシの秘奥戯、ポー&スクリューでもって、カノジョのカラダにホントの快楽ってヤツを――」
「バーカ、どーせオマエらみたいなヤツばっかりだから、もうとっくにオモテもウラも使用済みだよ」
「やっぱキーさんもそう思いますか?」
本職――たちは揃ってマジで残念そうな顔をする。
「オトコと関係持ってからずいぶん経ってるみたいだから、そりゃ普通にそうなるだろ」
「まぁそうっスよね――」
傍でイライラして作業を見守っているチーフディレクターをよそに男たちは機器と格闘すること十数分、ようやく
「ハマさんっ、ライン、こっちの本局から引っ張ってみました……回りくどいっすけど、これでなんとかなりませんかぁっ」
「わあったっ……ああ、イケそうだ……イワちゃん、どうだ、そっちは?」
「あ、来ました来ましたっ、映像、来ましたっ……ワーオっ、コレはスゴぉいっ!……」
「おーっ、来たか……」
一同、映像を見るや、おお――っ、というどよめきが上がる。
大画面にアリシアのほぼ等身大のライブ映像が映し出されて、男たちがテレビの周りに集まってきた。
「つくづくいいオンナだよなぁ……」
「ホント、彼女、メチャンコカーイクないすか?」
みな今にも涎を垂らさんばかりになって画面を食い入るように見つめていた。
「こりゃバスト九十三以上ってのも、まんざらでもなさそうでっせ――」
「確かにいい感じに膨らんだ胸してるもんなぁ……」
公式映像はアリシアのバストショットで、息遣いのたびにセーラーブラウスの胸もとがふくよかな陰影を描いて、実に甘く優美に起伏していくのがはっきりと見て取れるのだ。
「やっぱ、こんだけカワイけりゃオトコが黙っちゃいないですよねぇ」
仲間内でヘンタイ扱いされていたADの一人が大袈裟なフリで舌なめずりをしてみせている。
「でも一体、どんなヤツなんですかねぇ、アリシアさんのカレシって……」
「情報によると地黒の小柄なヤロウってハナシなんすけど」
「俺の見立てじゃ、ありゃガセだな。出どころがそもそもアリシアの後輩社員のインタビュー画像の解析とかからだろ? 元ネタが弱すぎる」
「じゃあ、木下Dの見立てですとどんな感じなんですか?」
「まあ、これだけの美女だからな、俺は相当な有力者が早々に囲い込んでたんだろうと思うな。おまえらだってソレなりにこの業界に長くいるんだからさんざん経験してきただろ? ちょっと可愛いなと思った子は大概、デビュー前からすでに上の方にいる誰かさんのお手つきだったりして悔しい思いをしたのを」
「まぁ、そうですけど……」
「#アリシアくん、着ている服をぜーんぶ脱ぎたまえ# #はい、ダンナさま……# #脱いだらこっちへ来て脚を大きく開いて、チミのきれいなオマ◯コをワタシによーく見せてごらん# #はい、ダンナさま……# って、やっぱこんな具合なんすかねぇ」
また件のADが悪のりして口真似をしてみせ、下卑た笑いを誘っていた。
「でも俺には、とてもそんなだとは思えないんだけどなぁ……この顔は普通のJCやJKの匂いがするから……ヤリまんって感じにはとても見えないっすよ……」
「ハマさん、普通って、こんな超極上の普通ってのがどこにいるって云うんですか?」
「まぁ、そうだけどな……」
「おい、どうでもいいから、オマエラ早く音出せよっ――」
焦れたチーフディレクターに促されて、モニターにスピーカーパネルを貼りつけると、ようやく彼らの耳にもアリシアの声が聞こえるようになった。
柔らかく艶のある透明感を感じさせる声音で、彼女は今、このAQUAの成り立ち、歴史について話をしているようである。
「これがアリシアの声か……」
「やっぱ声もキレイっすねぇ……」
言葉の選び方にも豊かな知性、情操を感じさせる教養人のワーディングは、明らかに自分たちがこれまで接してきたタレントという種族とは別次元の高級感を抱かせるものだった。
確かにネオ・ヴェネチアの住人がアリシアを、姫――と、呼ぶのも頷けるのだった。どうもいつもとは様子が違うのを意識して互いを窺うように顔を見合わせている。
しかし、彼らをさらに驚倒させたのは、その後、アリシアが標準語で伝えていたのと同じ内容と思われるものを、なんと八カ国もの異なる言語で繰り返していたらしいことだった。
卑しい出自そのままに、普通に醜い言葉が飛び交う世界にどっぷりと首まで浸かっていた男たちですら、人としての格の違いを感じずには居られない遠い隔たり。
最後には色を失い誰もが言葉を奪われて、住民たちがしているように彼らもまたアリシアのスピーチに耳を傾けて聴き入っているのだった。