ARIA A SECRET SCHOOL DAYS 作:真夜中のミネルヴァ
アリシアが海上でスピーチを行ったその日は、既に神話として地球圏の人々の心に深く刻まれることになっていた。
ゴンドラの彼女は、さながら貝に乗ってやってきた愛と美の女神、アフロディーテそのものに映ったからだった。
この鮮烈な映像を目にして、それまでアリシアに対して卑猥なバッシングが行われていたネット界隈は、その狂熱を総括することなく途端に掌を返し
マルスにヴィーナスが降臨――!
などとひとしきり、この撞着語遊びが飛び交うことになったのだった。
AQUAは人々にとっての憧れの地になる一方で、逆に金星への配属、転勤を命じられた者たちに対しては
嗚呼、哀れ金星、彼の地より女神、火星に去る――。
愛の女神不在の惑星に、果たして希望ある未来などあるのだろうか――?
などと弄られていい面の皮であった。
実際、とばっちりをまともに受ける形となった金星関連事業を尻目に、ゴンドラ遊覧を含むネオ・ヴェネチアへの観光ツアーは、以降、一躍、関心を集め、各旅行代理店ともに二年先まで予約が埋まるという大変な盛況ぶりとなっていた。
それというのも、映像で接することになったウンディーネたちは、アリシアは言うに及ばず、それぞれが滅多に見られないような美女、美少女たちばかりであることが地球圏全体、太陽系の隅々にまで知れわたってしまったのだ。
手垢にまみれた既存のタレントなどとは違って、このナチュラルで品の良い乙女たちのことを人は
ネオ・ヴェネチアの処女――。
と呼んで、たいそう尊んだのだった。
そしてこの美しき生身の妖精たちとは、ゴンドラに乗れば誰でもごく間近にでき、お近づきになれるというのは実に魅力的なことだったのである。
東京、広尾――。
高級住宅街のはずれにある古びたマンションの一室、その狭いリビングにせせこましく置かれた安物の応接セットに、いかにも似つかわしい安っぽい風貌の住人が、同じように煤けたなりをした中年女と向き合っていた。
両者の間には微かな緊張感が漂っていて、それはじきに訪れる対立の予兆でもあるようなのだった。
「……それか? 百万クレジット以上の価値があるっていうデータチップは――」
「ええ、解凍するための暗号を教えてもらってないからまだ中味を確かめてはいないけど、三次元フルヌードスキャン画像が“シャッタースピード”を変えて都合十四ポーズ、いちばんスキャンタイムが長いのは二分の一秒だから、これだとアソコの産毛までくっきり再現できてるわね。それから三秒余りのフルヌード三次元動画が少なくとも八シークェンス分、メモリーがパンパンになるまで撮ったから、都合約六百カット分が記録されているはずよ。これだけあれば確実に“当たり”はあるハズだわ」
女――荒木マユミは手の中にあるビスケット一枚ほどのサイズの記憶メディアを見せびらかすようにして、細い目の片眉を吊り上げて得意顔で言った。
そこにはコンマ2ゼタバイトにまで圧縮されているが、解凍するとその数百倍のサイズになる極超高解像のフルヌードスキャンされた身体データが収められているのだ。
通常のフル3Dホロムービーが2時間でせいぜい数ペタ程度の情報量であることから比較すると、それがどれほどのものかが窺える。
僅か数十分の一秒ほどのスキャン時間があれば、たとえ服の上からでも対象を全裸に剥くことができるばかりか、透過時間の長さ次第では肛門の皺に付着したごく僅かな排泄物の残滓までも拾い上げてしまうほど解像度を上げることができることから、ターゲットにされた淑女の恥部をとことん露わにするという意味でレイディ・クラッシャーの異名を取るのも頷けるのだ。
事実、この装置の犠牲者にされたと噂される著名人は少なくない。
あくまでも都市伝説ではあるが、某国の第一王位継承者で民衆にも人気のあった王女が、即位直前になって辞退した本当の理由がこれによる破廉恥な画像の拡散を恐れてという噂は四年以上経過した今も燻り続けていた。
即位辞退表明の直後にその理由が反王女派からの工作によるもので、王女自身が当該機器によるスキャン盗撮の被害に遭っていたという出所不明の情報がネット上にリークされ、実際に王女のフルヌードの一部が証拠として提示されていたのだ。
王女サイドはこれを単なるフェイク画像として一蹴していたが、例によってネットに棲息する“専門家”らによって詳細な分析調査がなされ、画像がフルヌードスキャナーによって撮られたものである可能性は極めて高いと結論づけられていた。
であるとすれば、王女のもっとスゴい画像が他にも盗み撮りされているという疑いは拭えず、弱みを握られた彼女が対立勢力の圧力に屈したとする可能性はそれなりに説得力のある説として受け入れられていたのだ。
こうしたこともあって、連邦政府は当該機器とその周辺技術の全てを現在は非合法にしていて、使用はもとより保有も許していなかったが、人がひとたび手にした技術を易々と手放すはずもなく、反社会勢力などの資金源の一つとして密かに生産が続けられていて、それを阻止せんとする当局との攻防は続いているのだった。
荒木マユミと吉本昌浩の二人は共謀することで、たった一台だけではあったがこのご禁制の卑劣きわまる盗撮機の最新鋭モデルを、AQUAの水際での監視の目を逃れてネオ・ヴェネチアに持ち込むことに成功し、その残酷で無慈悲な電子の眼差しを今や人類の恋人とまで呼ばれる稀代の美女アリシア・フローレンスへと向けたのだ。
彼女のプライバシー――女にとって差し障りのある細々とした部分に至るまで全て――は、僅か数センチほどのチップの中に収められていて、やがてそれを鑑賞するものたちの手によって大きく引き伸ばされて、仔細にわたってチェックされる時を待っているのだった。
「あのアリシア・フローレンスの恥ずかしいところが隅々まで捉えられているのよ……彼女、今やヴィーナスとまで言われてるのよね……ヴィーナスのカラダの詳細に渡るデータに一体、どれほどの価値があると思う?」
「まぁ、開けてみないことにはな……」
男は女の掲げるチップに手を伸ばそうとしたが、女はそれをすぐに引っ込めると、自分が優位な立ち位置にあるという確信から、椅子の背に深く凭れて、片手で頬杖をついて値踏みするような視線で男を見やるのだった。
「ねぇ、取り分は半々にしない――?」
女は条件を釣り上げていた。
「なにをバカな……もう話はついてるだろ」
「だって別に契約書を取り交わしているわけじゃないでしょ? それにあの時と今とじゃ事情が違うから……もうただの田舎娘のセックススキャンダルって話じゃないのよ。あの時はせいぜい百万クレジット程度だと思ったけど、今じゃ一体、あの女にどれほどの価値があるのかしら? 十倍? もしも二桁違うとしたら、これはもうボーナスなんてレベルの話じゃないわ、莫大な富を産むビッグビジネスよ」
「………」
「彼女のファンだっていう資産家に持ちかけたら、このデータにいきなり数十万の値がついたってちっとも不思議じゃない――」
「おまえなんかに捌けるものか、どうせアテがあるわけでもないくせに」
「そうね、あたし、吉本さんみたいに顔が利かないから……」
「いいからよこせ――」
男は再び手を伸ばした。
「そいつの扱いはおまえには無理だ、あとは俺に任せろ、おまえさえムチャを言わなければ十分な額の報酬は約束する」
「吉本さんはコレ、どうするつもりなの?」
「マスターチップは俺が厳重に保管して、そのコピーにプロテクトをかけて、さらに固有の機器でしか再生できないようにしたものを機器とセットにして地下オークションにかける。これなら何度でも売り捌けるだろ? 専用機器の方はすでに目星がついているし、もしも落札者の口コミで密かな評判となれば、以後は初値を更に釣り上げられるかもしれない」
「ふーん、ずいぶん用意がいいんだ」
「まぁな……わかったら俺に任せろ」
そう言われた女は観念したような顔つきになるとチップを相手の手に渡し、男は少し安堵した様子になるのだった。指先のチップを満足げに眺めながら、今度は気持ちが急いて落ち着かなくなってくる。早く解凍しておタカラの中身を確かめたいのだが、それには女が邪魔だった。
解除キーにどんな暗号を使っているかを相手には知られたくなかったからだ。
「で、さっきの話の続きだけど、五分五分ってのはオーケーよね?」
「バカ云え、おまえの口座には毎月二千クレジット振り込んでやるよ。ビジネスが続く限りだがな」
「冗談言わないでよ――」
女に言わせれば、男の示した報酬は見込まれる利益からすると、子供の小遣い程度の端金だった。しかも振り込まれるかどうかの保証もなく、ましてビジネスがどうなっているのかも知りようがない。
案の定、相手は約束を違えていた。ビジネスパートナーにするつもりなどハナから無かったことを確かめていた。
「一年に二万以上の非課税所得だ、十分、美味しいハナシじゃないか?」
「たったそれだけ? あたしにあんだけ苦労させておいて」
「苦労だぁ? ただ機械を置いて、後でチップを回収するだけだろ? バイトにしちゃワリが良すぎるくらいだろうが」
「本当にそう思うの? あたしが失敗するとは考えなかったの? 捕まって洗いざらいぶちまけることになったらどうするつもりだったのよ」
「上手くいったんだからいいじゃないか、ダメならその時はその時だ、一応、保険はかけてあるしな」
「保険――?」
「俺は機器の調達を含めてこの件にはいっさい関わっていない。火星に連れて行ったのも、いつでも切り捨てられる手ゴマの二人だ。オマエと同様にな」
「へーえ、馴れたものね、なんだかこれが初めてじゃないみたい」
カマをかけると、男はフン、と鼻を鳴らして応えた。限りなくイエスに近い反応なのだった。
「そっか、アユミちゃんとの逢引きに使ってるこの“高級マンション”も裏のバイトで稼いだお小遣いで手に入れたってワケね」
アユミというのは吉本の今のイロで、錦糸町のクラブでホステスをしていた。妻子持ちの吉本にとって、この部屋は家族には内緒の都心のアジトなのだ。
それをあげつらわれたと思ったのか男の方は「なんか文句あるか?」とでもいうようにちょっと剣呑な雰囲気を漂わせてくる。
「そんな顔しないでよ、ただ大変だったから、こっちはちょっと色を付けて欲しかっただけなんだから」
「一応、訊くが、どうやってやった? スキャナーの有効半径は一台だけだと、確か二メーター程度しかなかった筈だが、どんな手を使ってアリシアを首尾よくトラップに誘いこんだんだ?」
「それなりの方法でよ……」
「もったいつけるなよ、ハナシ次第じゃ上手く撮れてない可能性だってあるんだからな、万が一ぬか喜びだったらそれこそシマラネェ」
「たぶんそれはないわ、確かめたワケじゃないけど、それはないと断言できる。だって時間はたっぷりあったから、私があの女の動きを確認しながら遠隔手動で“シャッター”を切ったんだし――」
女はアリシアを嵌めた手口を話し始めた。
「……アリシアが足を向けそうな場所で、不特定多数の人間が自由に行き来する場所と言えばサンマルコ広場ぐらいしかないから、そこでしばらく彼女の動きを張っていたの……」
すると広場に昼休みの間だけチョコレート売りの屋台の出店が現れて、観光客だけでなくウンディーネも買いに立ち寄ることから、そのうちアリシアもやってくるのではないかと睨んで、そこに罠を仕掛けることに決めたというのだ。
出店直後にチョコレートをオーダーして、店主の若い男が目を離した隙にスキャナーを入れたバッグを屋台の足元に忍ばせて、あとは離れたところから様子を窺い、閉店間際に再び店に行き、チョコレートをオーダーする間にこっそり機器を回収する、これを繰り返したのだ、と。
「広場には常に多くの観光客が居るから、よっぽどのことがない限り目立たないし、獲物の狩場としては絶好だったわね」
「なるほど……」
「それで何日も張って、ようやく巡ってきたチャンスを逃さずに仕留めたのよ、おかげで随分たくさんのチョコレートを食べるハメになったけど」
「そいつはご苦労さまなことだな」
男からは特に労うでもない形式的な言葉が返ってくるばかりである。
「だからさぁ、吉本さんも少しは誠意を見せてよ」
「考えとく――」
「考えるって……」
マユミは狼狽した風を装った。
「いいからオマエはもう帰れ、あとはこっちに任せろ」
「冗談じゃないわっ、撮った画像も確認しないで帰れるワケがないでしょっ!」
「いいや、オマエの仕事は終わった――」
「用済みってこと? こっちにリスクだけ取らせて仕事が済んだらお払い箱にするのっ!? それって随分とあこぎじゃない?」
「あこぎかどうかは知らんが、コレが俺のやり方だ。オマエだって条件を釣り上げようとしただろ? 状況が変われば条件も変わる。今は俺が全てを握っている。チップと……そして暗号と……」
男は自分の頭を人差し指でトントンと叩いてみせた。
「シゴトの手間賃ならくれてやる、一万でも二万でも、おまえの言い値を払ってやるからとっとと帰れ」
「そう――」
女は渋々といった様子で椅子から立ち上がりながら
「やっぱりねぇ……」
ほくそ笑んだ。
それは敗北を認めた諦観の笑みではなく、優越者の余裕を感じさせるもので男はギョッとする。
「どうせそんなことだろうと思ってたわ……」
「悪く思うなよ」
「ええ、吉本さんも悪く思わないでよね」
「なんで――?」
「もしもそのチップに何も映ってなかったとしても――」
「えっ――!?」
この時になって吉本は初めて自分の迂闊さに気がついたのだった。
「オマエ……まさか……」
「自分がカモにされてると判っていて、敵地に招かれて、わざわざネギを背負っていくようなお人好しなんて、この業界にはいないわ」
「………」
「今日は交渉の第一段階よ。今からが本当のビジネスのハナシ」
「………」
「安心して、あたし、吉本さんとは違って、そんなに、あこぎなことしないから」
マユミは、そんなに、をわざとらしく強調して、男は苦虫を噛み潰したように渋い顔をする。
「オマエ、俺をコケにしてタダで済むとは思っちゃいないだろうな?」
凄んでみせた。
「本物のチップはどこだっ? 今すぐ持ってこいっ、俺がキレる前にっ」
「無駄よっ、だってあたしも知らないんだもん……“今”のあたしは知らないのよ、本当にチップのありかを知らないのっ」
「……!?……」
「自分の記憶にもプロテクトをかけてあるから――」
女が昂然と言い放つと
「……メモリー……ガードか……?」
男はようやく事態が自分にとってかなり分がワルイことを理解して、忌々しげに舌打ちすると大きくため息をついて、ブスッと無言になった。
メモリーガードというのは、重要機密を扱うものたちが、万が一敵方に拉致された場合に情報の保持と共に拷問、薬物等による自白強要から生命、身体とを保護する目的で開発された心理技法で、自身の記憶をパスワードの下に封印するというものである。
優れた心理技術師の指導のもとでなされる高度な暗示によって、あらかじめ設定されたパスワードを耳にするまでは本人でも記憶の想起ができなくなるのだった。
元々は過去のトラウマ等の精神障害に苦しむ患者を救済するための治療目的で発展したものだったが、現在では治療以外の利用がなされるケースも増えてきていた。
「あたしの手には本物のチップとパスワードがある、吉本さんにあるのは空のチップとパスワードだけ、これから始まるのはこういう取引なのよ、どう理解できた?」
「クソがっ……この糞アマがっ――」
「お口の利き方には注意してね、あたしにはもう一つカードがあるんだから」
完全に事態を掌握して、荒木マユミは甘い勝利の蜜を口いっぱいに含んで、こみ上げてくる笑いを堪えて自身の加虐的な性向を小出しにする。
「もう一つのカード? 何の話だ?」
「ねぇ、気にならないの? フルヌードスキャナーがあの後どうなったのか……」
「回収したんだろ?」
「ええしたわよ、だからチップが取り出せたわけだし……でも本体を持ち出すことなんてあたし一人でできるはずがないでしょ? AQUAを出る時だって持ち物検査を受けるんだから……チップ一枚ぐらいならなんとかなっても、あんなサイズのもの、とても隠して出国時のチェックを通り抜けることなんてできやしないわ」
「じゃあ、どうしたんだ? オマエのネオ・トウキョウのアパートにガメてるのか?」
「まさか、そんな危なっかしいことはしないわよ……ねぇ、吉本さんはどうするつもりだったの?」
「あれはそもそも、元は八千クレジットほどのブツだったが、今じゃプレミアがついてその数倍もする貴重品だ、棄てちまうのは惜しい……だからといってあっちで部屋を借りてそこに保管するとなると、かえってコストがかかっちまってとても現実的じゃない……結局、泣く泣く海に沈めるかして処分するしかないだろうな……オマエもそうしたんじゃないのか?」
「あたしね、アレに保険をかけることにしたの」
その回答は男にはまったく気に入らなかった。
「どういうことだ――?」
「あるものと一緒にロッカーにしまってあるのよ」
「あるもの……?」
女のサディスティックな笑みを見て男はついに色を失った。女を舐めてかかっていたことを後悔し始めていた。
ハメるつもりでいた相手に、ハメられたのが自分の方だったのではないかとの疑念が急速に頭をもたげてきていたのだ。
「オマエ、いったい何をしたっ!?」
日頃、傲然と振る舞うぐらいしか能のない、この不細工な中年男がすっかり余裕を失う様子を見物してから、女はポケットに差していたペンを取り出すと、
「このペンってね、よくあるワンクレショップにある安物なんだけど……」
言いながらペンを分解し始める。
「ホラ、インクが短く切ってあるでしょ? 今日は何も仕込んでこなかったけど、あの時……吉本さんとネオ・ヴェネチアのホテルで仕事の話をしていた時には、ここにカメラとマイクのスパイ用のデバイスを仕込んでいたの……キャップを外すと、ここに小さな穴があるでしょ? それをこうして……」
シャツのポケットに一ミリの半分ほどの小さな穴が正面を向くようにして差して見せた。
「そうするとね、吉本さんが綺麗に撮れて、貴重なお話もすっかり記録されちゃったりするのよ……あたし、あの時のやりとりをそっくり残しておいたのね……それでね、そのデバイスとスキャナーとが今は一緒に保管されてるってワケ、この意味、判るわよね?」
それを聞いて、男からは呻きとも唸りともつかない声が喉の奥から絞り出されていた。
「あたしが料金を課金し続けないと、ロッカーが開けられて中身が取り出されてしまうのよ。それってあたしたち、とっても困るわよねぇ……特に吉本さんみたいにステータスのある方は……美久理ちゃんだったかしら? 大好きなパパが若い女の子を違法に食い物にしてるなんて、そんなワルいことに手を染めていると知ったらさぞガッカリするでしょうね……それに父親が犯罪者だったりしたら進学にだって影響するかもしれないし……」
「クソっ……」
「あら、ビジネスパートナーに何か言った?」
「………」
「これであたしと吉本さんは立派な共犯よ、そしてあなたはあたしを守らなければならない立場にある……だって、もしも送金が滞ったりしたら大変だもの……ロッカーがどこにあるかも吉本さんにはわからないし……どう? だんだんビジネスのお話がしたくなってきたでしょ?」
「ひとのふんどしでスモウとりやがって……あげくコレかよ……」
吉本昌浩は呻吟を交えてひとりごちている。それは弱り切った男のボヤキだった。
これまで自身が頼みにしていた牙と爪とを一瞬でそっくり失って、一気に老け込んだように見えるのだった。
「まずは教えてちょうだい? チップの解凍パスを」
「それを教えて俺になんの得がある? 俺にとっての命綱だろ」
「心配しないで、あたし、吉本さんとは違って約束を違えたりはしないから」
「………」
「利益は五分五分、折半するって言ったでしょ? その約束はあなたの目に見える形にしてちゃんと守るわ」
マユミがそう言って懐柔すると男の顔色も少しは戻ってきたようである。
「あのチップのデータをどうするつもりなんだ?」
「あたしはオークションなんかにかけたりはしないわ、それじゃ、多くの人の目に留まらないでしょ」
女の答えに男は怪訝な顔をする。
「あたしね、あの女を潰してやりたいの――」
細目の中で黒い点眼が危険な光を放って妖しく輝いていた。
それは手懐けているとばかり思っていた小型動物が悪意を剥き出しにして歯を見せているような醜怪さだった。
「オマエ……アリシアになんか恨みでもあるのか?……とても恨みを買うようなことをする女には見えないが……」
「ホラ、吉本さんまでそんなことを言ってるし……綺麗な若い女はお得よね、人生がイージーモードで……」
「向こうでアリシアから何かされたのか?」
「別に……あの女と接点なんかなかったわよ……」
「じゃあ、なんでだ?」
「キラいなの、ああいうのが。あたし大っキラいなのよ。なんでも持っていて、みんな揃っていて……おまけに今じゃこっちでも女神さまだなんて言って崇められて……きっと裏じゃただの股がゆるいだけのだらしないオンナのハズなのに……」
「嫉妬か、みっともないな……」
「なんとでも言ってよ、ただあたしはあの女が綺麗な顔を歪めて吠え面かくところが見たいのよ。だからあの女の恥部を思いっきり晒しものにしてやりたいの……向こうでも、もうちょっとだったのに逃げられたから……でも今はちゃんとしたネタがこっちにはあるから、今度こそ――」
劣ったものが真っ当なものへと向ける僻み、嫉み、妬みの感情は実に厄介だった。
とどのつまりは相手から奪うことでしか優位を確かめる術がなく、それまでは満たされないままに自尊心は永遠に損なわれ続ける。
それはカインとアベルの時代から少しも変わらないのだった。
また劣等感を抱いた相手と、分かち合う、などという綺麗事は決して成立せず、
奪った――。
という事実が必要なのも劣った者の持つ性向の特徴だった。
彼らは貰うよりも奪いたいのだ。相手から与えられるのではなく、相手から取り上げたいのだ。
仮に貰うよりも取り分が少なかったとしても、奪う、という事実に拘りがあるのが劣ったものの持つ劣った感情、思考だった。
そして彼らは優劣でしか関係をはかれないがゆえに、友情という感情も育まれない。
唯一満たされるのは、優位に立った時――。
だから上に立ちたい、上に立つ、上だ、上だ、上だ……。
吉本自身にもその自覚があって、極端な上昇志向や金や地位への執着は、劣等感の裏返しだった。
しかしどんなに努力しても結局、劣等感は昇華されることなんかなくて、ただ宥めて付き合っていくしかないものなのだった。
中年の域に入り、自身の傷多きキャリアを振り返って、そのことをうっすらとではあるが彼も認められるようになっている。
アリシア・フローレンスから選ばれた男に劣等感を抱くなど、そんな熱量はもうどこにも残ってはいなかった。
だが、荒木マユミはアリシア本人への劣等感を執念にも近い憎悪の炎で焼き尽くそうとしていた。
吉本の目には、それはまるで太陽を灼こうとでもするように無謀なことに思えるのだが、自分よりも少し若い分、彼女にはまだその余裕がないらしいのだ。
あるいは男のジェラシーと女のそれは違うのかもしれないとも思う。
男はその女の最初の男になりたいものであり、女はその男の最後の女になりたいものだというが、もしかするとそんな性差も影響しているのかもしれなかった。
そう考えると、男が深入りするのは禁物だった。
「好きにしろ……俺はしっかり稼げればそれでいい……で、どうするつもりだ? 当然、計画はあるんだよな?」
「もちろんよ……でも、ちょっと準備があるから……そうね、来週、もう一度相談しない? 今度はあたしが場所と時間を指定するから、だから吉本さんはそれまでパスワードを忘れないでね」
1話に纏めたかったけど纏まりきらなかった――
荒木と吉本の二人とも、あるいはどちらか一方でも
パスワード忘れました――
のオチはやっぱり禁じ手だというのは知ってます