※この作品はR-18です。

ARIA A SECRET SCHOOL DAYS   作:真夜中のミネルヴァ

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その こめられた想いは…その1

 

 マルチャーナ国立図書館は、遷都以降ドゥカーレ宮殿内にある旧議会図書館と統合されて現在はネオ・ヴェネチア市民図書館となっていて、文化財として保管展示されているものを除くと、二つの棟に合わせて二百万冊余りもの一般蔵書のある地域最大の図書館だった。

 ただネオ・ヴェネチアという立地から地の利が悪く、訪れる者たちの多くは観光客で利用者はそれほど多くはない。

 とりわけ平日の午前は実に閑散としていて、別館の閲覧室は広々としたフロアーを見渡しても数名の高齢者がテーブルに座って読書をしているぐらいで、彼らのページを捲る音が聞こえるほど静かなのだった。

 だから偶然居合わせた二人が、互いに相手の存在に気づくのにはさして時間はかからなかったのだ。

 そのあとはもう阿吽の呼吸だった。

 それぞれが息もぴったりにさりげなく、閲覧室の隣にある稠密開架書庫へと続く扉――片側の壁に沿って数メートルほどの間隔をおいて頑丈な押し戸が五つ並んでいた――を開けて中に入ると、天井高くまで並べられた書棚の密林の、そのいちばん奥まったあたりへと足を向けていて、絨毯の上を忍ぶようにして歩く足音は次第に近づいていき、やがて一つになるのだった。

 ただ、久しぶりの逢瀬となっても言葉を発することはなかった。

 アリシアは

「逢いたかった――」

 そう声に出したいのを堪えて、同様に口をつぐんだままで自分を思いのこもった目で見つめるアキトの黒い瞳と、長いアイコンタクトを続けている。

 歩きながら書庫内には誰もいないことは確かめてはいたし、仮に誰かが中に入ってきても重い扉が開閉する音ですぐに気がつく筈なのだが、それでも万が一のことを考えてそうしていたのだ。

 身を寄せて互いの背中に腕を回して、そして唇を重ねる。

 あの日以来、マスコミの関心や人々の目もあって、ひと月近くも逢えずにいたことから二人の抱擁と口づけは、そこが仮にも公の場であることを忘れて次第に熱のこもったものになっていくのだった。

 どんなに逢いたかったか、どんなに愛しているかを伝えたくて――。

 もちろん逢えずにいた間も、頻繁に手紙を使ったやり取りはしていた。

 もっともアリシア宛のファンレターは、今や広大な地球圏全体からも届くようになっていて、一気に数を増したためにさすがに従来通りに全てに直筆で返事を書くのを諦めるしかなく――多い時には日に一万通を軽く超えて、段ボールに入った状態で届くようになっていた。これでは全てに目を通すことすらままならず、そうした中では致し方ない方針転換なのだった――従来、仕事の一環として行なってきたように、閉業後の残業時間内でできる範囲で抽出したものについて返信することにやり方を変えることにしたのだ。

 それについてはアリアカンパニーの公式サイトで、その旨を伝えて理解を求めてもいた。

 また残ったものについては量が量だけに灯里と相談した結果、当面の間は保管をすることにして、時期をみて処分するということに決めたのだった。

 一方、アキトからの手紙は、その膨大なファンレターの中に紛れこんでしまわないようにアリアカンパニー宛の事務書類の体裁をとったものとして別便で届くようになっていて、差出名を通販サイトにした請求書を模したものだったり、大学からの通知を騙ったりしていて、いつも実にアキトらしい遊び心が反映されていて、アリシアは、毎日毎日、心当たりのない封書が届くのを心待ちにするようになっていたのだ。

 また彼女の方もそれに倣(なら)って架空のアドレスからアキトのドミトリー宛に返事を送るといったやり方をして応えていた。

 近況を伝えたり、思いを言葉にして――。

 文字にのせて気持ちを綴るということには特別なものがあって、一文字一文字を心を込めて書くことで、散らかった胸の裡の整理がついたり改めて互いの愛情の深さに気づいたりもする。

 こうしたやり方をすることには、少し後ろめたくはあるものの二人を取り巻く状況からするとやむおえず、随分重宝していたのだ。

 事情を知っている灯里が協力してくれるので融通が利くことにも助けられていた。

 だから離れていた間も互いの気持ちを通わせるという意味では不足はなかったのかもしれない。

 ただ、若い恋人たちにとっては手紙でのやり取りができるのと実際に逢うのとでは、やはり天と地ほども違いがあった。

 絆を結ぶことへの情熱は、肌と肌とを接することでしか果たされないものだからだ。

 愛と性とが混然となった甘美な果実は、眺めているだけではけして満たされず、ほしいままに求め合うことで初めて互いの思いを確かめることができるもの。

 男と女がひとたび裸になると体がいちばんお喋りになって、そして嘘をつけずに、偽りのない素直な自分を晒けるようになっていく。

 それこそが恋の歓び――。

 そしてセックスが、男と女にとってとても大切ないとなみであることを教えてくれたのは、彼だった。

 女の愛し方と男の愛し方には違いがあることも、これもアキトから教えられたこと。

「男と違って、女の子のカラダには、こんなにたくさんの気持ちが良くなる秘密のポイントがあるのは、それは触れられることで愛を感じるように作られているからなんですよ」

 自分自身ですら知らなかった体の不思議を、丹念に、それはそれは丹念に時間をかけて、倦まずに粘り強く問いかけてくれたのは彼なのだ。

 だから、アキトと逢えないのが寂しい。

 アリシアは夜中に独寝のベッドで、愛されたくて夜泣きをする体を持て余して、幾夜、枕を涙で濡らしたかわからなかった。

 やさしくしてほしい、可愛がってほしい、アキトさんならきっと大切にしてくれるのに……。

 事件以降、容易にはデートができなくなって、それが余計に思いを募らせている。

 逢いたいな、アキトさんに……。

 逢いたい……逢いたいな……。

 そんな切ない気持ちを抱いていた中で、偶然、彼の姿を認めたものだから、その一瞬で恋する女の顔になってしまったとしても仕方がなかったのだ。

 そして抱かれて、唇を重ねて……。

 口づけはただの口づけで終わることはなく、自然に二人ならではのやり方へと続く一本道へと向かっていた。

 アキトは、口を開けると長く舌を伸ばして何をしたいかを訴えていて、アリシアの方も、さすがにそれは――と、当惑を覚えつつも素直にこくん、と頷いている。

 彼が大丈夫、というように目を輝かせていて、そんな思いに応えずにいることなど、今の彼女にはできるはずもなかったのだった。

 少年は足元に跪くと、その日アリシアの穿いていた膝丈のクリーム色のボックスプリーツ――同じ色のビジネススーツと合わせて、夏のオフィシャルな装いの中にも、カジュアルなスニーカーと合わせると女子学生らしくなって、品の良い初々しさを醸し出していた――の裾を捲ると中に潜りこんできて太腿の間をこじ開けようとしていて、アリシアは仕方なく――実際は望んで――愛撫に身をまかせていく。

 彼は白い肌着を脱がせるのではなく、股ぐりの部分だけを寄せると、その間に鼻面を差し入れるようにして彼女の陰部に唇をあててくると、すぐに舌で粘膜の谷間を探られて、アリシアは、はうっと、息を呑んで驚きに目を瞠るのだった。

 寝室ではソフトタッチなキスからハードなディープキスへと順を踏むのが常だったが、きっと今日は時間も限られているということからなのだろう、いきなり舌を使われて、アリシアの碧く澄んだ瞳もたちまち官能の翳を宿すようになっていく。

 彼女の方も

 愛してる――。

 言葉にする代わりに脚を開いた。

 自分にできるやり方で、身体で思いを訴えていた。

 図書館で彼の顔を見た途端に、既にこうなることを予期していたように潤み始めていたそこは、待ちかねていた再会を喜んでたちまち歓迎の愛液を分泌し始めている。

 すごく羞しいのに、イケナイことだとわかっているのに、それが最愛の人との間でなされると心と体とを繋ぐ絆となる、男と女のとりわけ密やかな愛の行為、秘め事。

 オーラルセックスは、交わりを求めるノーマルなセックスよりも障りを感じる分それがより強くなるのかもしれなかった。

 アリシアが、マンホームからやってきたこの年若い恋人に、夜の儀――で、手取り足取りされて、その豊かな性の深淵へと舟出して一年余り、一方的な愛撫のようでいて、けして自分がひとりぼっちなどにはされないと判ってからは、彼の求めに応じることへのハードルは少しずつ下がってきているようである。

 少し前の彼女であれば、こうした公共の場所で、ひと目を偲んでの逢瀬には、さすがに踏み出す勇気は持てずにいたことだろう。

 しかし今は、むしろそのスリルがもたらす非日常的な興奮状態からなのか、閨にいる時とは別の刺戟にそれまで知らなかった歓びを感じているのだった。

 この上なく甘美な愛撫に身体は悲鳴を発していても、けして生臭い情欲の声を上げることができない、気をやれないままに、彼のすること――唇の動きのひとつひとつ、舌の動きの一瞬一瞬――に意識を集中させて、より濃密に淫らな感覚を味あわされている。

 別(わ)けても、敏感な肉芽――彼女のクリトリスは花襞の作る深い谷間に比較すると小さめでとても繊細なものだったが、アキトの舌によって時間をかけてゆっくりと磨きをかけられるうちに、今では愛情をしっかり受け止められるようになっていた――が彼の唇の中に捉えられて、温かな粘膜に包まれて逃れられなくされてから、少しざらざらする舌で頭をやさしく撫でられると、目の奥に火花が散って全身に痺れるような甘い衝撃が駆け抜けるのだ。そんな無慈悲な仕置きに、喉の奥から声がこぼれ出しそうになるが、アリシアは両手で口を押さえて必死に堪えている。

 

 ああ……あたしっ……とけちゃう、とけちゃうわ……。

 

 けれども、肛門にも指を送られて前後から責められると、もうダメだった。

 どんなに耐え抜こうとしても、息が忙しなく荒くなるのを抑えられなくなっている。

 体の奥にあった心張り棒がすっかりグズグズになって、熱いものが堪えきれずに溢れ出していく、それが感じられるのだ。

「ああ……だめ……アキトさん……」

 ついに悲鳴が囁き声になって発せられていた。

 閨でさえ差し障りのある、とりわけ淫らなことを、いつ誰かに気づかれるとも知れない外でされていること、自分がこんな破廉恥なことをしていることが信じられなかった。

 けれどもそれと同じくらい、そうされるのを心密かに望んでいたことを認めてもいるのだった。

 誰よりも彼女の体を知り尽くしている少年が、女体のせつない変化に気がつかないはずがなかったからだ。

 どこをどうするとどうなってしまうのか、どのようにされると体に堪えが利かなくなるものなのか、アリシア自身ですら知らないことを彼はとても良く心得ていて、いつでも彼女を悩ませ、追い詰めていく。

 負けていく自分が悔しいけれど、それも肉の歓喜のもたらす眩(まばゆ)さの前には、たちまち取るに足らないことになって、むしろ屈していくことに倒錯的な歓びを感じるようにすらなっていた。

 辱められて、虐められて、誇りを奪われて……。

 そのようにされることにも期待をしてしまうのは、どこまでも彼を信じられるからに違いないのだ。

 アキトはいつでも彼らしい、まっすぐなギャラントリーを示してくれるから。

 今もそう――。

 体の真ん中、膣口に唇が寄せられて、何やらとろりとした粘っこい感じるのするものを、じゅるりっと啜り上げるひどく淫らな湿った音が聞こえて、肉の欲望の誘惑に負けてしまった今の自分が、どれほどしどけなくなっているかが判るのだった。

 きっと、とてもひどいことになっている――。

 申しわけなくて、哀しくて、切なくて……。

 それなのに彼はこんなにも情けない姿を見せても、彼女にとって恥ずかしいニオイを、大好きだと言って少しも嫌がらずにむしろ喜んで受け止めてくれる。

 何もかもを晒けても、醜い姿になっても、けっして疎まれたり憎まれたりすることのない人――。

 それがどんなにありがたく、女にとって勇気づけられるものであることか。

 幾たびも褥を共にすることで育まれた信頼と友愛の感情は、なにものにも代えがたい二人の生きた証なのだった。

 そして彼のその一途な思いに応えて精一杯、歓びを身に受けるのが女である自分にできる愛情表現だった。

「愛してるわ……」

 アリシアは脚をさらに開いて、スカートの上から彼の頭を両手で押さえてそこに閉じ込めるようにすると、彼の愛撫にいっそう素直になっていく。

 性器ばかりか肛門までの粘膜の湿地帯を隅々までくまなく舐りとられて、デリケートな真珠や、柔らかにひるがえる襞の一つ一つを口の中に含まれて、アリシアにしかつくれない秘密の匂いと味を貪欲に求めてくる少年。

 どんなに好きで大切に思っているか、愛しているかを舌と唇を使って思い知らされて感動に胸が熱くなる。それ以上に女の体は潤いを滾々と溢れさせて、元々かなり量の多いたちのアリシアの体は、少年の喉を潤すほどの蜜を振る舞って、歓びと感謝を伝えるのだった。

 やがて――。

 彼女は腰をわななかせて、静かに歓びと逸楽の尾根を越えていった。

 こんなことを以前にも、どこかの図書館で経験したことがあるような不思議な既視感を覚えながら――。

 はぁはぁと乱れた吐息を整えて、鳴動後の余韻になお腰をピクピクとさせている彼女の股間を、今度はあまり刺戟をしないようにして彼は綺麗に舐めとっている。

 クンニリングスのあとのクリーニングも、アキトはいつもとても丹念にしてくれるのだ。愛情を感じる細やかな心遣いをして。

 

 やさしい人……大好きっ――。

 

 言葉に代えて、スカートの上から彼の頭を撫でる。 

 ずらしていたパンティの股を几帳面にきちんと元通りにして、彼がスカートの中から現れると、にっこりと微笑みかけてくる。

 幸せそうな顔をして、今まで淫らなことをしていたとは思えないくらい穏やかな様子で。

 彼の若い体は欲望を満たしてはいないはずなのに、それなのに、

 憧れに瞳をキラキラとさせている。

 女の楽屋を晒して頼りなく、後ろめたい心持ちでいる時に、こんな顔をされると胸が痛くなるくらい彼のことが愛しくてたまらなくなるのだった。

「大好きよ、アキトさん……愛してるわ……」

「ありがとう、アリシアさん」

「あたし、何も……アキトさんがやさしくしてくれただけなのに……」

「いっぱいご褒美をいただきましたから……」

 まるでお菓子をもらった子供がするように、唇を舌でペロリとやって嬉しそうに微笑む。

「いっぱいって……もう……アキトさんはいじわるね……」

 でも、こんなに素敵なデートの時間はもうおしまいなのだ。

 アリシアも精一杯の微笑みを作るが、瞳には涙が滲んでしまう。

 婚約を発表した今も、彼とは一緒に居られない。

 いつになったら手を繋いで街を歩けるようになるのだろう?

 一緒に暮らせるようになるのだろう……?

 アキトがハイスクールを卒業するまであと三年、自分が大学を卒業するのはさらにその先、そして彼が美大に進学をするとなったら、結婚はさらに先延ばしになるのかもしれない。

 考えると、気持ちがやっぱり昏(たそがれ)てくる。

 想いが伝わったのか、彼は首にかけていたネックレスを取り出して、そこに通されていたエンゲージリングを外すと、彼女の目の前で左手の中指に通して見せるのだった。

「結婚をするのに、誰かからの承認なんて要らないですよね」

 リングに口づける。

「アリシアさんさえ受け入れてくれるのなら、ボクたちはもう結婚しているんですよ」

 思いがけないタイミングでされたプロポーズだった。

「うん……そうね……そうよね」

 アリシアも自身の左手にした指輪に口づけて応えた。

「じゃあ、今この瞬間、キミはボクの妻で、ボクはキミの夫です」

「うんっ」

 頷いた途端、両目から涙が溢れてきて、彼の顔が滲んでしまうのだった。

「アキトさんのいじわる……ここでいま言われても、大喜びできないじゃないですか」

「じゃあ、取り下げたほうがいいですか?」

「ほら、またそんなことを言ってイジワルするんだから、うふふっ」

 二人だけの婚姻の儀式を交わしてから、

「すぐにまた、逢えますよね……アキトさん……旦那さま……」

 確かめずにはいられなかった。

「ええ、ボクがこんな短いデートで我慢できるはずがないじゃないですか、今だってキミを裸にしたくてたまらないのに……ウンディーネでいる時と違ってスーツ姿もいいなぁって……若い女の先生みたいなアリシアさんもすっごくカワイイです」

「私が先生? 学校の先生だなんて、そんな柄じゃないと思うけど……」

「そうかなぁ、アリシアさんにはお似合いだと思うんだけどな……ボク、そんな夢を何度も何度も見たことがあるような気がして……夢の中のキミはもちろん、とってもきれいでやさしくて素敵な女の先生で……男子ばかりか女子からも憧れられる学園の花で、でも密かに教え子のボクと恋をしていて……ボクからいつもエッチなことをされて悩ましそうにしているのは、ボクが口を使うのが好きで先生のアソコをペロペロしたがるからなんです……」

 それをたった今、経験させられたばかりのアリシアは、はにかんで彼のまっすぐな眼差しから逃れた。

 そう、アキトはお口を使うのが大好きなのだ。使われることは頑なに拒絶するのに。自分にはクンニリングスどころか、全身を舐ろうとする。

 そんなところまで知られたくない、と思うと、彼はすぐにそれを察して逆にそこを詳らかにしようとしてくるのだからたまらない。

 そしてそんな彼に自分は夢中になっているのだった。

「ねぇ、アリシアさん、今度はお泊まりデートしませんか? 先生と生徒になって」

 少し変わった提案だったが、

「ええ――」

 一も二もなく、すぐにアリシアは頷いていた。

「でもどうするの? お泊まりだなんて……またあのホテル?」

 変装して利用したメストレでのことが過(よぎ)ったが、同じ手が二度、通用するかしら、とも思うのだ。

「ちょっといいことを思いついたから――」

 そういうアキトは、またなんだかイケナイ顔をしていた。

「もう、また変なことを考えているのね……」

「別におかしなことじゃありませんよ。ただキミをたっぷり可愛がりたいだけだから。今日みたいにたった十五分ぐらいじゃボクはぜんぜん抱き足りない……だってオッパイだって見せてもらってないし」

「いいわよ、旦那さまになら見せてあげても……」

 アリシアも調子を合わせて悪戯っぽい笑顔を向けて恋人を誘った。

「ホント?」

 少年は表情を綻ばせている。

 けれども彼女が白いブラウスのボタンに指をかけようとした時、少し離れた書庫の扉が開く音がして、一瞬で真顔になった二人は同じように唇に人差し指をあてて顔を見合わせるのだった。

 アキトはすかさず靴を脱いだかと思うと、軽く会釈をしただけですぐにその場から立ち去ってしまう。

 アリシアの別れの挨拶も待たずに――。

 でもそれが最善の判断であるのは、誰かの足音がこちらに向かって近づいてきたことですぐに明らかになった。

 一方、アキトはケット・シーというファンレターのニックネームさながらに、猫のように足音を立てずに遠ざかり、すでにすっかり気配を消していて、アリシアも自身の着衣の乱れを整え、潤んでいた目元を拭うと、そこを離れるのだった。

 通路を歩いていると、

「あら、アリシアさん、調べ物ですか?」

 やってきたのは四十代半ばぐらいの女性の司書だった。

「ええ、学校が始まる前に、できるだけ準備をしておこうと思って」

 あんなことをしていた後で、自分でもよくそんな素知らぬ顔ができると思いながら、でもアキトに逢う前はそのつもりで来ていたのだから、まんざら嘘をついているというわけでもないと自分で自分に言い訳をする。

「偉いですねぇ、ウンディーネを続けながら、協会の理事のお仕事もされて、その上、学業にも勤しまれるなんて」

「虻蜂取らずにならないように、皆様にご迷惑をおかけしないようにしないといけないので……しっかりしないと……」

「でも良かったわ、アリシアさんが引退しないとわかって」

「ありがとうございます……みなさまからそう言っていただけると、本当に嬉しいです」

 今のアリシアの立場は、アリアカンパニーの経営を灯里に委譲して、自身は会社所属の一人のウンディーネだった。協会の理事として、そして学生としての学業の合間に、パートタイムで仕事を続けることになっている。

 グランマと灯里、それに藍華とアリスを交えた五人で、今後のアリアカンパニーのあり方について相談した結果、アリアカンパニーは秋乃が発足させて以来の伝統であった一人プリマ体制をついに改めて、アリシアは退職をしなくても済むことになり、こうした形でウンディーネを継続できることになったのだった。

 いきなり経営を任されただけでなく、それまで上長であった年上の使用人の管理までもしなくてはならない灯里は、一人で気ままに会社を運営するよりも格段に負担が大きくなるはずなのだが、それなのに少女は快諾してくれたのだ。

 そこには藍華やアリスの意見も大いに助けになって、こうしたことを受けて、過日のアリシアの海上でのスピーチでは現役継続を訴えることができたのだった。

 アリシアの引退の取りやめは人々からは大歓迎をもって迎えられて、これまで通りに、アリアカンパニーの制服に身を包んだ彼女がゴンドラの上に居るのを人々は満足げに見守り、彼女には行く先々で励ましと感謝の声がかけられていたのである。

 午後はシエスタの間は会社のデスクで勉強をして、夕方、ひとつ入っている予約のお客様に対応する予定になっていた。

 図書館を出たアリシアは、未練がましいと思いながらも名残惜しげに一度だけ広場をぐるりと見回してアキトの姿を追い求めたが、彼はもうどこにもなくて、切ないため息をひとつつくと会社への道を戻っていくのだった。

 

 

 




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