部屋の外、廊下のほうからうなるような低音がかすかに聞こえる。さっき起動させた乾燥機の音だろう。
二度寝特有のふわふわした感じがして、この音が現実なのか夢で鳴っているのかが曖昧だ。
——お兄ちゃん、まくら。
——ん……大好き。
今より小さい、中学生の頃の夕月が俺の腕を枕にしてしがみついてきたときのことを思い出す。
さすがに毎日ではなかったが、親が両方とも留守のときは決まって俺のベッドに潜りこんできた。ふてぶてしく俺の腕枕を催促し、そして寝落ちする寸前にポツリと甘えてくる。
兄べったりだった小学校の頃と変わらぬ姿に、俺も兄心が刺激されて一晩中腕を差し出していた。おかげで腕が慢性的に痺れるようになったが、多少筋トレをするようになったらいつの間にか治っていた。
ネットで調べたらハネムーン症候群というらしい。名称が恥ずかし過ぎるので、腕の痺れのことは夕月には内緒にしておいた。
母親が家を出ていったのはそれからしばらくのこと。夕月が中1、俺が中3のときだった。半年後には親父も出ていき、それから俺たちはほぼ毎日一緒に寝ることになる。腕がすっかり妹の頭の重さを覚えてしまい、たまに一人で寝ると二の腕や肩が軽すぎて逆に違和感があるくらいだ。
「お兄ちゃん起きてる?」
「起きてるよ、ほら」
言われる前に体をどかして夕月のスペースを作る。
「ん、なんかコワい話思い出しちゃって」
「そっか、なら仕方ないな」
「うん」
毎度毎度なにかしらの理由を付けてくる妹が面白い。別に理由なんかなくても布団に入れるのにと思いつつ、口実がないとおかしい年齢なのだと思い直す。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「私、家計簿つけようかな」
「家計簿?」
「うん、だって二人暮らしだし、必要でしょ?」
「まあ……そっか。でも、できんの?」
「さっきスマホで簡単そうなアプリ見つけた」
「そっか。夕月がやってくれるなら助かるな」
「でしょ、ふふ」
素直に喜ぶ妹が可愛くて、無性に頭を撫でたくなる。というか撫でた。
「もう寝な」
「うん……お兄ちゃん」
「ん?」
「うで」
「うで?」
「うでかしてー」
「へいへい」
もぞもぞと動いて手を伸ばすと、夕月が頭を上げてトスンと遠慮なく枕にする。お決まりのやり取りだ。
「お兄ちゃんの腕って、まくらっぽいよね」
「なんだそれ」
彼女のほうを向くと、今より短い茶色髪の美少女もこちらを向いていた。鼻先で目が合いドキリとする。思えばこのときが、夕月を女の子としてはっきり意識した最初だったかもしれない。
「夕月ってキレーな顔してるよな」
「そ? 私、きれい?」
「それなんだっけ、怪談の」
「口裂け女。きれいって言わないと口切り裂いちゃうんだよ」
「そうなんだっけ。たしか変な呪文唱えると助かるんだろ」
「ポマ、ポマー……ポマなんとか」
「それそれ」
「ポマってどういう意味?」
「さあ、なんか呪いの言葉的なやつじゃね」
「お兄ちゃん知らないんだ」
「俺だって知らないことあるよ、そりゃ」
「へー」
夕月の返事が適当になってくる。声のトーンもさらに低くなり、あと数秒で寝落ちするんだろうなというのが分かる。
「お兄ちゃん」
「なに夕月」
「大好き」
「俺もだよ」
「ん……」
しがみついてきていた夕月の手がぎゅっと握られ、しばらくするとすぅすぅと小さい寝息を立て始める。そうしてやっと俺も眠りについた。
素直に好きを伝えあう寝落ち前のやり取りは、夕月が中3、俺が高2の夏くらいまで続いていた気がする。
その日の夜も、夕月はソファーにぼけっと座り、俺もその隣でぼーっとくつろいでいた。テレビ画面には恋愛ドラマが流れていて、妹がそれを熱心に観ている。
教師と生徒の禁断愛がテーマで、シリーズも佳境を迎えていた。女子生徒役のヒロインが「大好き」だと告白をし、教師役が「愛してるよ」だのなんだの言って二人が熱いキスをする。
妹はドラマをじっと観ながら、ローテーブルに置いてあるポテチの袋に手を伸ばし、一枚取ってパリっと食べた。しかし視線をテレビに固定しているせいか、ポテチの欠片を一つ二つと胸元に落としている。……すっかり実ってきた、白い谷間に。
(う……こいつ)
非常に行儀が悪いので注意したいが、注意の仕方が難しい。夕月は中3になってもう出るとこが出て大人びた体つきなのに、昔と変わらず夏はタンクトップにショートパンツという無防備な格好だった。
白い太ももはまぶしいし、胸元は覗き込まなくても刺激的な谷間が見えてしまう。おまけに家ではノーブラなので歩いたり動いたりするたびにおっぱいが揺れ、たまに小さい突起が布越しに浮き出ているときもある。兄とはいえ、多感な高校2年生男子には目の毒すぎた。
しかも今や中学では男女問わず知らない者がいないほどの美少女だ。昔から人形のように綺麗な顔立ちだとは思っていたが、こんなに可愛くなるなんて思ってもみなかった。
うちは私立の中高一貫校なので、彼女の噂は俺のいる高等部にも漏れ伝わってきている。中等部では告白されまくっているらしく、高等部の中にも玉砕した奴がいるとかなんとか。文化祭や体育祭には他校から夕月目当ての客が来るとかいう、嘘くさい噂も聞いたことがある。
そんな美少女が、エロい格好でポテチをパリパリ頬張っていた。しかも昔と変わらない距離の近さで太ももをくっつけてきているし、肩も密着してなんなら寄っかかってきているのだ。相手が妹でも、ドキドキしてしまうのは男として仕方がないだろう。
(試されてる気がする……無駄に)
俺は小さくため息をつくと、説教兄モードの声色でつぶやいた。
「夕月、ポテチ食べるかドラマ観るかどっちかにしろ」
「ん、ごめんちょっと静かにしてて」
いつになくぶっきらぼうな返事だ。それほどこのドラマに夢中になっているのだろう。恋愛ものはあまり興味ないと言っていたのに珍しい。夕月も年ごろということか。だがそれと行儀は関係ない。
「夕月、こぼしてんぞ」
「こぼしてないよ」
「こぼしてる。よく見てみろ」
「見えない。お兄ちゃん取ってー」
普通の兄だったらこの妹め、とか思うのだろうが、俺は妹の世話をするという本能が染みついているせいか少しも生意気に感じない。
それに最近は学校や外でどうも気を張っているというか、しっかり者であろうと努めている感じがするので、家の中くらいはこういう気の抜けた姿でいさせてやりたいとも思う。だがそれと、俺が夕月の胸元のポテチを拾うのは別問題だ。
「ったく」
呆れたフリをしながら白い谷間にかろうじて引っかかっているポテチの欠片に手を伸ばす。案の定、指先がふにゅと柔らかいものに触れてしまった。
「あーすまん」
まったく気にしてないぞという感じで軽く謝り、拾った欠片を食べる。幸いなことに妹も気にしていないようで「んー」と適当な返事をしただけだった。
やっとドラマが終わり、妹が音程を外しながらエンディング曲を口ずさみ始める。CMに入るとおもむろにこっちを向いた。
「お兄ちゃんって彼女作らないの?」
恋愛ドラマに影響された思春期女子の残酷な質問がキツい。高2になっても女子と手をつないだことすらない俺には、どう返事をするのが正解なのかも分からなかった。なので事実だけを告げる。
「家事とか忙しいし、そもそもできる気配すらないな」
「ふうん、そうなんだ」
「夕月は?」
「私は、あんま興味ない」
「へー」
年ごろの兄妹で恋愛トークというのはなんとも気まずいものがある。というか風呂に入りたい。さっきから夕月のせいで体温が上昇しているし、おっぱいタッチ事故のせいで変な汗もかいたし。
「ちょっと風呂入ってくるわ」
「え、待って。次観たい番組あるから一緒に観よ?」
夕月がむぎゅっと俺の腕にしがみついてきた。柔らかい谷間に二の腕を挟まれ、その弾力や熱がダイレクトに伝わってくる。これはマズい。非常にマズい。男の生理的な現象が股間で始まってしまう。
「いや、俺ちょっと汗かいてるし」
「いいじゃん、家だよここ?」
「家とかそういう問題じゃ……っていうか汗臭いだろ」
「お兄ちゃんて汗くさいのかな?」
「いやそれは、自分じゃあんま分からんけどさ」
「別に、お兄ちゃんくさくないよ」
「お前一緒にテレビ観たいだけだろ」
「ん、ポテチ食べる?」
夕月が何食わぬ顔でポテチの袋から一枚取って差し出してきたので、パクリと口にはさむ。彼女も一枚取り出して口に運んだ。薄くて綺麗な唇が油でテカっているのが妙にエロい。
「はい、お兄ちゃん残り食べる?」
「ああ」
妹がいつものように、空になったポテチの袋を渡してくる。俺は袋を逆さにしてポテチのクズを口に入れた。
「お兄ちゃんこぼれてる。ソファーに落とさないでよ」
「お前がいうなよ」
「ん」
夕月がソファーに落ちたポテチのくずを拾い、俺の口へ押し付けてくる。食べろということなのだろうが、そうすると否が応でも細い指先に口がついてしまうのだが。
案の定、くずを口にした瞬間彼女の指も唇ではさんでしまった。すると夕月がじいっと俺の口元を見つめてくる。
「……夕月、なに」
「んーん、なんでもない」
やっぱり中学3年生女子の考えていることは分からない。
そのあと俺たちは都市伝説系の番組を観て、俺はしっかりシャワーを浴び、いつものように二人でベッドに潜った。
「お兄ちゃん、ねむっ……」
よほど眠いのか今日は理由にすらなっていない理由だった。
「もう11時半だしな、さっさと寝るぞ」
「んー」
「おやすみ夕月」
「おやすみ……ねぇお兄ちゃん」
「ん?」
「お兄ちゃんも好きな人となら、チューとかハグとかしたい?」
まださっきの恋愛ドラマを引きずっているのだろうか。それにしてもいまいち要領を得ない質問だ。
「そりゃ―好きな人とならしたいもんだろ、普通」
「じゃあチューとかハグとかしたいのって、好きってことなのかな」
「ん? だから普通そうなんだろ」
「さわられても嫌じゃないって思うのは?」
「それもまあ、好きってことなんじゃね。知らんけど」
「お兄ちゃんもそう?」
「まあ、多分」
「ふうん」
「ほれさっさと寝ろ」
「ん……」
妹が俺の腕を枕にし、ごそごそと動いてひっついてくる。薄いタンクトップ越しにむにゅっとした胸の感触が当たる。いつもより密着度が強い気がするが、それは俺がさっきの件で夕月のおっぱいを意識してしまったからかもしれない。
どこか色っぽい吐息や漂ってくる甘い香りに意識が向いてしまうのも、そのせいだろう。
「お兄ちゃん、ヨシヨシしてみてー」
「へいへい」
要望どおり頭を撫で、ついでにもみもみとマッサージをする。片手でがっしりつかめるほど妹の頭は小さかった。
「あー、気持ちいい」
「お客さん凝ってますねー」
「頭って凝るの?」
「難しいこと考えてると凝るぞ、多分」
「じゃーお兄ちゃんはふにゃふにゃだね、頭」
「お前もな」
マッサージの力を弱め、優しく撫でていると夕月の呼吸がスローになっていく。あと1分もしないうちに寝落ちするのだろう。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「……おやすみ」
「ああ、おやすみ夕月」
今までにも増してぎゅうとくっついてきた妹が、静かに寝息を立て始める。
思えばこの日から、夕月は「大好き」を口にしなくなった。
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