書籍版1巻の書き下ろし「修学旅行編」の一部を改稿したものをお届けし、そのまま「文化祭編」も掲載していきますので、ぜひぜひお付き合いいただけると嬉しいです。
ピコンという着信音で目が覚めた。おそらく夕月からのメールだ。
いつもは二度寝をするとこのくらいでは絶対起きないのに、大事な妹が初めて二泊三日の修学旅行に行っているからだろう。鋭敏な兄センサーが反応したのだ。
窓から差し込む光の感じから見て、今は昼すぎ。
朝早くに夕月が家を出ていってから、もう半日くらい経っている。
今ごろは観光地をめぐっている頃だろうか。
起き抜けの目をこすりながらスマホを見れば、案の定、夕月が鳥居の延々と続いている画像を送ってきていた。
「これが伏見稲荷か……」
あくびをしながら続きを待つと、すぐに2通目のメールがきた。
『お兄ちゃん起きてる? お土産なにがいい?』
『起きてるよ。なんでもいい』
さもずっと起きてましたよ、みたいな返信をしてみる。
だがあの勘のいい妹には俺が寝起きだということがバレているだろう。
『食べる系と記念もの系どっちがいい?』
『記念もの系ってなに。じゃあ食べ物』
『お饅頭とか?』
『お饅頭かー』
『じゃあ味噌』
『味噌いいじゃん。京都風味噌汁ってうまそう』
『キーホルダーとかいる?』
『うーん、いらんかも』
『ん』
ここまでやり取りをすれば、俺には夕月の異変が分かってしまう。
とりとめのない用事を装っているが妙に会話を引き延ばそうとする。こういうときの妹はすごく困っているか、めちゃくちゃ困っているかのどちらかだ。
『夕月』
『ん?』
『ちょい電話していい?』
そう返信すると、少し間があいた。俺に見抜かれて動揺している夕月の顔が目に浮かぶ。
俺は妹の思春期特有の感情の機微には疎いが、妹の孤独や悩みを察知する能力には長けている自信がある。ダテに何年も二人暮らしをしていない。
『いいけど』
素っ気ないふうを装った返事がきたので、すぐさま電話をする。
すると1コールで夕月が出た。
『もしもし? お兄ちゃんどうしたの?』
「あ゛ー、旅行楽しんでるかなと思って」
『楽しいよ。マユも一緒だし』
電話越しだが、妹が無理をしているのは伝わってきた。それもけっこうな無理だ。
「……ならいいけど。なんかあったら連絡しろよ」
『なんかあったらね。お兄ちゃんこそ平気?』
「妹に心配されるほど落ちぶれてはないな」
『なにそれ』
「このあとはどこ行くんだ?」
『え、なんかキモ……。あとはお土産買ってホテル戻るだけだよ』
キモいと言われてしまった。
確かに妹の行動パターンを把握しようとする兄はキモいかもしれない。だがむしろ兄だからギリギリ許される行為でもある。
「そうか。大丈夫そうか?」
『うん、べつに……ただの修学旅行だし』
クールに強がっているような口ぶりだが、声色のほうはずいぶんと弱気だ。普段はもうちょっと素っ気ない感じで隠そうとするのだが、そんな余裕もないらしい。
「もし寂しくなったらいつでもメールしろな」
『……うん、そうする』
「素直だな」
『なんかその言い方キモいかも。でもうん……ありがと』
「ん」
ちょっとおちょくってみたが、やはりいつもの夕月より憎まれ口が弱々しい。健気にお礼を言うその声が、昔、体調を崩した妹を小学校まで迎えに行ったときの様子と重なる。
『ん、じゃね、お兄ちゃん』
「ああ、じゃあまた明日、いや
『うん、明後日』
「ああ、じゃな」
『うん……』
まるでもう会えないといわんばかりの声色に、胸をぎゅっと締め付けられる。敏感な兄センサーが大音量で警告を発している。つい大きなため息がこぼれてしまう。
「……ちゃんとお留守番しててね、じゃないだろ」
得意げな顔をして家を出て行ったくせに、たった数時間でこの有り様かよ。
あんな声を聞いてしまっては、俺はもうだめだ。
妹を思う兄性本能に火が付き、おまけに最愛の女の子を守らなくてはという衝動にも点火してしまう。本当に厄介だ。
俺はリュックに適当な荷物を放り込むと、急ぎ足で家を出た。
◇
数時間前に夕月も見たかもしれない風景を、ぼうっと眺める。
新幹線の車窓を流れる景色は、思いのほか退屈だった。
きっと夕月と一緒なら全然印象も違うのだろう。
「にしても、さすがにドン引きされるかなぁ……」
妹の修学旅行先にこっそり向かう兄。キモすぎる。やってることはストーカーだ。もしくは妹に執着する危ない兄貴。
……いや、執着しているのは間違いないか。現に溺愛しているわけだし。
まあホテルの近くまで行って、もし妹からのSOSがあったら迎えに行けばいいし、無ければ先に帰って何食わぬ顔で、帰宅する夕月を迎えればいい。
あくまで彼女が耐えられなくなった場合の、これは保険だ。
それにもう一つ、身体的な心配もある。
アフターピルには人によっては体調不良になったりする副作用があるらしいのだ。
服用するかどうかは夕月に委ねたので実際には分からないが、もし飲んでいたとして、それで体調を崩してしまったとしたら、全責任は中出しをした俺にある。
ただでさえ学校ではクールで社交的な優等生の仮面を被っている妹だ。それを二泊三日も演じ続けるのはキツいだろう。それだけでも体にこたえるはずだ。
そもそも俺たちは二人暮らしなんだし、過度に心配性になるのは当たり前だ。
そんなふうに葛藤したり自分に言い聞かせたりを繰り返しているうちに、新幹線は京都駅に着いてしまった。
だだっ広い駅ビル内をさまよいながら、スマホの時計を見れば午後5時。
夕月からの連絡はなし。その事実に安心している自分がいた。このまま連絡がなければいいと思う。
京都駅の近くでレンタカーを借り、一応、夕月たちが宿泊するホテルへと向かう。こういうときのために通いで免許を取っておいてよかった。
慣れない運転を慣らしながら、1時間くらいかけてホテルへの道を走った。
たどり着いたホテルは、和風旅館っぽい外観だった。
うん、すごく修学旅行っぽい。
(そういや俺も修学旅行って、実は行ったことないんだよな)
母親がいなくなり、親父が家を出ていき、そんなこんなで家がバタバタしていたので、一泊二日ならまだしも二泊三日の修学旅行なんて行ける状況じゃなかった。
高校に上がってからも、あの誰もいない家に夕月を何日も置いていくなんて考えられなかったし。
なんて物思いにふけりながら、窓明かりの漏れるホテルを眺める。
今ごろあの中では、学生たちが部屋で王様ゲームをしたり、男女が告白し合ったりしているのだろうか。
ホテルの外周をぐるっと回り、広めの駐車場に車を停める。
エンジンを切って黙っていると、いよいよストーカーじみてくる。
もし学校の先生に見つかりでもしたら、なんて言い訳をしよう。
妹が心配で近くまで来ちゃいました、では済まない気がする。いや絶対済まない。下手をしたら夕月にまで軽蔑されてしまうかもしれない。それだけは本当に勘弁だ。兄としても男としても。
「夜になったら、どっかホテル泊まるか」
幸いこのあたりは宿泊スポットらしく、ネットで調べてみると近場にいくつか空いていそうなところがあった。
あまりに暇すぎるので、少し遠いところまで範囲を広げ、空いているホテルを探す。
意味もなく宿泊プランや夕食のメニューなんかを見ていると、スマホがピコンと音を鳴らした。
『お兄ちゃん』
夕月からのメールだ。
驚きはあまりない。なんとなく、そろそろ妹からのSOSが来そうだという予感があった。
『どした?』
返信をすると、一秒も経たず2通目のメールが届く。
『迎えにきてー』
ぶっきらぼうな文面に吹き出してしまった。ついこの前、家の洗面所で脱がせて~とお願いしてきたときの口調が脳裏によみがえる。
即座に『いいよ』と打ちこんでから、『一応ホテルの駐車場にいるけど、どうする?』ともう来てしまっていることを知らせてみた。
既読になったものの、返信がない。
さすがの夕月もこの兄の行動にはびっくりしていることだろう。
ふぅ、と覚悟を決めてから車を降りる。
ホテルの入口に近づくと、ちょうどロビーを走ってくる女の子が見えた。自動扉が開き、目を見開いた美少女が立ち止まる。
(……いやいや、可愛いにもほどがあるだろ)
夕月はぴったりとした七分袖の紺色シャツに、下は黒地にシャカシャカジャージというシンプルな格好だった。家での部屋着やパジャマとも違うが無難な装い——そう彼女は勘違いしているだろうコーディネートだ。
実際には無難とは程遠い。
暗めの色合いは夕月の白い肌や異常に整った顔立ちを引き立たせてしまっているし、ぴったりと体に張り付いたシャツは形のいいバストや、細い腰回りやら、見事なプロポーションをこれでもかと強調している。
シャツは襟元が広く首まわりのデコルテがあらわで、綺麗に浮き出た鎖骨も見えている。おまけに風呂上がりなのか頬はほんのり火照っているし、なによりいつもは結んでいる髪が解かれ、茶色がかった長髪が夜のそよ風に揺れている。
普段から兄でも見惚れてしまう美貌と色香が、今は十割増しくらいになっていた。
そんな美少女に後光が差している。
実際にはホテルの灯りが逆光になっているだけなのだが、俺には現実離れした天使か天女の類いに見えた。
いったいこの妹はどこまで兄を魅了すれば気が済むのだろう。
「……お兄ちゃん、なんでいるの」
テンションの低いいつもの妹ボイスで、はっと我に返る。
さて、どう説明したものか。
「いや、まー……保険?」
「保険?」
聞き返してくるその声に軽蔑的なものは含まれていない。
「夕月が帰りたいってなったときの保険な。ほら、さっき電話したときお前、ちょっとおかしかっただろ。体調でも悪いんかと思ってな」
「だからって来たの? 京都まで」
信じられないという口調の割に、声色は温かかった。いつも甘えてくるときと同じトーンであることに、ほっと胸を撫で下ろす。
「まあ兄として、な」
夕月に歩み寄りながら、この行動が間違っていなかったと確信する。
「……なにそれ」
その証拠に言葉を詰まらせた妹が、潤んだ瞳でキッと睨みつけてきた。夕月がとんでもなく甘えてくる前に必ずする表情だ。
胸の前でスマホを握り締めた手が、少し震えている。今にも俺の胸元へ突っ込んできそうな感じだ。俺も思わず抱き寄せたくなるが、ここはホテルの入口だということを思い出し、寸前でこらえる。
「取り越し苦労だったら別にいいんだけどな。俺は帰るだけだし」
「帰っちゃうの……?」
夕月が絶望に沈んでしまいそうな声でつぶやく。いつもは勝ち気な眉がハの字になってしまった。俺の照れ隠しの言葉を本気にしてしまったらしい。
この状況で帰るわけがないのに、妹はたまに冗談を真に受けてしまうところがある。そんなところも愛おしく感じてしまう俺は、兄として相当変態の部類な気がする。
「それとも、一緒に帰るか?」
「……うん、お家帰りたい」
だからそんな甘え声で言うのはやめてほしい。兄としても男としても本能が刺激されて抑えがきかなくなってしまう。
「了解。じゃあ帰り支度して……あーその前に先生を呼んできてくれるか?」
「うん、呼んでくるからお兄ちゃんそこで待っててね」
「へいへい」
どこにも行くわけないだろと心の中でツッコミを入れつつ、俺は小走りで戻っていく夕月の後ろ姿を見つめていた。
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