夜、俺はキッチンで
風呂上がりに飲むと寝つきがよくなる。最近二人してハマっているので、そろそろ夕月が飲みにくるだろうと思ったのだ。
やかんのお湯が沸いてきたので火を止める。あとは適温まで自然に冷ますだけだ。
さっきまで夕月とマユちゃんがいたリビングを眺め、ふっと息をつく。
けっこう、いやかなり充実した一日だった気がする。
白湯が冷めるのを待っていると、今日のことが脳裏によみがえってきた——。
——昼過ぎ、ラーメン屋を出てバスに乗り、一番後ろの席に三人並んで座ってからも、彼女たちは楽しそうに話していた。
明るく元気なマユちゃんの影響なのか、妹も彼女にしては口数が多く、よく笑顔を見せた。その横顔につられて俺も何度か顔がゆるみそうになった。
スーパーで夕飯の食材を買ったあと、家の近くのコンビニに寄り、マユちゃんの歯ブラシやらお菓子やらジュースやらを買う。もちろん当たり前のように俺が代金を払った。これぞ面倒見のいい友だちのお兄ちゃんムーブだ。
家までの帰り道、大量の荷物を両手にぶら下げながら、前を歩く彼女たちの後ろ姿を眺める。
マユちゃんが振り向き「私も持ちますよ~っ」と申し訳なさそうに言うので「いいよいいよ」と爽やかに断る。
夕月も振り向き「お兄ちゃん引っ越しバイトで慣れてるもんね」と片眉を上げる。まるで召使いを見るお嬢様みたいな表情だ。
俺と二人でいるときよりも小生意気さに磨きが掛かっているのが面白い。
でも頻繁にちらちらこっちを横目でうかがってくるのは、いつもの妹だった。
マンションのエントランスに入ると、俺はいつものように郵便ボックスを確認してからエレベーターへ向かう。
そこには、律儀に停止ボタンを押して待っている夕月がいた。五分五分の確率で先に行ってしまうかと思っていたが。
「今日は競争しないのか」
早足で乗り込み、からかうように言ってみる。
「だってお兄ちゃん荷物多いじゃん」
「荷物少なかったらやってたのか」
「やらないでしょ。子どもじゃないし」
「そうだな」
すまし顔で見栄を張る妹が面白い。笑いそうになるが、これ以上マユの前で余計なこと言わないでねと顔に書いてあったので、階数表示に視線を移す。
俺たち兄妹のやり取りにニコニコ顔を浮かべているマユちゃんを、玄関に招き入れる。
「いらっしゃいマユちゃん」
「はいっ、お邪魔します!」
「お兄ちゃんただいま」
「ああ、おかえり夕月」
いつものように二人で軽く口角を上げてから、ドアを閉める。
食材を冷蔵庫に入れ終わると、さっそく夕月にリビングを追い出された。
「マユとゲームするから、お兄ちゃんは部屋行ってて」
「あいよー」
もとよりリビングは二人に明け渡すつもりだったので、そそくさと寝室へ向かう。
午後の昼寝タイムを満喫しようと思ったが、リビングから妹たちの盛り上がる声が聞こえてきてなかなか寝られない。
鬱陶しくはない。むしろ心が温かくなる。いつもより賑やかで、なんだかすごく普通の家っぽい。
(けっこう声漏れるんだな)
興奮している声だけでなく、なにげない談笑すらもボソボソと聞こえてくる。
ということはつまり、俺と夕月がセックスしている声も他の部屋には丸聞こえということだ。
二人暮らしだからできること。
家に親のいる兄妹だったら、一緒に寝たり風呂に入ったり……ましてや結ばれることもなかったのかもしれない。
あらためて二人暮らしでよかった。そう思ってしまう俺は、本当に兄失格だと思う。
夕方になったので、静かにキッチンへ行き、妹たちの邪魔にならないよう存在感を消して夕飯の準備を始める。
彼女たちは新しくダウンロードしたパーティーゲームを楽しんでいた。
もしいつものダンジョンゲームのレベル上げにマユちゃんを付き合わせていたらどうしよう……なんて思っていたが、心配性な兄の取り越し苦労だったようだ。
三人で仲良く兄特製シチューを食べる。
四人掛けのテーブルは二人しか座れないので、マユちゃんは急ごしらえのお誕生日席に座ってもらった。
「美味しいです!」
「具、いつもより小さくない?」
対照的なリアクションに苦笑しつつ、皿洗いを手伝うというマユちゃんの申し出を丁重に断り、さっさと食器を片づけて風呂場へ向かう。
浴槽を丹念に洗い、お湯張りボタンを押すと、ドタバタと二人分の足音が夕月の部屋へ向かうのが聞こえた。これからきっと夜の女子会がスタートするのだろう。
あの夕月が女子会かーという感慨深い気持ちと、寝不足気味な妹への心配が交錯する。
夜更かしするなよ~と注意しにいこうと思ったが、口うるさい兄というレッテルを張られる気がしてやめた。
まあ今日くらいはいいかという兄心に落ち着き、その頃にはお湯もいい感じに溜まってきたので、俺は風呂入れーと言いに行った。
「二人とも~、お湯沸いたからお風呂どうぞー」
呼びかけると、ドア越しにマユちゃんの声が返ってくる。
『あっ、はい! ありがとうございますっ!』
「俺は最後に入るけど、気にせず長湯していいからね。あ、もしアレだったら一回お湯抜いちゃっても」
『はーい! 私たちささっと入っちゃいます~!』
「あ、うん。じゃ……」
妙に緊張し、我ながら歯切れの悪い口調になってしまった。
ただでさえ妹の部屋は、俺があまり足を踏み入れない場所だ。今日はそこにお客さんもいる。それがなんだかソワソワしてしまうのだ。
ため息をつきながらリビングへ向かうと、ゲーム機は綺麗に片づけられ、ソファーのクッションも元の位置に戻されている。
いつもの夕月ならわりと放置したままにするから、マユちゃんの前でまたもちゃんとしたところを見せたのだろう。
くすりと笑ってから、ソファーに腰を埋める。
「ふぅ……」
今日はとくに何もしていないが、なんだかどっと疲れた気がする。
しばらくぼんやりテレビを眺めていると、パタパタと夕月とは違うスリッパの足音が近づいてきた。マユちゃんだ。
「あ、お兄さんっ、お疲れさまです」
「ん? ぜんぜん疲れてないよ」
リビングに来るなりマユちゃんがキッチンへ向かう。女子会で出たゴミを捨てに来たらしい。
手伝おうかと腰を浮かすが、さっさと捨て終わったマユちゃんが今度はソファーのほうへ近づいてきた。
「何観てるんですか?」
「あー、べつに。なんかコント番組流れてるね」
「このお笑いコンビ面白いですよねっ、クラスでもけっこー流行ってます」
「へ~、マユちゃんはお笑い好きなの?」
「どっちかっていうと好きかもです。夕月もこの人たち面白いよねって言ってました!」
「へ~」
そう言われるとこのコント番組にも関心が湧いてくる。
夕月はただマユちゃんに話を合わせただけかもしれないが、妹が好きと言ったものに無条件で興味を持つのが兄というものだ。
「……今日はうちに来てくれてありがとね。これからも夕月と遊んでやってよ」
「ふふ、お兄さんてほんと妹思いですよねっ、いいなぁ~仲のいい兄妹ってうらやましいです」
「そう見える?」
「見えますよ~っ、夕月もブラコ……隠してるけどお兄さんのこと大好きっぽいし、あっ、さっきもお兄さんの話で盛り上がったんですよー!」
「へ~」
どんな話をしたのかめちゃくちゃ気になるが、ここは聞かないでおこう。女子のトーク内容に食いつくのは、多分キモい部類の兄だ。
「ていうかお兄さんって付き合ってる人とかいるんですか?」
不意に聞かれてドキリとする。
マユちゃんはいかにも恋バナ好きが興味本位で聞いているという雰囲気だ。そこに裏表は感じられない。
付き合ってる人か。
強いていえば夕月ということになるが、ここで妹だよなんて口が裂けても言えない。一気に妹に手を出す変態兄になってしまう。まあ変態兄ではあるのだが。
「うん、大事な子がいるよ」
「えー! それって彼女さんですよねっ?」
彼女……か。
たしかに夕月とはキスもその先も、それも毎日のようにしているが、恋人かと言われると違う。
そんなものでは言い表せない。妹は——夕月は。
「恋人よりも大事な子、かなー」
「うわぁっ、なんかすごい……!」
「あれ、変なこと言ったかな」
「いえいえっ、ぜんぜんです! やっぱりお兄さんカッコイイ~!」
ふと夕月の言葉がよみがえる。
——マユがね、お兄ちゃんのことカッコイイって。
思わず心の中で苦笑してしまう。こういう意味の格好いいだったのだと合点がいった。
なんならあの妹は俺の反応を見て楽しんでいただけの可能性すらある。
(夕月め)
ただ、どこか安堵している自分がいた。
いい感じのネタバラシを聞いた気分で満足していると、マユちゃんがそろそろ戻りますねと手を後ろで組む。
「ああ、夜更かししないようにね」
「ふふ、はい。……そうだ、パジャマ夕月に借りちゃいました。どうですか?」
どうですかと聞かれても……。というか妙に既視感があると思っていたら、この黄緑色のパジャマ、夕月のだったか。
最近あまり着なくなったし、夕月以外が着ると印象がずいぶん変わるから今の今まで気づかなかった。
「あー、似合ってるんじゃない?」
「え~なんですかそれー!」
まずい。コメントをミスったか。無難に答えたつもりが……もしキモ兄だと思われたら夕月に顔向けができない。
内心で焦っていると、マユちゃんはおやすみなさいと微笑んで廊下へ去っていった。
「……はぁ」
さっきよりも深くソファーに体を沈める。
妹の親友と二人きりで話すというシチュエーションに、情けなくも緊張していたらしい。
この手の緊張は、親の代わりに学校の三者面談へ臨んだとき以来だ。
ぼーっとしていると、トタトタという夕月の足音が洗面所から自分の部屋へ向かうのが聞こえた。妹にしてはかなり入浴時間が短い。
(あれぜったい髪乾ききってないな)
友だちが家に来て浮かれているのだろうか。
俺は白湯を作ってやるかと重い腰を上げ、キッチンへ向かったのだった——。
——などと今日のことを振り返っていたら、そこそこ時間が経っているのに気づく。
やかんのフタを開けると、お湯は適温まで冷めていた。
どうも俺は妹のことを考えていると意識がワープしてしまう。
そろそろ妹がくる気がする。
もしかしたらマユちゃんにも白湯をすすめ、一緒に飲みにくるかもしれない。
「退散するか」
リビングの電気を消し、キッチンも暗くする。廊下から差し込むわずかな灯りだけが広い空間をうっすら照らしていた。
「お兄ちゃん」
「うおっ、びっくりした」
振り返ると、夕月が一人で立っていた。