文化祭最終日までの2日間は、まさに怒涛だった。
開催を前日に控えた土曜日。
夕月は遅くまで学校に残って準備をするというので、駅まで迎えに行った。
時刻は夜の8時過ぎ。
駅の改札からは遊び疲れた若者やら、休日出勤を終えたのだろう会社員たちがぞろぞろ出てくる。
その中に一人、制服姿の美少女が混ざっていた。
改札を出てあたりを見回す前に、俺は声を掛ける。
「夕月おかえり」
「あ、お兄ちゃんただいま」
「カバン持つか?」
「ん。ありがと」
学生カバンを受け取るとずっしりと重みがあった。明日の段取りの資料なんかが入っているのだろう。相変わらず真面目な妹だ。
てっきり疲れているかと思ったが、彼女の足取りはいつもと同じ速さだった。
大通りを曲がり、いつもの路地に入る。
街灯がまばらになったせいか、暗い夜空にいくつもの星が輝いているのが見えた。
思えばこんな遅い時間に二人で外を歩くのは珍しい。
「ずいぶん遅くまで準備してたんだな。お疲れさま」
「学校に泊まり込みで準備する子もいるから、私はまだまだだよ」
「マジか。夕月は今日どんなことしてたんだ?」
「んー、朝から体育館のステージのリハーサルして、音響とか段取りとかチェックして、音楽室でもバンドのステージあるからそっちもリハチェックして、合間にクラスの内装手伝って」
「へぇ」
朝っぱらからすごい働きぶりだ。新装開店前のレストランとかライブイベント前日の準備を彷彿とさせる。
「午後は委員会のミーティングで全体の問題報告したり、当日の運営とか割り振りの最終確認して、クラス行ってカフェがきちんと回るかリハして、そのあと他の出し物の準備も整ってるかチェックして回って、準備がギリギリなところあったから手伝ったりしてた」
「へぇ……」
想像の倍くらい過密なスケジュールだった。
多分俺が実行委員会に入っていたとしても、ここまで忙しくなかっただろう。人当たりのいい夕月だから、いろんな人たちから頼られたり手伝いをお願いされたりするのだ。
きっと彼女は今日、同時発生するタスクで脳みそをパンパンにしながら、それでも涼しい顔で淡々と処理していったのだろう。我が妹ながらそういうところは本当に尊敬する。
「てか、メシはいつ食ったんだ?」
「あ、食ってないや」
夕月が男っぽい言葉遣いで返す。妹はたまに俺の口調につられることがある。でも周りに人がいるときや学校なんかではちゃんとした言葉遣になるからさすがだ。
「おぉ……親子丼作ってあるから家帰ったらたんまり食え」
「わぁーい親子丼。でもこういうときって普通カツ丼とかじゃないの?」
「カツ丼は胃がもたれるからな。翌日のパフォーマンスに影響するだろ」
「パフォーマンス……」
何がおかしかったのか、妹がぷくくと小生意気な含み笑いをする。
「パフォーマンスは大事だぞ」
「それ大学で習った言葉?」
「は? パフォーマンスは大事だろ」
夕月がぷはっと吹き出した。俺がちょっとこじゃれた言葉を使ったのがそんなに面白かったのだろうか。相変わらず妹の笑いのツボは分からない。
「お、コンビニでデザートでも買ってくか?」
ちょうどいつものコンビニが見えてきたので聞いてみる。
「んー……いいや、太るし」
「そっか」
「糖分の摂りすぎも明日のパフォーマンスに影響するんじゃない?」
「疲れた脳に糖分が沁みていいだろ?」
我ながらさっきと言っていることが正反対だが、頑張っている妹に何かご褒美を与えたくなるのが兄の
夕月は歩きながらコンビニの灯りに目を細めるも、ふいっと視線を外した。
「でもやっぱいい。今デザート食べたら気が抜けちゃいそうだし。そんなに疲れてないし」
「そうか」
二人でコンビニの前を通り過ぎる。
あとはもう住宅しかないので、一段と星空が綺麗に見えた。
「明日晴れそうでよかったな」
「うん。二日間とも快晴」
「さすがチェック済みか」
「うん。……あ、そういえば来月に流星群くるんだって。テレビで言ってた」
「へ~、流星群か」
「うちのベランダから見えるかな」
「あとで方角調べとくわ」
「ん」
ふと、夕月と二人並んでベランダから流星群を眺める光景が思い浮かぶ。
きっと星が流れるたびに妹は子どもみたいに興奮するのだろう。いや、もう子どもじゃないからすました顔で大人ぶって静かに眺めるのかもしれない。
どちらにしても微笑ましい光景だ。
「てか星が流れっぱなしなら願いごとも願い放題だな」
「だね。お兄ちゃん何お願いする?」
「とりあえず1億円」
「とりあえずなんだ」
夕月が呆れたように微笑む。
多分俺はまず妹の健康と将来について願うだろう。そして今は、妹と一生一緒にいられますようにと堂々願うはずだ。
「そういう夕月は何を願うんだ?」
「んー、文化祭が成功しますようにとか?」
「その頃には文化祭とっくに過ぎてるだろ」
「じゃー推薦取れますように」
「いいな。俺もついでにそれ願っとくわ」
「ついでなの?」
妹がむっとした感じで微笑む。
なんとなく、彼女も俺と同じことを願うんだろうなと思った。二人でずっと一緒にいられますようにと。
お互い言葉にはしないが、お互いが同じことを思っている。それをお互いなんとなく分かっている。そんな気がした。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「やっぱりつかれたー」
そう言って夕月が立ち止まる。
おそらくそんなに疲れてはいない。さっき彼女自身もそう言っていたし。
眉を上げ、口角も上げている表情から察するに、何かイタズラめいたことを企んでいるのだろう。脳内の妹フォルダから過去の記憶を引っ張り出し、彼女の要求を推察する。
「……おんぶか?」
「してくれるの?」
「してほしいんだろ」
「うん」
はぁ、とうんざりする兄を装ってからしゃがみ込む。
「ほれ」
「わーい」
妹が勢いよく背中に被さってくる。
それとなくあたりを見回すが、当然のごとく人の姿はなかった。でなければ夕月もおんぶをせがんだりしてこない。
後ろに両手を回し、スカート越しに太ももとお尻をつかむ。短いスカートじゃなくてよかった。
そのままよいせと立ち上がる。相変わらず軽い。だけど確かな妹の重みを感じる。
彼女は体の力を抜き、俺の背中でリラックスしていた。兄に気を許しきっているのが分かり、それがほんのり嬉しい。
「ちゃんと掴まってろよ」
「うん、落とさないでね」
「落とすわけないだろ」
軽く夕月を弾ませて背負い直すと、彼女も俺の両肩をぐっとつかんだ。
一瞬、背中に柔らかい胸の感触を予感してしまったが、妹は間に腕を挟んでいるようで、肘のゴツっとした感触が伝わってきた。ツボ押しマッサージみたいで、これはこれで気持ちいい。
外にも関わらず甘えてきた妹だが、外だからこそ分別をわきまえているのだろう。
背中に愛おしい温もりを感じながら歩いていると、子どもの頃に戻ったみたいだ。
昔はことあるごとにおんぶをねだられ、年を経るにつれ気恥ずかしくなったのか、やがてクイズやらなぞなぞやらの罰ゲームでせがまれるようになった。
俺もそれが分かっていたので、よくわざと負けてやったのを思い出す。そのたび夕月は本当に嬉しそうな顔をしていたっけ。
「お兄ちゃん、もっと早く歩いてみて」
「はいよー」
早歩きどころかちょっと小走りをしてみる。
夕月が「わ」と楽しげな声を上げた。きっと背中で、あの頃と同じような顔をしているのだろう。
いい年をした男女が何をはしゃいでいるんだと思うが、きっと傍から見たら今の俺たちは仲のいい兄妹にしか見えないはずだ。
まさか恋人以上のことを家でしているなんて、微塵も思われない。
それくらい俺の中から夕月に対するいやらしい欲求は消え去っていた。
ただ、愛くるしくて可愛い妹。
毎日のように体を重ねていたここ最近がまぼろしだったような気さえしてくる。
もしこれから夕月と永遠にセックスができなくても、別に構わない。
ずっと一緒にいることには変わりないのだから。
数分でマンションに到着し、エントランスで夕月を降ろし、案の定先に行ってしまったエレベーターを追って階段を全力疾走し、息を切らせながら家に入る。
さっそく妹に親子丼を振る舞い、彼女は具だけをおかわりした。塩分とたんぱく質の摂り過ぎだと小言を言いたくなったがぐっと我慢し、さっさと食べ終えた夕月の皿を洗う。
彼女はすぐにノーパソを開き、当日の段取りやら仕事の割り振りなんかを確認し始める。
その丸まった背中を見ながら、俺はまだ到来していない流星群に文化祭の成功を祈った。
◇
明けて、文化祭初日の日曜日。
早朝に家を出た妹が帰ってきたのは、これまた遅い時間だった。昨日と同じく迎えに行こうと思ったが、先生が実行委員たちを家々まで送り届けてくれた。
マンションの外まで出迎えると、昨日とは打って変わって夕月はくたびれた様子だった。
疲れのにじんだ目元。
だけどすっきりとした表情。
まだ明日もあるからと自分を律する口元。
学校行事のたびに夕月はこういう顔をする。
それを見ると俺は体が心配になり、同時に応援したくなる。懸命に取り組んでいる妹を見て胸が熱くならない兄なんて、この世にいない。
送り届けてくれた先生によると、妹は実行委員会とクラスの実行委員の他に、なんとクラスの会計責任者まで担っているらしかった。
凄まじいマルチタスクだ。生徒会長にでもなるつもりなのだろうか。
生徒会長なんて正直顔すら覚えていないほど俺の中では影の薄い存在だったが、もし夕月が目指すなら全力でサポートしたい。
なんてことを考えていたら、先生に「お前はいつもぼーっとしてんな」「少しは妹を見習え」と注意された。それを言われると反論できない。
学校行事なんてまともに取り組んだ記憶のない俺からすれば、「内申ほしいから」という理由だとしても関わった一つ一つに手を抜かず、真面目に取り組む夕月は本当にすごい。
いつものように気の抜けた感じで夕飯を食べる背中も、昨日とは違ってどこか緊張感が漂っていた。
彼女は早々にシャワーを浴びると、体力温存とばかりにとっとと部屋へ引っ込んだ。といっても帰宅が遅かったので、彼女が寝たのは夜11時過ぎだったが。
キッチンで一人、夕月の持ち帰った水筒を洗いながら、先生たちからも認められている妹を誇らしく思う。
「いよいよ最終日か」
当事者でもないのに、自分のことのようにドキドキしてしまう。
何事もなければいい。気分は兄というよりも完全に親だ。
この2日間が忙しかったおかげか、明日で禁欲日が終わるなんて発想はほとんど浮かばなかった。
そうして、いよいよ迎えた文化祭最終日——。
「じゃ、またあとでね」
「ああ、11時には行くよ」
「うん。お兄ちゃんいってきます」
「いってらっしゃい夕月。またあとでな」
文化祭Tシャツを着た妹を、爽やかに送り出す。
それから洗濯物を干し、リビングに掃除機をかけ、些細な家事をこなしてから出発準備を整える。
姿見の前で服装をあれこれ吟味し、黒ジャケットに白ワイシャツ、ジーンズという無難な格好に落ち着く。
優秀な妹の兄として恥ずかしくなく、かといって気取り過ぎないコーディネートだ。
俺は予定よりも早めに家を出ると、若干緊張しながら夕月の文化祭へと向かった。