天華「なぁ、スケベしようや。気持ちええから」
男「良いのかい?そんなホイホイ誘っちまって?俺は下級魔族だろうと喰っちまう男なんだぜ?」
天華の情事から翌日、今日も今日とて一日が始まる。陽光射し込む窓を鬱陶しく思いながらも、男は目を開く。
上体を起こし、気だるく感じる身体に鞭打つ。これほど気だるく感じるのは恐らく天華から流れた狂気のような快楽の所為だろう。それを裏付けるかのように、横で眠る天華の腹部は男の吐きだした異常な量の精液を一杯に溜め込み、膨らんでいた。あれからかなり時間が経ったが、未だ吸収しきれないほどに胎内に残っているということは、相当出したのだろう。
「くぅ………くぅ………にへへぇ~」
「う~む」
そんな男の気持ちなど知らず、当の天華の表情はだらしなく緩んでいる。落書きでもしてやろうか。
「はっ、アホウが」
今更そんな歳でもあるまいに。男は自嘲してベッドから立ち上がる。窓を開けると、朝を報せる小鳥のさえずりが鼓膜を柔らかく震わせた。視界に広がるのは、近代を感じさせぬ西洋風の木造住宅ばかり、文明の開花で埋め尽くされた東京キングダムとはまったくの別世界。いずれカーラが治める世界でもある。魔族と手を取り合い、未来へと進む世界を滅びるまで見ていたいと思う反面、それに浸る時ではないと自らを律する。
はて、おかしなものだ。自分のものになった世界だ。それを愛でるために見回るのは当然のことだが、そんな生温い世界に浸っていたいという、そんな『優しい』気持ちは久しく湧き上がった感情だ。
―――■■■、好きぃ………―――
カーラが思い浮かんだ。
―――責任……取ってくださいね―――
桃子の笑顔が思い浮かんだ。
「なるほど」
同時に男は得心入ったように頷く。道士服に一瞬で着替え、部屋を後にする。
「俺も女々しい奴だったか」
脳裏を過ったのは、己の腕の中で白い騎士の命が尽きる直前の光景。まるで頑固な汚れのようにこびりつくそれは、男が唯一得られなかった女。名前は何と言ったか。
忌々しいことに、万の時を経てもその名は色褪せずに思い浮かんだ。
「む」
同時に華やかな少女のような笑顔がフラッシュバックした。男勝りで強気な性格は今も男の記憶に刻み込まれている。
実に、不思議な女だった。特別なつながりがあったわけでもない。男が戯れに名前を呼んだとき、初めて少女のような嬉しげな笑顔を見せた。二度目は、死に際の時。全てが終わり、名前を呼んでやり、悔いのなさそうな笑顔で逝った時だったか。
「あら、おはよう。ちょうど良いわ。これからシャワー浴びるから」
思考の海に潜っていた男の意識を持ち上げたのは、アンネローゼの声だった。裸の上にワイシャツ一枚を羽織り、眠そうに欠伸をする姿は非常に扇情的だが、不思議と男はそんな不純な気持ちは湧かなかった。
「アンネローゼか。おはよう。今日も良い朝だな」
「――――――――――」
「どうした?」
アンネローゼは珍しくぽかん、と呆けたように口を開けたままの表情になっており、男の呼び掛けで意識を取り戻した。
「あなた、あたしが知ってる彼奴よね?」
「なんだ藪から棒に?」
「一瞬泣いてるように見えたわ」
「なに?」
当然、頬に涙が伝う感触は無い。アンネローゼ自身も、何処か戸惑いを見せていた。そして、それが異様に腹立たしかった。特に理由らしい理由もないというのに、理屈など関係なく簡単に男の心は燃え上がった。
「冗談も大概にしろ、なぜこの俺が泣かねばならん。馬鹿なことを言ってる暇があったらさっさとシャワーを浴びて来い」
「ちょ、ちょっと。なにを怒ってるのよ?」
「怒る?この俺が?くだらんことを言ってないで、良いからさっさと行け」
「わ、分かったわよ」
(おっかしいわねぇ、なんで私もそう思ったのかしら?)
男に急かされる形で風呂場へと歩いていく。アンネローゼ。彼女自身、自分がなぜ男が泣いているのかと思ったのか疑問に思っていた。
自分でも分からないと言った様子で、頻りに首を傾げながら男に背を向けて歩いていくアンネローゼを見送ったあと、キッチンへと赴く。
「おはようございます。ご主人様。もうすぐで朝食が出来上がります」
「ああ」
「あら?」
男の顔を見てシェンフーが何かに気付いたように、まるでなにか物珍しいものでも見たような顔になる。
「………ご主人様、何かありましたか?」
「いや?………お前もどうした?そんな顔をするとは珍しい」
「いえ、気のせいだと思うのですが、泣いているように見えまして」
「お前もか」
一体なんだというのだ今日は………。男の呟きは虚空へと溶けて消えていく。
「お前『も』?やはり何かあったのですか?」
「………」
シェンフーの言葉で男が考え込むように僅かに眉根を寄せる。あの白騎士を思い出しただけでこうまで周りに気取られるとは思わなかった。
「昔を思い出しただけだ」
「っ………ご主人様、それはもしかして………彼女を?」
「勘違いをするな。ただ思い出しただけだ。お前はいつも通りにしていろ」
遮る様に言う男。対してシェンフーの表情はどこか複雑であり、その黄金の瞳が妖しく細められた。
「………御意。ですがご主人様。もし万が一のことがあれば―――」
「ああ、分かってる。その時はその時だ。約束は守るさ」
「………差し出がましいことを致しました。お許しを………」
「良い、許す。だからお前はいつも通りにしていればいい」
「御意」
黙々と調理を再開するシェンフー。男がそれを見てソファに座ろうとした瞬間―――
「にょわああああああああああああああああああ!!??」
「?」
天華の叫び声が響き渡った。尋常ではない出来事を予感した男が天華の下へと移動する。シェンフーも一度調理を止めて、後に続く。
「天華、どうした?」
「お、お兄さん!?ちょ、ちょっと入らないで!今はマズイの!」
「……なにがあった?」
「す、すぐに終わるから!この!言うこと聞いてよ!私の身体なんだから!」
「いったい何があったのでしょう?部屋の中はなにか靄のようなものが掛かっていて見え辛いですし……」
「このままでは埒が明かない。天華、入るぞ」
男の手がドアノブに掛けられる。
「え!?お願い待―――」
天華の制止の声も意に介さずドアノブを回した瞬間―――
モフッ
―――男の身体は黄色に包まれた。
「モフッ?」
ボフンッ!
という音と共に男の背中が壁に叩きつけられた。痛みは無い。一瞬何が起きたのか理解できず、視界に埋め尽くされた黄色いものがなんであるのかを手で触って確かめる。手触りは柔らかく心地よい。仄かな天華の香りからこれは彼女の尻尾であることが分かる。最高級の動物の毛皮を用意するならばこのようなものが良いだろう。
「ふむ」
これは天華の尻尾が何らかの理由で巨大化し、部屋を埋め尽くしているのだと理解した。
「きゃああああああ!ご主人様が毛皮に潰されるううううう!」
「狼狽えるなシェンフー!問題ない。………問題ないが、ふむ」
もふもふ……もふもふ
「余興だ。もう少し楽しませよ………フフフフ、うむ、悪くない」
「ご主人様が下級魔族如きの尻尾に寝取られたあああ!?そ、そんな!私の尻尾とは遊びだったのですか!?」
「許せシェンフー。俺は今を生きる」
躊躇いもなく言い放つ男の簡潔な言葉にシェンフーが打ちひしがれる。
「そんな~!?ほ、ほ~らご主人様~こっち~のけ~がわ~もや~らか~いぞ~」
「どうでも良いけど助けてよお兄さん!これ言うこと聞いてくれない~~!」
そんな彼女も負けじと、と魔力を滾らせ、その身を包んでいこうとしたところで天華の悲鳴が毛に埋め尽くされた部屋から響き渡り、頃合いか、と天華の尻尾を触るのを止めてモコモコの尻尾の中から男が脱出する。
「さて、ここまでだシェンフー。そろそろ天華を助ける。騒ぎを聞きつけて他の奴らも起きるだろう。此処は任せてお前は朝食を作っておけ。なに、すぐに終わる」
「………分かりました。ですがご主人様?」
「なんだ?」
「私が一番ですからね?」
シェンフーの含みのある言葉に、男は目を細めた。未だ四苦八苦している天華が居るであろう部屋を一瞥した後、彼は彼女の下へと歩む。
「仕方のない奴よ」
「んっ………!」
男の手がシェンフーの頭に重ねられ、髪を崩さないよう優しく撫でたあと、彼女の額に一つ、口づけを落とす。
「今はこれで我慢しろ」
「ん………はいっ」
そして、二人は互いに背を向けあう。シェンフーはキッチンへ、男は部屋へ。この二人の間には、これで十分だった。
「またせたな天華。今からそっちへ行く」
「うん」
未だ上下左右余すことなくモコモコの毛で埋め尽くされた部屋を見ながら、男はそれに手を差し入れる。まるで泳ぎが下手な子供がプールで泳ぐ練習と称して歩くように、男は水を掻き別けるが如く少しずつ歩を進める。やがて、彼女の綺麗な肌色が露わとなる。もう一歩進むと、寝ていたベッドの上に座っておろおろと戸惑っているのが見えた。
「無事のようだな。しかし、一体何事だ?」
彼女の隣に腰かけ、男が問いかける。
「それが………お兄さんの精気を吸収したらこんなことに」
「………あれを全て喰らったのか?」
「え?………うん」
「この俺の精気を喰らってこれか、なるほど」
「?」
一人納得した顔になって居る男に天華が首を傾げた。
「天華、尾は何本あるか分かるか?」
「ううん」
ふるふる、と首を横に振る天華にそうか、と男は呟くと、彼女の額に掌を当てる。
「お兄さん?」
「なに、案ずるな。しばし目を閉じ、心を空にしろ。後は任せればよい」
「うん」
言われるままに目を閉じる天華を見計らい、男は二言呟く。
「■■■■■■、■■■」
直後、天華の額にひし形の紋様が浮かび上がり、彼女の尾がざわざわと動き始めた。尾に伝わる波紋が天華へと集約していき、やがて伸び放題だった尾が少しずつ収縮していく。
「ふむ、成功か」
一分もかからないうちに尾は全て天華の元の大きさまで戻った。
「お、お兄さん、もう開けて良い?」
「うむ」
そーっと目を見開くと、既に埋め尽くす黄色は無くなっていた。
「はぁ……良かったぁ。一時はどうなるかと思ったわ」
「そうだな。お前も魔族としての格が上がったことだ。こちらとしては僥倖だ」
「え?」
キョトンとする天華に対し、男が顎で見るように指図すると、そこには複数の尾が見える。その数、1、2、3、4………
「9…………本?………え゛ぇ゛?」
「良かったではないか天華。一気に大妖へと変貌したな」
なんてことはない、という風に語る男。天華にとってはそれどころではない。二本有った妖狐の尾が一気に9つまで増えた。
しばしの思考停止、後に覚醒して尾に触れる。
「は、はは」
夢、ではないようだ。
「どうしてこうなった」
「この俺の精気の所為だな。還元された魔力が尋常な量ではなかったようだ。それで勢い余って妖狐としての格が最上位に変貌。現在に至る。と言ったところか」
「勢い余ってって………」
「事実こうなっているのだ。受け入れよ」
そういって男はベッドから降り、立ち上がる。
「まぁ、いきなりの強さの変化に体も追いつけていないのだろう。直に慣れる。それから、その額の紋様が消えるまでは力を使うなよ?それなりに時間はかかるだろうからな」
「う、うん。………やけに対応が早いね。お兄さん」
「なに、それ四苦八苦した奴と付き合いが長い故。もう慣れたものだ。お前のように一気に尾が増えた奴は稀だがな。さて、長話もここまで………さっさと着替えて来い。朝食だ」
「あ、は~い………というかお兄さん」
「なんだ?」
「私の裸を見てどう思う?」
「もたもたしていると性的な意味で喰うぞ?」
「きゃ~こわ~い」
「クク、あほうが」
さっさとしたくしろ、と男は部屋を後にするのだった。
◆◆◆
「へぇ、私がシャワーを浴びている間にそんな面白いことがあったの」
アンネローゼが言う。全員を集めて食卓を囲んでから、男が彼女たちにことのあらましを話した。桃子とティアは単純に驚き、シェンフーはなるほど、と頷く。カーラとマリカはこの場にはいない。昨夜のうちに城へと戻ってしまっている。
「放っておいたらとんでもないことになりそうですから、対応が早くて助かりました」
「とんでもないことって何ですか?」
天華の疑問にシェンフーが続ける。
「今の貴方は所謂爆弾です。ご主人様が刻んだその額の紋様のお蔭で今は安定していますが、もし妖狐の力を少しでも使おうものなら、そこから一気に崩れ、危険な状態になります。例えるなら……」
「た、例えるなら?」
「いえ………言い方を変えましょう。仮に貴方がアミダハラで力を使った日には、アミダハラの地図の一角が黄色に塗りつぶされることになるでしょう」
「圧縮された尻尾が一気に解放されて、いたるところにお前の尻尾が伸び放題になる」
「う、うわあああ………嫌すぎる」
怖いを通り越して気持ち悪い。身震いする天華にシェンフーが苦笑を零す。
「ですが、ここに居れば安全です。余程のことでもない限り使う機会もないでしょうし、あちら側から無断で入ることは誰もできませんから」
「そうなんですか。………馴染むのにどれくらいかかるんですか?お兄さんは分かるの?」
「一週間もすれば大丈夫だ」
「そういうことです」
「そっか、良かったです」
安堵の溜息を吐く天華。それにしても、彼女は無意識で言っているのか、シェンフーに対しては敬語を使っている。
「そういえば、天華さん。シェンフーさんに対してはどうして敬語なんですか?」
桃子がその疑問に気付いたのか、天華に問いかけた。
「え?そうだった?」
「自分でも気づかないなんて………シェンフー。貴女何か洗脳でもしたの?」
今まで静観していたティアの言葉にシェンフーは頭を振った。
「いいえ………ですが、恐らく私の魔族としての本性がそうさせてしまったのでしょう」
「本性?」
「ええ、私も天華と同じく狐を本性とした魔族。この姿も変化によるものです」
「そうだったんですか?!」
「はい。こう見えても私はご主人様の一のこぶ、いえいえ、従者ですから。今の天華とも比べものにならないくらい強いですよ?私は」
そういって胸を張るシェンフー。
「まぁ、シェンフーの自慢話は置くとしてだ「酷すぎませんかご主人様!?」天華、とにかくだ。しばらくは鋭気を養うつもりでしばらくは大人しくしていろ」
「う、うん。わかったよお兄さん。それで~……え~っと……お兄さん?」
「なんだ?」
「アレ、止めないの?」
「あれ?」
「ぷ~くすくすwww主にぞんざいに扱われてやんのwwwあーご飯がおいしいわぁ~www」
「貴様!魔女如きが生意気な!」
男が天華の指差した方向を見ると、全力で馬鹿にしているアンネローゼと、一気に沸点が振り切ったシェンフーの姿があった。
「………」
「いずれ捨てられちゃうんじゃない?良い主候補でも紹介してあげましょうか?お金はたんまりもらうけどね?」
「はん!半端者の魔女にどう思われようと何も感じませんね!」
「あら?あらあらあら?半端者ってどういう意味かしら?この私が?半端者?」
「おや、遂に耄碌しましたか?鋼鉄の魔女アンネローゼ?どっちつかずの半魔など半端者で十分です。魔族なら魔族らしく堂々としていればいいものを。人間もまた然り」
「ふ、フフフフ、おめでとう。大当たりね。お祝いに今日こそぶち殺してあげるわ」
「上等です!いつまでも人間にも魔族にもなり切れない貴女には前々からイライラしていたんですよ。貴女如き、変化を解かなくとも相手取れます!さぁ!手加減してあげるから本気で掛かってきなさい!」
「言うじゃない!上等よ!その喧嘩買ったわ!」
―――うるさい―――
「「!?」」
二人の身体がまるで顔を除いてコンクリートで固められたように硬直する。お互い、剣を抜刀する途中であり、まるでそこだけ時が止められてしまったようだ。
「貴様ら舌の根も乾かぬうちにおっ始めおって………まぁ、強制するつもりはない。だが、これ以上やるようなら俺も考えがある。一日限定で食事から着替え、風呂トイレに至るまで、全て世話をされるという屈辱を与えられたいか?」
男の両手は何かを握る様に閉じられている。それが二人を拘束していることが窺える。魔力が灯り、鋭く刺すように輝く男の黄金の瞳に、桃子、そして天華は背筋に冷たい物が押し当てられるような感覚に陥った。
全員が無言になり、異論がないと判断するや否や
「よろしい」
と男から放たれるプレッシャーが霧散した。
「半魔だからどうだの、くだらんことを引き合いに出すなシェンフー。それからアンネローゼ、この俺がシェンフーを捨てる訳がなかろう。あまり見縊るな。レベルの低い口喧嘩とはいえ、俺とて見逃せんものがある。それを肝に銘じておけ」
「………はい。申し訳ありません。ご主人様」
「はぁ、分かったわよ。悪かったわ」
「努々忘れるな。次は問答無用でその両手足を一日だけ切り離す」
―――そしたら、この俺が手ずからお世話してやろう。―――
最後までは言わない。だが、シェンフーとアンネローゼ。この二人を相手にして御しきれる力を持つ事実に、桃子は改めて男の実力を目の当たりにするのであった。
言わんとしていることが分かったのか、それはそれで素敵です!なんて考えて恍惚な表情を浮かべているシェンフーがいるが、桃子は見えていない。対面に座っていても断じて見えてなどいない。
見えてないと言ったら見えてない!
◆◆◆
「それじゃあ、私そろそろ帰るわ。ミチコにもご飯食べさせてあげないといけないし」
「大悪魔はペットかなにかか?奴とて自炊くらいはできるだろう?」
朝食を食べ終えた一同。アンネローゼは外へと続く扉のドアノブに手を掛ける。
「まぁね。でも今頃あの子、貴方に対して嫉妬で狂ってるわ」
「はた迷惑なメイドだ。貴様も災難なことだ。そういえば疑問に思ったのだが、あの同性愛者には気があるのか?」
「冗談」
「そうか。つまり完全なフリーということか」
「あら、私のこと狙っているの?」
「当然だ。狙わなければ逆に失礼であろう?」
「フフ、まぁ、褒め言葉として受け取っておくわ」
「む、待てアンネローゼ。忘れていた。こいつを持って行け」
「?」
扉を潜ろうとしたアンネローゼを引き留めると、男は袖からどうやって入れたのか分からない大きさのアタッシュケースを取り出し、彼女に手渡す。
「なに?」
「報酬だ。貴様にはそれなりに危険な橋を渡らせた。詫びも兼ねて利子も付けて貴様に渡しておく。受け取れ」
「………」
「どうした?」
「ぇ?ぁいえ、何でもないわ。まぁ、貰えるものは貰っておくわ。毎度あり」
そういって足早と去っていくアンネローゼの背中を見送った後、男はドアを閉めるのであった。
「………」
それを見つめる二匹の小さな虫が見ていたことにも気づかずに………。
◆◆◆
アミダハラ外周部、アジトからまっすぐ帰路に着こうとしているアンネローゼ。その表情は複雑に歪んでいる。アンネローゼの出生。それは魔族と人間の間に産まれた合いの子であり、その血によって周りから疎まれる時代が彼女にはあった。剣の才能があり、それが開花されるまでは、彼女にとっては一時期はトラウマとなって地獄を見た幼少の時代を過ごした経験があった。
今となっては、気に入らない奴はその力でねじ伏せ、自由に生きるための権利を勝ち取り、運び屋を商っている。それでも半魔と罵り、異物と称して殺そうとする魔術師連合の過激派もいる。もっとも、そういう人間は比喩表現無しでもれなく地獄へと落ちてもらっているが………。
シェンフーにそれを引き合いに出されたときは久しぶりに怒りが湧いた。そう思うと、まだ自分は半魔として生きる自分を割り切れていないのだろうか。
“半魔だからどうだの、くだらんことを引き合いに出すな”
「っ―――――」
アンネローゼの歩みが止まる。ここにきてまるで三文芝居のようにあの男の言葉が脳裏を過った。あの男もシェンフーと同じく純粋な魔族。
認めたくない。それを下らんと断じる姿に、嬉しいと感じるなど。
「ああ、もう!やめよやめ!」
あまりにも自分らしくない。髪を振り乱し、心を入れ替える。家に戻ったらあの男の蔵からこっそり持ち帰った秘蔵の酒をがぶ飲みしてやる。そう心に決めた矢先に―――
―――殺気―――
「………はぁ、ほんと、ゴキブリのように湧いて来るわね。そういう輩っていうのは」
「………」
アンネローゼの後ろには、いつの間にか二つの人影。振り返り、その下手人を観察する。ローブを着こんで全身は隠されているが、肩幅からして両方とも女。片方は長身だが、もう片方は自分よりも少し身長が低い程度。
気配は“あの魔女”ではない。
「こんな朝っぱらから喧嘩を吹っかけてくるなんて、過激派は暇なのかしら?」
「………半魔よ。今度こそその命を貰い受ける」
長身の魔法使いが言うと、もう片方の魔法使い?がフードを脱いだ。短く切りそろえられた金髪、童顔で大きな眼鏡をかけているが、その蒼い瞳には何も映されていない。恐らく魔法使いに操られた人間だろう。顔に見覚えはないが、立ち居振る舞いは実力者のソレだと分かる。
「やれ」
魔法使いの命令と共に、ローブから出た両の手が高速で印を結ぶ。
「対魔忍?」
アンネローゼの呟きと共に印は完了し、対魔忍の術は完成された。
「エンド・オブ・アース」
瞬間、世界が塗り替えられた。
◆◆◆
「ッッ!!」
感じ取った。
―――何を?―――
大質量の何かが突然現れた。
「ご主人様?」
従者が何事かを問いてくるがそれに答える余裕はない。
「………」
同時に消えたのは黒髪の魔女の気配。いや、取り込まれたと言うべきか。その大質量の何かがアンネローゼを取り込んだ。その質量は世界そのもの。突然世界が現れ、それがアンネローゼを迷い入れたと男は解釈した。
「シェンフー」
「は、はい?」
「全員、ここで待機していろ。警戒を怠るな」
「ご主人様!?」
男は走り出す。アンネローゼの居たところに。並ならぬ事が起きていることを理解したシェンフーは、下された命令を果たすために、男の武運の祈りを胸に抱き、場に残ることを選ぶ。
何事にも不測の事態とは起こるもの。故に、疾くその事態の収束のために、男はそこへ向かうのだった。
○月×日
新開発した小型飛行ドローンは順調に駆動している。
お蔭で男の住いの特定が出来た。どうやら男の力は空間、あるいは次元そのものに干渉する能力があるようだ。男が入っていった部屋をスキャンしたとき、そこに部屋などなく土と石しかなかったことが決定的だ。
クク、今度奴が扉を開けた時がチャンスだ。中に侵入して扉の先にどんなものがあるのか見てやろう。
○月×日
丸一日待機させていた甲斐があった。ようやく侵入が出来た。だが、同時に思わぬ情報が舞い込んできた。まさかあの男が鋼鉄の魔女とプライベートのつながりがあるとは思わなかった。随分慌てていたようで幸い気づかれなかったが、今度はもっと細心の注意を払わねばならない。
侵入してみると意外と一般の家庭と変わらない内装だった。使っている設備はまさしく最新のものだったが、テレビも家具もホームマーケットに行けばそれほど苦労もいらずに手に入るものばかり。てっきり金に物を言わせた豪華な内装だと思っていたが、これはこれでギャップがあって可愛げがある。そういう可愛げが弟にもあればもっと可愛がってやったが、そういうのには恵まれなかったようだ。
………家族か、思えば、私の父親も母親もそろって科学者だった。まぁ、私ほどではないがな。成人前には頭脳では親を超え、親が手を出さなかった者にも積極的に挑戦した。親とは離別してしまったが、天才たる私の偉大さがノマドで知れ渡った時は絶頂すら覚えたものだ。あの時の弟の悔しがる顔は中々に見ものだった。
突然男が出ていった。もう一機のドローンを向かわせるとしよう。どうせ片方は出られないのだからな。精々虫と間違われて潰されない様気を付けるとする。
徹夜明けで少々眠い。今日はここまでだ。