私が幼い頃、その者たちは父の呼び出しによって許昌にやってきた。
あの父が部下以外の者たちを保護するのは珍しく、その者たちはどうやらあの父が一目置くほどの人物だと知った。
だが、私からすれば父の行動が理解できなかった。
いくら一目置けるほどの人物たちだったとしても、安易に保護するのは如何なものかと思ってしまった。
「父は何を考えているのだ!いくら腕が立つからとはいえ、流浪になった者を保護するのはどうかしている!」
「まぁ、曹丕様。そんなに怒らずに」
女中が私を宥めるように言いながら、髪を丁寧に結っていく。
「いずれ曹丕様も、曹操様の後を継ぐ身。その時になれば、もしかしたら曹操様のご考えも分かるかもしれませんよ?」
「……」
父の後を継ぐ身…。その言葉に何故か言葉が詰まってしまった。
別に父のことを嫌っているわけではないが、何故か父に対しては複雑な感情が湧いてくる。
もちろん、父に言われていることはこなしてはいるが、何故か心は満たされなかった。
自分の道のため、戦に出ては数か月ほど帰ってこない父。
そんな私を見ていたのか、指南する師たちは父との関係を作るために、仮面を被ったように私に優しくしてくれたが、私はすぐに見抜き不快な気分になった。
そう、この城には誰もちゃんと私を見てくれない。そんな焦燥感が嫌で、私は指南の合間をみて、誰も知らない中庭の木の上で心を落ち着かせていた。
そして今日も中庭の木に登ろうとしたその時だった。
「子どもとは珍しいな!」
「……っつ!?誰だ」
女の声がして顔を見上げれば、そこには太い木の枝に座って、こちらを見下ろしている女がいた。女は赤い長い髪を風でなびかせ、翡翠色の瞳が私を捉えていた。
私は自分のお気に入りの場所が取られてムキになり、無意識にその女に声をかけた。
「女中が何故そこにいる!そこは私のお気に入りの場所だ!」
「女中?はは!これは面白い……」
女は悪戯っぽい顔でこちらを見て笑いながら、木から降りてきた。
「私は猫煌」
「猫煌?…お前、まさか…最近父に保護された流浪者か?」
「流浪…まぁ、あながち間違ってはいないか…」
猫煌は図星をつかれたような様子を見せた。そして、私の顔をじっと見つめ、不思議そうに聞いてきた。
「そんなお前は…もしかして曹操の子どもか?」
「…それがどうした?父にコネでも作るのか?」
「コネ?はは!あの曹操にコネ?この地が裂けても絶対に作りたくはないね!」
猫煌は腹を抱え、嫌味ったらしく笑いながら答えた。
「お、お前…よく私の前でそんなこと言えるな。私が父に言ったらお前の首が飛ぶかもしれないのに…」
私の言葉を聞いて、猫煌は少し一呼吸し、会話を続けた。
「そんな事にはならないさ」
「何故?何故そう言い切る?」
「何故かって?それは…お前が私と一緒だからだ」
この女は何を言っている?私がお前と一緒だと?
「私が…お前と一緒だと?」
「……お前、父親のこと苦手だろ?」
「っ!?」
思いがけない言葉に私は思わず驚きを隠せなかった。
「やっぱりな……だって、私が曹操の名前を出した瞬間、一瞬お前の表情が曇った」
「……」
無意識のうちに表情が出てしまったのだろう、そんな私の微かな変化を猫煌は捉えていた。
「ここに来てから暫く退屈だったからな、私でよければ話は聞くよ?おちびちゃん」
猫煌は私の目線に合わせるようにしゃがみ、私の目を見つめ優しく笑った。そんな彼女に私は父に対しての汚い感情を隠すことができないと思い知らされた。だが、幼い私は自分の性格のせいか、彼女の誘いを断ってしまった。
「お前に話すことはない!」
捨て台詞を吐き捨てて、恥ずかしさからかその場から離れた。
「ありゃりゃ、親子揃って気難しい奴だ……」
あの女は一体何なんだ!私がお前と似ているだと!?馬鹿にも程があるだろ!私は出来るだけあの場所から離れたくて、夢中で廊下を走っていると誰かにぶつかってしまった。
「うわぁ!?」
体格が大きい者とぶつかったせいか、勢い余って後ろに倒れてしまった。何かにぶつかったと気づき、その者が振り向けば、顔なじみの男だった。
「ん?子桓?どうしたそんなに慌てて」
「か、夏侯惇……」
まさかの出来事に夏侯惇は少し不思議そうに見つめながらも、私に手を差し伸べてきた。
「お前が走るなんてな、何があった?」
「いや、その……いや、それより、夏侯惇!あの流浪の女はなんだ!」
「流浪の女?……猫煌のことか?」
「そうだ!あの女…」
夏侯惇に言いかけた時だった。何故か分からないが一瞬猫煌の優しい笑顔が脳裏を過ぎった。
「っ!やっぱだめだ!」
「お、おい!子桓!」
夏侯惇の制止を振り切り、私はその場を離れた。
その頃、猫煌は――。
「あ~あ。退屈だ……せっかく可愛い子どもを見つけたのになぁ……やはり曹操の子どもだから一筋縄ではいかんかぁ……」
曹操の保護に入って暫くが経ち、やっと退屈しのぎを見つけたと思いきや、勢いよくふられてしまった。
「はぁ…」
あまりの退屈に思わずため息が零れてしまう。こんな時に劉備たちが居れば会話ができて楽しいのだが、生憎あいつらは今いない。なんだって、劉備が保護してくれたお礼にと呂布討伐に向けての準備を手伝いたいと曹操に申し出て、今その準備をしているからだ。もちろん私も行こうとしたら、案の定曹操が私の見張り役に右腕と言われてもおかしくはない奴をつけてきた。
「なんで、アンタが私の見張り役?」
「それはこっちが聞きたいくらいだ」
強面で髭が特徴的なこの男、夏侯惇が私の見張り役だった。この男を見張り役につけるほど、あの男は私を城から出したくはないらしい。
「はぁ……本当にアンタの主様は変わってるし、それに従うアンタも変わっている」
「その言葉、そのままお前に返す」
確かに夏侯惇の言うとおり、流浪の劉備に私を含め雲長や翼徳が付いてきているのが不思議なくらいだ。本来なら劉備もそろそろ国を持たないといけないはずなのに、あいつの道を阻むように災難が降りかかっている。もちろん、最初から簡単に仁の世を目指せることなんてできないのは承知の上だった。それでも、今のあいつを支えるために妻として傍にいる。
「はぁ……確かに、私も変わってる」
溜息をつきながらも、夏侯惇と共に廊下を歩く。
「して、話は変わるが……お前、子桓になにかしたのか?」
「子桓?あぁ、あのおちびちゃんのことか。いや、なにもしてない。人生詰まらなそうな顔をしていたから相談に乗ろうか聞いたけど振られた」
私の言葉を聞いて、夏侯惇は何かを察したのか、呆れたような様子を見せた。
「そういうことか、あの子桓が泣きそうな顔をして息を切らして走っていたからな。何事かと思えば……親子そろって」
「ん?どういう意味?」
「お前は知らない方がいい」
「じゃぁ、聞かないや。めんどくさいのに巻き込まれるのは御免だわ」
夏侯惇と他愛もない会話をしている時、ふと中庭に視線をやると、子桓が書簡を持ってどこかへ向かう姿が見えた。
「良いこと思いついた!」
「おい!待て!」
その場を走って離れようとする私を、夏侯惇が制止しようとするが、上手くかわし、そのまま子桓の所へ向かった。
その頃、曹丕は――。
先程の感情を抑えるために戦法の書簡を読み始めたのに、何故か集中できない。
今まで私にあそこまで言ってきたのはあの女が初めてだった。夏侯惇でさえもあそこまで言わなかったのに……それに、あの女の顔は本当に私を見ているようだった。
「くそ!あの女のせいで……あの女のせいで……」
『私でよければ話を聞くよ?おちびちゃん』
バキッ!
あの優しい顔が余計に私を苛つかせ、気づいたら書簡を強く握りしめてしまった。本当はこんな言葉に言い表せない感情を吐き出したいのに、吐き出せない己が弱くて情けない。私は曹孟徳の息子……兄上たちみたいになりたくないからこそ、父の言う通りにしているのに!悔しさと惨めさから、何故か涙が溢れていた。
「こらこらー……書簡は大事に扱いな」
「っつ!?」
今一番聞きたくない声が耳に入り、急いで袖で涙を拭き振り返ると、そこには猫煌の姿があった。
「なんで、お前……」
「なんでって?可愛いおちびちゃんが深刻そうな顔をしてたら、そりゃ気にするよ」
「だからなんで、お前は私にちょっかいを出すんだ!」
猫煌に向かってボロボロになった書簡を力強く投げつけたその時だった。
「おい!猫煌!お前何をしている!」
夏侯惇が複数の兵士を連れて、急いでこちらに向かってきた。
「やっば、夏侯惇だ!ねぇ、おちびちゃん。城の中で親に言われるがままに生きるのって楽しいかい?」
猫煌の確信的な言葉が私の荒んだ心に、刃として突き刺さった。そしてその刃は徐々に私の感情を言葉にした。
「っつ……楽しくない。城の外にも出られず……父を含め誰も私を見てくれない……鳥籠の中みたいだ」
「そっか、なら私と楽しいことをしよう!」
「……へ?って……っちょ!?」
猫煌はいきなり私を抱きかかえた。
「やーい!夏侯惇!曹操の息子は私が預かった!返してほしければ、曹操を連れて私を追ってこい!」
猫煌は煽り文句を夏侯惇にぶつけ、一目散にその場から逃げ出した。
「お前は馬鹿なのか!?こんなことしたら首が……」
「安心しな、私はそう簡単に死にはしないよ」
猫煌は私の言葉を遮るように自信満々に笑った。そして、猫煌を捕まえようと次から次へと兵士が出てくるが、猫煌はいとも簡単に避けていった。
「すごい……あの夏侯惇と于禁が育てた兵士たちを簡単に避けられるなんて」
「子どもの頃、よく森で熊や虎と命がけの鬼ごっこをしていたからな。あの時に比べたら、普通の兵士は簡単だ」
「お前、一体……」
猫煌は兵を傷つけることもなく、城の塀を鉤縄を使って登り、そして勢いよく飛び出した。
「わぁ!?」
ほんの一瞬な筈なのに、世界がゆっくりになり、私の瞳に映ったのは儚くも美しい夕日だった。
「着地をするよ!」
「なっ!?」
猫煌の呼びかけで我に返り、気づけば無事に地面に着地していた。
「さて、このまま居場所が分からなくなるのもいいが……」
猫煌は先ほどの書簡の破片の裏に文字を書き、それを矢に括りつけ、そのまま放った。
「さぁ、あの森の高台まで逃げるぞ!」
再び私を抱え、猫煌はその場から逃げ出した。
一方、夏侯惇たちは猫煌が行った行動を曹操に伝えた。
「猫煌が子桓を?」
「あぁ、そして馬鹿にしているかのように、こんなものまで残して行ったぞ」
夏侯惇は私に何かの破片を渡してきた。この破片は恐らく書簡に使われていたものだろうが、その裏には文字が書かれていた。
『酉鳴七度、白岩之上、待鳳凰之子(酉が七回鳴いた頃、白き岩の上にて鳳凰の子と待つ)』
一見馬鹿にしているような文章だが、これは時間と居場所を教えている文章だ。
「……っふ、猫煌らしいな」
「何を笑っているんだ、孟徳」
「いや、何でもない。……さて、あの猫煌がわざわざ時間を指定している。我々はその時間までは目的の場所付近で待つとしよう」
私の言葉に夏侯惇は少し不服そうな様子を浮かべた。
「孟徳、お前があの女を好いているのは分かるが、今回はあの女に何かしら罰を与えないと、周りの反感を買いかねないぞ」
夏侯惇の意見も理解はしている、確かに今回の猫煌の行動は度が過ぎている。
だが、私は彼女を殺すつもりはまったくもってない。
しかし、罰を与えなければ……ふと、考えたら良い罰を思いついた。
それは猫煌、そしてその夫でもあるあの男にも良い罰。
「夏侯惇その罰は、私が自ら猫煌に下すとしよう」
そう私の言葉を聞いた夏侯惇は少し落ち着き、私の指示で猫煌と子桓を迎えに行く支度を始めた。