「では、軍議を始める。先の戦に続き、仔細は私から説明しよう」
曹操は虎牢関の詳細が記された地図を机の上に広げた。
「我らは汜水関を抜き、洛陽を守る最後の関門に至った」
曹操は駒を置き、棒で分かりやすく移動させた。
「この虎牢関は、巨大にして堅牢な防衛の要衝。董卓はここで決戦の地と定め、陣を敷いた」
「ふむ、我らが討つべき相手は、今目の前にいる。総力をもって、討ち果たさん!」
曹操は駒を袁紹に見立て、地図の右端にゆっくりと置いた。
「この頼もしい盟主は連合の主柱だ。敵に本陣を突かれぬよう、細心の注意を払わねばならん。次は各軍の動きについて話そう」
各軍の駒を一つずつ地図に置きながら、淡々と説明を始めた。
「先に言ったように、虎牢関は堅牢。生半な戦力で打ち破るのは困難だ。肝要なのは、虎牢関の前に戦力を集中させること。各軍、まずはそれぞれ、かの地を目指してもらいたい」
動きを明確にするため、曹操は棒で地図の上を指し示し、ゆっくりとなぞった。
「各方面からの攻撃で、虎牢関前の敵を一掃……そこで隊を整え、董卓へ一斉攻撃を仕掛けるのだ」
「それに、我らには投石車の用意もある。うまく用いれば、関の守りを粉砕する助けとなろう」
「だが、董卓が擁する脅威は虎牢関に留まらぬ」
曹操は一番わかりやすい色、黄色の駒を地図の上に置いた。
「無双の武を誇る呂布。かの脅威をもってすれば、戦況は容易に覆される。奴がどう動くかは読めぬが、こちらも手を打っておかねばならん……猫煌」
曹操は猫煌に冷静な表情を浮かべながら、話を振ってきた。
「私?」
「華雄を倒した策。そして劉備殿達ならば、この鬼神を抑え込めよう」
曹操の言葉に猫煌は、大きく溜息をし蟠るような表情をみせた。
「なら、私が言うものを準備してほしい」
「……なにが必要だ?」
「炭だ。しかも細かく砕いたやつ」
「分かったすぐに用意させよう」
猫煌は一体、炭を何に使おうとしているのだろう?曹操と私も、彼女が炭をどう扱うのか全く見当がつかない。
猫煌のことだから、確実に呂布を討ち取るための策を練っているに違いない。
しかし、先の戦のことも考えると、少し彼女のことが心配になってしまう。
「作戦はまとまったようだな。漢の忠臣たちよ、この地にて悪鬼・董卓を葬り去る。勝利を掴み、世に正しきを取り戻さん!」
袁紹の掛け声で軍議が終わり、出陣の準備に取り掛かった。
「猫煌、言われた通りの炭だ」
曹操は部下に炭を運ばせた。炭は台車に載せられ、量はそれなりに豊富だった。
「これくらいあれば策が立てられる…」
「猫煌、お前が考えた策を教えてくれないか?」
猫煌は私たちに分かりやすく説明を始めた。
「先の戦では油と特殊な物質を配合した爆発物を使用した。火をつけなければ爆発しないが、時間がかかる。今回も同様に火を使う必要があるが、条件が整えばすぐに爆発する」
「条件?」
猫煌はその条件を話した。
微粉の状態の炭がで空気中に浮遊していること。
浮遊している灰の濃度が爆発下限濃度以上であること。
十分な酸素濃度が存在し、火源が存在すること。
「猫煌、本当にそんな条件で爆発するのかよぉ?」
「あぁ、爆発する。それも特大な」
自信ありげな様子で応える猫煌。
「まぁ、今回は流石に私一人ではできない。玄徳と雲長と翼徳の力が必要だ」
「猫煌……」
「あの呂布を倒せるなら、俺は手伝うぜ!」
「拙者も同じく」
私達は猫煌から策の委細を伝えられた。
今回の戦の策を考えた曹操殿にも伝えれば、曹操殿は興味深そうに話を聞いていた。
「……」
分かっている。
今はただ、曹操殿に策の詳細を伝えているだけで、別にこの瞬間、男女のやり取りをしているわけではない。
それに、今は曹操殿に嫉妬するよりも、今は董卓討伐が先だ。
「兄者」
「……」
「兄者」
「……あぁ!?すまない雲長、どうした?」
雲長の呼びかけに気付かず、雲長はこちらを心配そうにみる。
「いや、兄者が猫煌殿を見ておられたので……あのあと何かあったのです?」
「いや、あったというよりかは…。雲長。私はこの戦が終われば、猫煌と共に婚礼の義を挙げるつもりだ」
「おぉ!それはめでたい!ならば、この戦はなんとしても勝たないといけませんな」
「そうだな」
そうだ、私はこの戦が終われば猫煌と結ばれる。
結ばれさえすれば、彼女はずっと私の傍にいてくれる。
あの男には決して触れさせない…絶対に。
そう考えていたら、猫煌が曹操との話を済ませたのか、こちらへと走って駆け寄ってきた。
「玄徳、話が終わったから、私達もそろそろ出陣をしよう」
「そうだな」
馬に炭を乗せた袋を乗せ、私たちは出陣した。
私たちは猫煌の指示に従い、呂布がいるであろう虎牢関へと向かって進んだ。
敵兵の攻撃が炭の入った袋に当たらないよう、慎重に庇いながら行軍を続ける。
荒らしい戦の中、私たちは一歩一歩、確実に前進していった。
「猫煌!そろそろ関だ、呂布が立ちはだかる可能性がある!慎重に進んだ方がいい」
「そうだな。雲長、翼徳!あとは策通りに頼む!」
「承知した!」
途中で炭を雲長と翼徳に渡した。
そして私と猫煌、雲長と翼徳で二手に分かれ、関へと向かった。
「猫煌、今回は私も一緒だ」
「そうだな。そろそろ関だ!気を引き締めて行くぞ!」
馬をさらに早く駆けさせようとした瞬間だった。
「ふん、やはりあの時の鼠は生きていたか」
「「!?」」
董卓暗殺の際に感じた殺気、そして特徴的な赤毛の馬……間違いなく、あれは呂布だ。
私と猫煌は素早く馬を止めた。
「りょ、呂布だー!」
「ひ、ひぃ逃げろ!」
周りの兵士達が呂布の殺気に怖気づいてしまい逃げ出した。
「ふん、雑魚はいくら集まっても同じだ」
兵たちが一斉に呂布へと攻撃を仕掛けるが、彼は軽々と次々と薙ぎ倒していく。
私は呂布を止めるため、彼の前に立ちはだかった。
「退け、雑魚は狩り飽きた」
「言われて道を空けるなら、戦場に立つものか。お前はここで止める!猫煌!」
「任せな!」
馬から素早く飛び降り、攻撃を仕掛けた。
私も猫煌の動きに合わせて、何度も攻撃を繰り出した。
「ふん、鼠にしてはなかなかだが、やはり鼠は鼠か」
呂布は猫煌の攻撃を受け止め、彼女の腹部を力強く蹴り上げた。
「がっは!?」
猫煌は吐血しながら空高く飛ばされ、呂布も彼女を追うように跳躍し、方天画戟を振りかざして地面に叩きつけようとした。
「まずい!!」
今の猫煌は呂布の攻撃を防ぐことができない!
私は彼女を助けるべく、呂布の攻撃を剣で受け止め、呂布との距離を素早く取りながら、落ちていく猫煌を助けた。
「猫煌!しっかりしろ!」
「……うるせぇ……耳元で騒ぐなよ」
「良かった」
猫煌はすぐに持ち直し、吐血で汚れた口を袖で拭った。
「私はあいつにやられた借りがあるからな……くたばってたまるか」
「ほう?まだ戦えると?面白い!来い!」
猫煌と私は呂布の殺気に怖気づくこともなく、立ち向かっていった。
キンキンと刃と刃のぶつかり合う音が、戦場に鳴り響く。
二人でも呂布と戦うのが難しく、攻撃を仕掛けることができない。
そんな時だった。
「兄者!」
「雲長!」
二人の姿が見え、猫煌は今だと言わんばかりに二人に合図をした。
「今だ!」
「どぉぉりやぁぁぁぁぁ!」
二人は上から炭の入った袋をこちらへ投げてきた。
案の定、呂布はそれを攻撃だと勘違いし、私たちを振り払って、すぐに袋を真っ二つに切り裂いた。
「なにを小賢しい真似……っ!?」
呂布は、その袋の中身が炭であることを知らない。
小麦粉のように細かくなった灰が、煙幕のように周囲を包み込んでいった。
私と猫煌はすぐにその場を離れた。
「なっ、なんだこれは!」
炭の粉塵で視界が悪くなり、苛立ちを見せる呂布。
「さて、最強と呼ばれる鬼神はこれを防げれるかな?」
猫煌はその粉塵に目がけ、火がついた矢を放った。
「まさか……!?」
矢が粉塵の煙の中に突入した瞬間、ドォォォンと凄まじい爆発が巻き起こった。
私と猫煌は身を引き、爆発の衝撃を何とか耐え抜いた。
そして、爆発が収まったのを確認するために振り向くと、そこには呂布の姿が見えなかった。
「りょ、呂布は!」
「見当たらない……嘘だろ」
猫煌はまさかの出来事に困惑しているが、私も同様だ。
あの爆発で死体や体の一部が見当たらないとなれば、呂布はあの状況から何とか脱出したことになる。
人間離れした身体能力を持っているからこそ、あるいは鬼神だからこそ、この危機を切り抜けたのだろう。
しかし、まだ戦の最中だ。本来の目的は董卓の討伐であり、今ここで呂布の死体を探していても意味がない。
私たちは曹操たちが向かっているであろう関へと馬で駆けていった。
辿り着くころには関は突破されており、曹操軍もすでに進軍していた。
「猫煌、雲長、翼徳!私達も行くぞ!」
「おう!」
戦況となった洛陽の中を私たちは駆け抜けていった。
「時宜を得たな。突撃するぞ!」
曹操の掛け声と共に一斉に兵たちが突撃していった。
「来たか、天下に蔓延る愚狼ども。董仲穎を喰らわんとするなら、相応の覚悟をせよ」
董卓の気迫がここまで届いており、その覇気の影響で董卓軍の兵たちの戦意が高まった。
「邪魔の入らぬうちに勝負を決める。ささっと準備をしろ!」
董卓の指示により、兵達が秘計の準備に取り掛かった。
そして、目の前の投石車が動き始めた。
「まずい!」
炎に焼かれた石がこちらに飛んできて、寸前のところで何とかかわすことができた。
しかし、岩を避けた瞬間、今度は火矢が降り注いできた。
「くっそ、なんだよこの量の火矢!自軍の兵もろとも潰すきか!」
「投石と火矢を食らっている兵がいるようだな。味方の攻撃も予測できぬとは、実に愚かよ。よいか、手を緩めるでないぞ。生き延びる力がない者は容赦なく見捨てよ」
私たちは投石と火矢を巧みにかわしながら、董卓のもとへと突き進んだ。
「玄徳、この数はきつすぎる!早く董卓を討たなければもたないぞ!」
猫煌の言う通りだ。
さすが董卓軍、兵の数ではあちらが圧倒的に優位だ。
その上、この投石と火矢の猛攻……このままでは我々連合軍が敗北してしまう。
「私はこっちの投石車を破壊する!猫煌は向こうのを!」
「分かった!」
二人で投石車の破壊に向かって突進した。
投石車の周囲には兵士が待ち構えており、私たちは次々と敵を倒しながら、一台ずつ確実に投石車を破壊していった。
そしてようやく、董卓の元へ辿り着いたが、その様子をみた董卓は卑しめるように喋り出した。
「黄巾の蜂起を経て、漢室の権威は死んだ。死した巨獣の肉は、生きる者の糧となるのが道理。ゆえに、わしは遠慮なく食らった。そして……貴様ら連合も目的も同じであろう」
「違う!お前と連合が同じではない!」
「ふん……大儀などという飾りを剥げば、単純なこと。死肉を巡って争う……そう、これは獣どもの食らい合いよ!」
董卓は携えていた武器を構えた。
「強ければ喰い、弱ければ喰われるが、獣の理。ゆえに人も政も、腐する暇すらない。生きるために万人が死力を尽くす……それこそが、この董仲穎の治世よ!」
董卓は凄まじい気迫で私たちに攻撃を仕掛けてきた。
私たちはその攻撃を巧みにかわしたが、董卓の一撃は地面を割るほどの威力を持っている。
なんとか二人で隙を作ろうと攻撃を繰り出そうとしたその瞬間。
キィィン!と猫煌の攻撃が何者かに塞がれてしまった。
「まさか……猫煌様。なんという巡り合わせでしょう」
「お前は……貂蝉!?」
「なんだと!?」
猫煌の攻撃を塞いだのは貂蝉だった。
董卓暗殺の際に捕らえられたのは知っていたが、まさか戦場に出ているとは思わなかった。
「ふん……面白い。貂蝉!そこの女を討て!」
「今の私は董卓様に仕える身。主を害そうとする敵は、排除します!」
貂蝉は猫煌に素早く攻撃を繰り出してきた。
「くっ、貂蝉!!」
「どうか……猫煌様、本気で打ち合ってください。悟られてはならないのです。……私の本心を」
「!?」
猫煌は貂蝉の言葉を聞き、何か気づいた。
「そうか、そこまで言うなら。こっちは手加減なしだ!貂蝉!」
猫煌は貂蝉に対して本気で攻撃を仕掛けた。
貂蝉も戦える実力を持っているが、猫煌の攻撃をかわしたり受け流すのが精一杯のようだ。
それも無理はない……猫煌と貂蝉の経験の差はあまりにも大きすぎる。
次第に貂蝉は猫煌の攻撃をかわすことも、受け流すこともできなくなり、ついにその一撃を受けてしまった。
「っつ……本当に無事でいてくださって……よかった」
猫煌は貂蝉と本気で打ち合ったが、彼女は貂蝉を斬らず、素早く峰内をしたのだ。
「ちっ……やはり使えなかったか。さて、貴様は劉玄徳といったか?わしの首を欲しければ、わしを食らう勢いでこい!!」
「お前を討ち、お前のせいで苦しんだ民を救う!!」
董卓に攻撃を仕掛けると、激しい刃の音が響き渡る。
そして、刃がぶつかり合うたびに火花が散り、戦場を彩った。
「うぉぉぉ!!」
「おもしろい!小さき者がこうしてわしに噛みつく!わしはお前も食らってさらに上を目指す!」
董卓の殺気が体の芯から伝わってくる。
駄目だ、負けるな!今ここでこいつを討たなければ、誰が討つ?董卓の攻撃を受け止めるたびに、身体が悲鳴を上げている。
しかし、なぜだろう?戦うことがこれほど楽しいと感じている自分がいる。
董卓に気づかされたことは不本意だが、どうやら私も獣のようだ。
獣のように戦うこと、他の男に嫉妬すること……それは私の中に芽生えた獣の本能だ。
「お前を討つならば、私は獣となろう!」
身体に残された力を振り絞り、私は董卓に素早く攻撃を繰り出した。
董卓はそれを防ごうとしたが、私の攻撃はあまりにも迅速で、彼は防ぐことすらできない状態に陥った。
「これで終わりだ!」
確実に董卓の首を狙い、剣で一撃を加えようとしたその瞬間、バシュ!と火矢が私に向かって降り注いできた。私はとっさに身をかわしたが、その隙を突かれ、董卓はすぐにその場を離れてしまった。
「なっ!?」
邪魔が入り、董卓を討ち損じてしまった。
「わしはまだ死なぬ……生がある限り、食らい合いは続く!……退くぞ!洛陽に火をかけろ!奴らの追撃を撒く!」
董卓の指示により、洛陽から撤退していった。
しかし、奴は私たちの追撃を振り切るために、洛陽に火を放った。
案の定、洛陽は炎の海と化し、私たちもやむを得ず撤退せざるを得なくなった。
私たちも撤退し、陣に戻ってきた。猫煌は呂布に腹を蹴られたのもあり、念のため医者に診てもらうことにした。
「あちゃぁ、嬢ちゃん。これ、肋骨一本折れてるね」
「へ?」
「本当は痛みで苦しむはずなのに、嬢ちゃんは強いねぇ」
まさかの医者の発言に猫煌は驚愕の表情を見せた。
「痛みがないから動こうとすると思うけど、肋骨が治るまでは安静にしなさいね」
医者からの絶対安静を言い渡され、猫煌は少し残念そうな様子で天幕から出てきた。
「猫煌!大丈夫だったか?」
「玄徳、いやぁ……どうやら肋骨一本折れちゃったみたいでさ!」
「なんだと…!?」
まさかの結果に私は思わず声を上げてしまった。
猫煌はやれやれとした表情を浮かべたが、そんな場合じゃないだろう!肋骨が折れるなんて、重傷に相当するのだから。
「ほ、他は大丈夫なのか?」
「他は大丈夫だった。まぁ、強いていうなら……しばらくは安静にしろだってさ」
あぁ、あの時の呂布の蹴りが猫煌に重傷を負わせるなんて。
だが、本来なら痛みで耐え難いはずなのに、猫煌は何故平然としていられるのだろう……これも彼女の特異な力のおかげなのか?
そうだとすれば、今後も十分に注意しなければならない。
猫煌のことだから、痛みがないからこそ無茶をしかねない。
私はこの不安を彼女に伝えることなく、心の奥深くにしまい込んだ。
「しばらく安静すれば治るから、そんな辛気臭い顔するなって」
「しかし……」
猫煌とそんなやりとりしていると、袁紹と曹操の姿を見つけた。
「来たか曹操」
「陛下は?」
「陛下は既に長安へ移られていたそうだ。董卓め、元より洛陽を捨て去るつもりだったらしい」
袁紹は董卓の行動に激しい憤りを覚え、険しい表情を浮かべた。
そんな袁紹に対し、曹操は冷静に提案を持ちかけた。
「ならば、急ぎ追撃するぞ。取り逃がせば絶好の機を逸することになる」
「いや、我らは洛陽にとどまる。諸侯を慰労し、荒れた都を再興するのだ」
曹操の提案を袁紹は断固として拒否した。
「愚策だぞ、袁紹。我らの目的はあくまで董卓の討伐。忘れたか」
曹操の言葉に袁紹は溜息をついた。
「お前は昔から、冷徹にすぎるのだ。あの荒れ果てた都が目に入らぬか?人々は、明日の糧にすら困る有様ではないか。連合の兵も皆、虎牢関のでの戦いで疲弊しきっている。追撃を命じられても、まともに戦いはできまい」
曹操は袁紹に対して一瞬不満を抱いたが、すぐに冷静さを取り戻して問いかけた。
「御託はいい。袁紹……お前は何を望む」
「決まっておろう。黄巾の蜂起、董卓の暴虐。天下は荒れに荒れ果てた。ならばこそ、ふさわしき誰かが成し遂げねばならぬ。都の……そして天下の復興をな」
「己が、それにふさわしい器であると?」
「うむ。すべては、後の世の歴史が証してくれよう」
そう言うと、袁紹はその場を後にした。
曹操は立ち去る袁紹の背中を見送りながら、自らを内省した。
「天下の復興……ふん、随分大きく出たものよ」
焼き荒れた洛陽を見た曹操の胸の内は誰も知ることはなかった。
そして私たちは董卓の追撃をすることもなく、洛陽の人々の救助にあたった。
その夜――。
火の番をしていた兵たちが小声で囁き合っていた。
「おい、聞いたか?」
「何だよ?」
「あの赤髪の美人さん、呂布と戦った際に肋骨を折ったらしい!しかも、その状態で自軍と共に董卓を討ちに行ったって」
「マジか、華雄の時もそうだったが、おっかねぇな~」
「いくら美人でも、あそこまで男勝りだと…」
「でも、もしかしたらあの部分は良いかもしれない」
兵たちの会話は猫煌に対する下品な陰口だった。
不運にも、その言葉が私の耳に入ってしまった。
「おい」
「あ、曹操様!?」
兵は私に気付き慌てて、振り向いた。
「先の者が肋骨を折ったのは本当か?」
「あ、はい……」
「そうか」
私は兵たちの陰口に不快感を覚えたが、それを咎めるのは愚かな行為だと感じた。
しかも、今は猫煌に対する私の感情を知る者、夏侯惇を除いてはあってはならない。
しかし、猫煌に対する心配がここまで膨らむとは思わなかった。
やはり、私は彼女に強い感情を抱いてしまっている。
あの夜、猫煌が無茶をする性格だと理解したからこそ、彼女が傷つく姿は見たくないのだ。
私はそんな感情を抱きながら、猫煌がいる天幕に向かった。
天幕前に着くと彼女の気配はなく、試しに声を掛けても出てこない。
「……」
本来、結ばれていない男が女子の天幕に入るとなれば、奇妙な噂が立つのも無理はない。
頭では理解していても、どうしても心配から足と手が動いてしまった。
そして、天幕に入ると、そこには気持ちよさそうに眠る猫煌の姿があった。
「猫煌……」
苦痛を和らげるために、上半身は包帯の上から肌着を着ている状態だった。
しかし、よく見ると彼女の腕や体には、痣や傷痕が残っていた。
「……酷い傷だな」
私は優しく指先でその傷痕に触れ、ゆっくりとそれをなぞった。
猫煌の肌は白く、まるで桃のように柔らかい。
あぁ、あの男はこの肌に触れ、何度も愛撫したのだろうか。
その思いを抱くと、不快感が胸に広がった。
私は傷痕をなぞった指をゆっくりと頬に移し、顔にかかっている髪を優しくかき上げると、猫煌の寝顔が顕なった。
「猫の寝顔は可愛らしいな……」
猫煌の白い肌、私を誘うような桜唇。
もしできるなら、今ここで彼女を抱きたい……抱いて、あの男を忘れさせてやりたい。
私の中で沸々と湧き上がる欲、今寝ている彼女を前にして抑えるのが……。
「……」
私は静かに寝ている猫煌の唇に、自分の唇を重ねた。
彼女の唇は柔らかく、温かい……このまま続きを求めたくなるが、これ以上進めば自制が効かなくなってしまう。
今はまだ彼女を奪う時ではなく、その時はあの男を追い詰めてからだ。
欲望を抑えつつ、私はゆっくりと猫煌の唇から離れた。
「その時がきたなら、私はお前を死ぬまで愛そう」
私は彼女からゆっくり離れ、静かに天幕を後にした。
翌日――。
「玄徳、連合軍を離れるって本当か?」
「あぁ……昨夜の玉璽の件もそうだが、今の連合軍は董卓討伐から心が離れてしまっている」
「じゃぁ、その後はどうするんだよ?」
「公孫瓚殿の元に暫く身を置こうかと思っている」
私の提案に対し、猫煌は少し退屈そうな表情を浮かべたが、これは彼女のためなのだ。
公孫瓚殿には、猫煌の傷が癒えるまでと伝えてある。
その間、私は自分自身を鍛えたいと考えている。
これ以上、猫煌に傷を負わせたくはない…。
あの男が彼女を奪う可能性があるなら、私は全力でそれを阻止するつもりだ。
「兄者!猫煌!そろそろ出発するぞー!」
「あぁ!今行く。猫煌私達もそろそろ行こう」
「しばらくは退屈だが、まぁ……お前がいるなら私はついていくよ」
猫煌のまんざらでもない表情は可愛らしく、思わず私は微笑んでしまった。
それに、しばらくは彼女への心配がなくなると、考えると安心する。
「猫煌。向こうに着いたら、約束通り婚礼の義を挙げよう」
「あぁ!」
嬉しそうに返事をする猫煌。その表情は幸せに満ちていて、見ているだけで心が和む。
私はこの瞬間を大切にしたいと、心の中で強く願った。そして、私と猫煌は馬に跨り、共に駆け出し、陣を後にした。