※この作品はR-18です。

【SO3】聖王国の紅刃が堕ちるとき~背徳の淫紋から始まる英雄救済譚~【IF】   作:ばんどう

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16.番外編 タルジュの花【※アレン単独過去編注意】

 むき出しの刀身が、鈍色にきらめいた。頭上。衝撃を直下に受け流すよう柳のごとく剣をしならせ、アレンが翻って苛烈に打ち込んでくる。

 太刀風が、頬をかすめていった。

 覇気に満ちた蒼瞳(そうどう)。精悍な顔立ち。剣を持たぬときの雰囲気は母に似たが、この生意気な眼光だけは父に似た。

 

「また、腕を上げたな」

 

 父の剛剣は、まともに受ければ剣ごと面を両断せんとする強烈さだ。だが、先に動いたはずの父の手許にはいま、ぴたりとアレンの剣尖が吸いついている。

 満足そうな父には答えず、アレンは刃を退けた。

 

 ともに真剣だった。一歩間違えれば怪我ですまないが、ともに臆す様子もない。父子で信頼し合っているというより、一定の実力を持たぬ者はこの家に不要、という暗黙の了解があるためだ。

 

 金髪蒼眼。

 

 アレンが籍置くガード家は、銀河連邦でもっとも理に適った戦闘術を編み出した武家として、いま急速に名を馳せている。父の代になるまでは無名に過ぎなかった弱小家系だ。

 だが父が当主となって以来、家に継がれた旧時代のさまざまな戦闘術を体系・理論化し、連邦に仇(あだ)なす者たちへの対抗手段として昇華させた。

 結果、父は異例の早さで昇進を重ね、今やアールディオン帝国との緩衝帯たるセクターλ宙域を管轄する連邦軍中将にまでなった。

「アレンよ、話がある」

 

 リード・ガードの嫡男、アレン・ガードは今年で十四歳だ。ガード家きっての天才と目され、実力だけならば父を凌(しの)ぎかけている。

 稽古後、一礼して道場を去ろうとしたアレンを、リードが呼び止めた。父もアレンと同じ金髪蒼眼。二メートル近い巨躯(きょく)の軍人で、四十七歳となったいまも鋼を縒(よ)り合わせたような、たくましい筋肉を黒いトレーニングウェアの下に隠している。

 強い眼差しを返すアレンを見て、父は口端を広げて言った。

「――ついて参れ」

 

 

 

 惑星ウーアは『時の惑星』と呼ばれる。

 セクターλ宙域の東側にあり、連邦領域最外縁を成す惑星だ。

 ここは宇宙から見ると恒星の光を反射し、スター効果によってウーア自身が十二条の光を発しているように見える。その複雑な光模様が時計の文字盤を彷彿とさせることから、ブラックホール帯がすぐ近くにあるにもかかわらず、著名な写真家や冒険家たちが押し寄せる絶景の名所でもあるのだ。

 

 この星には昼と言う概念がない。アレンは父に指定された座標に従って惑星に降り立つと、薄暗い枯れ木林を黙々と進んでいった。

 やがて木々の合間から、石造りの朱色の屋敷が見えてくる。

 石畳の玄関先に、三十前後の女性が立っていた。エーリカ夫人という。

 

「これはアレンさま。本日はわたくしのためにご足労いただき、ありがとうございます。ささやかではございますが、宴をご用意しておりますのでどうぞお寛ぎくださいませ」

 彼女は肩口でバッサリと切りそろえられた濃紺の髪を波打たせて、恭しく頭を下げた。むきだしの細い肩にさらりと髪が零れる。

 小麦色のグラマラスな肢体が、紅いドレスで包まれている。エキゾチックな目鼻立ち、大きな琥珀色の瞳がまばたきもせずに、頭からつま先まで、アレンをじっと見つめてくる。

 感情を読ませない不思議な視線だった。

 なるほど、噂に聞く『カガチ人』である。濃紺色の髪、小麦色の肌、琥珀色の瞳は、惑星ウーアに住む稀少民族『カガチ』の特徴なのだ。

「エーリカさま。御自らの歓迎、痛み入ります」

 一礼して、父の言いつけどおり胸ポケットに入れた収容キューブから花束を取り出した。

 

「これを」

 

「……まあっ!」

 

 エーリカ夫人は琥珀色の瞳を見開き、楚々と微笑んだ。表情はあまり動かないのに、花束に顔を寄せるだけで空気が華やぐ。不思議な女性だ。

 男所帯しか知らないアレンは、萎縮してしまった。

 

「素敵なお花を、ありがとうございます」

 

「い、いえ」

 

 気恥ずかしく、会釈混じりに視線を下ろすと、夫人の手に渡った花束が目に留まった。

 父が選んだユリの花はタルジュというらしい。地球には生息しておらず、この惑星ウーアでしか咲かない、白く可憐な花だ。

 エーリカ夫人は父の旧友だと聞いている。今日は彼女の誕生日で、アレンが忙しい父に代わり祝いの品を届けに来たのである。

 朴訥で冷厳な軍人の一面しか知らないアレンは、意外にも洒落た贈り物に、夫人と一体どうやって知り合ったのだろうと不思議に思った。

 

 

 

 通されたリビングは、森を想起させる淡い色合いでまとまっていた。水晶を磨いたような白い床石、クリーム色の壁、緑色の窓枠。調度類もすべてが色彩淡く、角に丸みがあって、まるで川底の美しい石をより合わせてつくったような室だった。

 

(妙だな……)

 

 アレンはだだっ広い屋敷を見渡して、首を傾げる。ここに来るまでに長い廊下を通ってきたが、使用人の姿をまったく見ない。静かすぎる室内は、アレンと夫人の二人で使うにはあまりにも広過ぎる。

 室中央に据えられた翡翠のテーブルには、所狭しとパーティ用の食事が並んでいる。どう見てもたった二人で食べきれる量ではなく、宴会が始まる予感だけがあった。

 夫人がしなやかな指を口許に当てて、石扉のほうに向かって言った。

 

「カメオ。いらっしゃい」

 

「……はい、お母さま」

 

 か細い声が返ってくる。石扉が静かに開き、桜色のドレスを着た娘が姿を見せた。夫人と同じくアオザイやチャイナドレスに近い、体の凹凸がはっきりと出るデザインだ。少女は胸許で両手を重ね、うつむきがちにやってくる。

 夫人は娘の背を押して、言った。

 

「アレンさま。この子が私の一人娘のカメオ。気立てが良く、内気ですが優しい子です」

 

「カメオです」

 

 娘は可愛らしい高音でボソボソと言った。体を小さくして震えている。軽くウェーブした濃紺の髪は腰まで流れ、娘の琥珀色の瞳が上目遣いにアレンを見た。

 怯えた視線だった。

 アレンには、この娘がなにに怯えているのかが分からない。

 

「ご用の際は、この子になんなりとお申し付けください」

 

 夫人が変わらぬ笑顔で言ってくる。

 娘に会釈した。

 

「少しの間、世話になります」

 

「……よろしくお願いいたします」

 

 様子を探ろうとカメオを見ていたが、娘はすぐに目を伏せてしまった。

 

 

 その後、いくら待てども客は来ず、家の者もおらず。

 結局、夫人と娘のカメオ、アレンだけのささやかな宴が開かれた。

 

「それにしても――意外です」

 

「どうなさいまして?」

 

 アレンがようやく夫人たちの空気に馴染み始めたころ、夫人が首を傾げてこちらをふり返った。

 

「父は、恨みを買うだけの人間と思っていましたから」

 

「滅多なことを。この屋敷に住む者は皆、アレンさまのお父上に深い温情を受け、以来、恩を返すために日々を暮らしているのですよ」

 

 夫人は眉間にしわを寄せ、アレンを叱る。だが叱られたことよりも、アレンにとっては言葉の意味に対する興味の方が大きかった。

 

「あの父が、本当に?」

 

「ええ」

 

「信じられない」

 

 耳を疑うアレンを、夫人が不思議そうに見つめた。アレンは「なんでもない」と首を振る。

 

 人を褒めず、仏頂面で居丈高に物を言う――それがアレンのなかの父の印象だ。

 

 家を再興させるために、アレンが立派な後継ぎになるように。

 父はアレンが幼いころから剣術を始め、あらゆる戦闘術を徹底して叩きこんでいる。五歳のときから母と別離させ、私生活でも甘えを一切許さないのも、息子を最強の軍人に育て上げるためだ。

 ゆえに、アレンは十四歳の少年とは思えぬほどの卓越した剣術の腕を持っていた。まだ剣術に限って、であるが。

 

「母に会いたくば、私が認めるほどの軍人となって見せよ」

 

 それが父の口癖だ。

 母親がだれより好きだったアレンは、厳しい稽古の日々に何度も心折られそうになったが、父に「会ってよし」と言われるまで、母に会う気はなかった。

 

 母はいつも血みどろになるアレンを見ては泣き、父に「もう無茶なことをさせないで」と乞い願った。

 そうやって母を泣かせる父に、負けたくなかったのである。

 

 そして母を泣かせてなんとも思わない父を、血の通った人間とも思えなかった。

 だから父が、こんな風にだれかを――本当に、一個人を祝うためだけに珍しい花まで用意するとは、夢にも思わなかったのだ。

 

 厳しい以外の父の一面。

 それに初めて触れ、父を、もっと知りたいと思った。いままでは分からなかった――母が愛した父の一面を知ることができれば、もっと父と、母を身近に感じられるような気がしたのである。

 

 背の低い翡翠のテーブルには食事が並び、大きめソファが周りを囲っている。

 アレンは夫人に促され、ソファに座った。傍らに夫人が寄り添い、果実を搾ったものを手酌してくれる。香りはマンゴーに似ているが、色は透明で、飲んでみると味がない。

 

「ナダ、と言います」

 

 アレンがよほど不思議そうな顔をしてナダを飲んだからか、夫人はクスクス笑いながら説明した。アレンはナダの入った陶器を掲げる。

 

「これですか?」

 

「ええ。私たちカガチにとって馴染み深いものです。あなたがた地球人にとっては、水のようなもの」

 

「なるほど」

 

 うなずきながら、視線を娘のカメオに向けた。

 アレンが食事をしている間、カメオが舞を披露してくれているのだ。

 カガチの習慣はなにもわからないが、カメオの舞は、ひどく情熱的に見えた。

 

「――これではまるで、私のほうがもてなされていますね」

 

 本来ならば、こちらが夫人を祝わねばならないのに。

 申し訳なくアレンが視線を落すと、夫人は穏やかに微笑んだ。

 

「当然ですわ。今日は、あなたの婚約祝いでもあるのですから」

 

「え?」

 

「五年前。私たちを救ってくれたあなたのお父上に、私たちがそう約束したのです」

 

 初めて聞いた話だった。

 固まるアレンを余所に、夫人が二つ、手を叩く。カメオが舞をやめて、楚々と走り寄ってくると、アレンの前にひざまずいた。

 夫人が穏やかに言った。

 

「このカメオは家事が得意です。律義な性格で、交わした約束はどんなことがあれ、守ります。テーブルに並んでいる食事は、彼女がすべて作りましたわ。アレンさまよりふたつ上で、今年で十六歳になります」

 

「そんなことを……急に言われましても」

 

 頭を下げるカメオを見やって、アレンは当惑した。今日は父の代わりにプレゼントを届けに来ただけだ。

 ――十四歳の少年が人生の伴侶を決めるには、あまりにも唐突過ぎる切り出しである。

 固まっているアレンに、夫人がにこりと笑った。

 

「ご心配には及びませんわ。カメオのことを少しずつ、知っていただければよろしいのです」

 

 夫人はしなやか微笑んで、宴の幕を下ろした。

 

 

 

 客間に通される途中、アレンは案内役のカメオに訊(たず)ねた。

 

「あなたも突然、この話を?」

 

「いいえ。私は十一のころより、ガードさまのお力となるよう母に申しつけられておりますから」

 

 カメオはボソボソと答えた。『ガード』と言うのは、アレンの家の名だ。こんな僻地にまで妙な影響力を持っているのかと父にうんざりする一方、カメオが家のために婚約を迫られたのだと知り、表情が暗くなる。

 

「……すみません、こんなことに巻き込んでしまって。それも今日会ったばかりの相手と婚約なんて」

 

 馬鹿げた話だ、と言おうとした彼を、カメオは止めた。内気と聞いていたが、カメオはアレンの唇に人差指を添えて発言を止めた。大胆な彼女に驚いていると、カメオが頬を染めたまま、言った。

 

「私は自分が不幸と思いません。アレンさまは母が教えてくれたとおり、深いお慈悲をお持ちのようですから」

 

 カメオが初めてまっすぐにアレンを見て、タルジュの花のように密やかに、慎ましく笑った。

 

 

 

 客間に一人残ると、アレンはベッドで眠ろうとして、やめた。

 カガチ人のベッドとは、風呂なのだ。人一人ゆったりと入る水槽に、先程飲んだナダを満たしている。ここで彼女たちは眠ると言う。

 

(ふやけないのか?)

 

 一晩も水に浸かるなど、地球人にはない発想だ。見た目が似ているからと言って、同じ存在ではない、彼女たちは『カガチ』という異星人だと思い出した。

 長い溜息を吐いてベッドではなく、ソファで眠ることにする。

 乱暴に身を投げ出して目を閉じると、カメオの微笑みが思い浮かんだ。

 

「一体、なにがどうなってるんだ……」

 

 まるで現実味がない。今日という時間が悪い夢のような気がして、額に手の甲を当てる。

 そう言えば、刀を振らずに一日を終えるのも初めてだ。

 ふと、腰に差した刀に触れた。黒鞘無銘の刀だ。

 

 ――情けを捨てよ。

 

 父の声が脳裡をかすめる。

 人を斬るために情けを捨てよ、と。

 アレンには、五つのときから刀を握る義務があった。

 

 木刀ではなく真剣。必ず一日の終わりに父と真剣で切り結ぶことを決められている。死闘を身近に置くことで戦場で恐怖を、微塵も感じないように訓練されていたのだ。

 アレンにとって剣の腕を磨くことは、習慣だった。それが他人からすれば珍しいことだと最近まで知りもしなかったほどに。

 

 科学万能の宇宙時代。

 十五、六歳の子どもの一月分の小遣いがあれば、一星系内ならどこにでも行ける。そんな数百億の星々がひしめき合う銀河社会で、『宇宙人』と言うのはもう珍しくない。

 その時代にあって、まだ刀など――。そう一笑に付されることも少なくない。

 

 それでも、思う。

 幼少からの影響もあるだろうが、刀を握ると気分が凛とした。銃にはない緊迫感を、刀からもらっている気がする。

 

「一体どういうつもりだ? 父め」

 

 刀を握りしめ、状況を整理するためにつぶやくと、しばらく考えを巡らせた。だがどうにも、眠気が強い。

 思ったよりも疲れているのかもしれない。

 仕方なく眠った。

 

 

 

 音。

 音がした。いや――笑い声だ。だれともつかない、けたたましい笑い声。

 アレンは瞼(まぶた)を震わせ、うっすらと目を開く。

 ――青い。

 床石が、暗闇で青く光っている。さしづめ蛍光塗料と同じ原理か。周りを視認できるほどの明るさではないが、水面のような床石の網目模様が幻想的だ。調度類の色合いと相まって、森のなかに佇む湖面に佇んでいる気分になる。

 世界とは、これほど美しく輝いていたのか。

 照明のない室内では、窓から差す月明かりだけが頼りだ。

 

「すごいな……」

 

 胸のすく想いでつぶやきながら、ソファから降りて。ふとカガチ人のベッドで寝てみようと思い立ったそのとき、

 

 琥珀色の瞳と、目が合った。

 

 だれもいないはずの部屋で、白い眼球が大きくせり出した琥珀色の瞳が、室の隅にいた。

 アレンが息を詰める。

 

 ――見てはならない、ととっさに思った。

 

 悪寒が急速に背筋を這い上がり、ひゅっと飲んだ息を吐き出せず、ソファにかけた手を素早く後ろに下げた。それでバランスを崩した彼は背もたれで頭を打ち、どこか遠い痛みを感じるより先に、背もたれがあったことに驚いて、慌てる自分に更に慌てた。

 

 どすん、とソファが揺れる。

 その音で正気に戻った脳が、琥珀色の瞳――憎しみに燃えた憤怒の顔を捉えた。

 

「ぁっ、――」

 

 首が激しく揺れた。叫ぶ間もない。鋭い音。肌が叩きつけられ、喉が急速に絞まった。目を白黒させながら首を縛る『なにか』に触れる。

 固い。

 

 にたぁ……、

 

 強張った視界に、三日月状の笑みが見えた。禍々しい嗤い。血走った眼球のなかで琥珀色の瞳が爛々と光っている。暗闇のなか、青く照らされた女の顔がぼうと浮かび上がっていた。

 

 ぎりぎりぎり、

 

 首の締め付けが強くなる。彼は喉に力を込め、顔を歪めながら女から視線を逸らした。

 

 ――見てはならない。

 

 震える理性がそう言う。鼓動が早鐘のように鳴っている。さきほどの開放感が嘘のように消えて固く瞼を閉じた。頬に風が当たる。いや、これは憤怒の顔をした女の息遣いだ。ふぅふぅと荒い呼吸で、生温かく触れてくる。

 

 ――見てはならない。

 

 そう思いながらも、わずかに目を開けた。

 

「!」

 

 鬼女。

 視神経、筋肉のすべてが金属片になったように動かない。

 肩まで伸びた濃紺色の髪が、漆黒の闇に溶けて女の顔にへばりついている。白い双つの眼球が迫り出し血管が膨れ上がって真っ赤に染まっていた。収まった琥珀色の瞳が、ギロギロとアレンを見下し、にぃ、と細まる。憎悪に燃え、見開かれた目が弓形状に平たく伸びたとき、蠱惑的な女の唇がゆっくりと耳まで裂けていった。

 首を絞められているからか。骨にキンキンと響く痛みが襲い掛かってきて、アレンは金縛りにあったように動けない。

 全身から血の気が、引いた。

 

 

 ――お前が、

 お前がお前がお前がっ!

 

 

 

 

 

 

 その手で

 

 

 

 

 

 

 ――私の子を、

 

 

 琥珀色の瞳が怒りでつり上がる。首がさらに絞まった。急速に。

 

 ぎりぎりぎりぎりっ、

 

 まるで革ベルトを雑巾絞りするような悲痛な音だ。急速に視界がぼやけていく。景色が回り、体の奥からなにかがせり上がってくる――

 

(死、)

 

 『死ぬ』と自覚した途端、頭が白くなった。

 

 

 ――逃がさない。

 

 女が言った。ゴロゴロと喉を鳴らし、見下ろしてくる。アレンの喉が細まっていき、骨がギリギリと悲鳴を上げる。血の通わない顔がみるみる紫に変色していく。

 意識が遠退いた。

 

 

 

 

 ……キン、

 

 鍔鳴(つばな)り音が聞こえたとき、アレンの視界が一瞬クリアになった。

 手許に確かな感触が、やっと戻ってくる。

 見下せば――女の心臓――そこに、おのれが剣を突き刺していた。

 磨き上げた戦闘習慣が、脅威を取り払おうと脊髄反射を起こしたのだ。

 

「ぐっ……!」

 

 闇のなかで、琥珀色の目が見開かれる。憎悪に満ちた瞳は閉じず、アレンを睨んだまま転がった。ドッと鈍い音。喉を絞る力がゆるりと解け、重い何かが床に倒れ込んだ。

 

 二度、三度、引きつけを起こしたようにアレンは空気を貪(むさぼ)った。くひぃぃ、くひぃぃと喉が鳴り、首を右手で触る。凹んでいた。黒々とした絞め痕だ。人の手でなく、紐のような長い物で絞められた痕。

 血の通っていない、自分の白い手を見る。女の胸を貫いた肉の感触が、ありありと蘇った。

 

「ぁ、うっ……!」

 

 自分でも分かるほど、手が震えていた。止まらない。

 泣き叫びたいような、笑いたいような不思議な感覚に囚われ、うまく息ができない。

 そこで初めて、自分が女を殺したのだと自覚する。

 心臓が、早鐘のように鳴った。

 

(ころ、こロッ、コロッ、殺っ――……!)

 

 息を潜めて目を見開く。

 手にはびっしりと敷き詰めたかのような冷汗。

 堅く、刀を握りしめねば、立っている感覚さえおぼつかなかった。

 心臓が鳴りやまない。

 

 殺される。

 ――殺した。

 

 二つの相反する想いと、昂奮(こうふん)と緊張で頭の中がかき乱され、正常に思考できない。

 傍らの、肉塊。――大の字で倒れている。肘から先をふにゃりと曲げて、目を皿のように見開いた夫人の死体だ。大ぶりな胸から血がどろりと流れ、濃紺の髪を汚している。

 床石から煙が上がった。夫人の血で、石が溶けていた。

 

 アレンが驚きの息を殺す。昂奮(こうふん)と緊張、恐怖が神経を逆撫でるように、鼻から吐く音を耳で拾わせる。

 そのとき、パキパキパキッと小枝が割れるような奇妙な音が響いた。

 弾かれたように顔を上げ、アレンは声を抑えた。

 月が、硬い石の床に妖しい影を引く。

 なま暖かい風が足下をすり抜ける。

 

「逃、が……さ、ない……っ」

 

 死んだはずの夫人が、つぶやいた。 

 アレンが息を飲む。胸に風穴を開けて倒れたまま、あらぬ方角を見つめる夫人が口をうごめかせている。

 

 とっさにアレンはひしゃげたソファに身を潜め、震える呼吸を整えることに集中した。

 夫人が倒れていた場所から、またメキメキと奇怪な音が、血が飛び散るような水音が聞こえてくる。なにがどうなっているのか見る勇気はない。

 

 ただ、月明かりでできる影絵のなかで、夫人がぎこちなく立ち上がり、その厚い唇から長い舌をストローのようにチロチロと覗かせ、笑っているのが見えた。

 

「隠れても無駄よ……? 私たちはずぅーーっと、お前を待っていたのだから」

 

 すりすりと床を擦る音。アレンが息を飲んだ。――震えが止まらない。悪寒のせいで深く考えられない。

 

 影絵が、きょろきょろと首を巡らせる。

 

 距離、一メートル。

 このまま、大人しくしていれば――

 固く目を閉じ、祈った。

 

(――頼む、行ってくれ……)

 

 影絵が傍らを過ぎて行く。

 部屋をそろそろと徘徊(はいかい)して、――諦めたようにぴたりと止まった。

 静寂。

 

(――頼む、もう、出て行ってくれ……!)

 

 アレンは祈った。

 溜息が聞こえる。

 

「逃げたのかしら……」

 

 夫人がつぶやいた。彼女は、すりすりと何かを引きずる音を立てて部屋を出て行く。

 影絵が遠ざかる。

 

(――行った、のか? ……もういない?)

 

 アレンがゆっくりと瞼(まぶた)を開けた。歯の根が合わず、唇がまったく一所に定まらない。

 ソファからゆっくりと顔を出してみると、艶(あで)やかな鬼女が、琥珀色の目を見開いて彼を睨んでいた。

 

「シャァッ!」

 

 牙をすり抜け、女が鋭く吐く。同時、アレンは引きつった顔で首をひねった。唾液が顔の真横を過ぎ、床石を溶かす。

 だが、そんなさまを見る暇などなく、這う。這って這って、這いまわった。

 指が、刀に触れる。

 これで斬れば――思った途端、肉の感触が蘇った。夫人の血にまみれた顔。宴のとき見た微笑み。恐怖と緊張が、体を縛る。斬るか、斬らざるか――息を飲む。

 迷っていられなかった。

 死にたくない。

 生きたい。

 その想いが、躊躇(ちゅうちょ)を掻き消していく。

 

 ――情けを、捨てよ。

 

 父の声が聞こえる。

 彼は握り込む寸前、自分に言った。

 

(俺は――もう戻れないんだっ!)

 

 闇に刀身が閃く。女が襲い迫ってくるまえに、アレンが鋭く打ち込んだ。

 女の左肩から右脇腹を両断する。そんな殺人術を、彼は幼少から徹底的に叩き込まれている。

 だが、

 そこで――気付いた。

 鋼の刀身が、夫人の血で溶けていたことに。

 千切れた刀が床にぶつかって、金属音が立った。女が分厚い唇をつり上げる。さきほどアレンを絞め殺しにきた、三日月状の笑み。

 

「ぁ、ぁ……っ!」

 

 体が震える、芯から凍えたように、どうしようもなく止まらない。

 柄を取り落とした。

 アレンは首を振りながら後ずさる。腰から力が抜け、尻から床に転んだ。

 声にならない呼吸(いき)の塊を吐く。

 涙が、伝った――

 

「娘が、いたの。……カメオより下の子よ」

 

 女は妖艶に微笑み、首を傾げた。太い綱が、床を打ちのめす。鈍い音で床が震える。アレンは這(ほ)う這(ほ)うの体(てい)で避けると、綱――のように見えた女の下半身に驚いた。

 蛇の尾だ。

 二足歩行していた女の足が、いつの間にか蛇の胴尾に成り代わっている。月明かりがあっても鱗は闇に沈んだように黒く、光を吸収する。滑らかな蛇の尾が女の股の付け根から生え、一つの人頭蛇尾となっているのだ。

 蛇尾の威力は、へしゃげた床が物語った。

 すりすりと、蛇尾が床を這う。彼の首を絞めたのも、これだ。

 

「ぁ、ぁ……っ!」

 

 絶望で視界が狭くなっていく気がした。暗闇のなか、琥珀色の目だけが爛々(らんらん)と光っている。

 逃げようと這った。だがすぐ追いつかれる。

 抑えられ、脚を絞められた。視界に火花が散る。

 

 ――これが、カガチ人……。

 

 冷静なだれかが、心のうちでつぶやく。また笑い声が聞こえる。――けけけけッと。

 アレンはギシギシと鳴る脚を放って、それでも逃げようと這った。足が千切れても構わない。どうにか――。

 祈りは届かず、太い蛇尾が電光石火の勢いで彼の全身に巻き付き、縛り上げる。女の黒鱗(こくりん)のうえに彼の金髪が広がった。

 

「シャモアという、まだ十にもならない可愛い子だった」

 

 女は蛇胴をうねらせ、音もなくアレンに顔を寄せると、左目を細め、右目をこれでもかと見開いた。

 

「お前の父が、殺したのよ。ほかの一族みなと同じように、あんなに幼かった可愛いあの子を心臓突き刺して殺したのよっ! 明るくて奔放で、歌と踊りが上手だった、あの子を!」

「……!」

 

 胸、腰、腿を同時に絞め上げられ、アレンは顔を歪めた。それでも、さきほどの絞めより強くない。顔を歪めながらも様子を見ると女は微笑み、指先でそっと彼の首にできた絞め痕に触れた。

 

「そう、すぐにお前を殺しはしない。この五年間、あの男の刺客を屠るたび、憎しみは増すばかりだった。毎日毎日、お前たちへの恨みを晴らすためだけに生きてきたわ。どうやって殺すのが一番残酷か、ずっと悩んできた。――そうしてね、思いついたの。『最後の刺客』などと甘言をちらつかせたお前を、このまま弄んで壊してから――お前の首を、あの男に贈るのは、どうかしら? 私の一族を徐々に根絶やしにし、末娘のシャモアを奪った――お前の父にね」

 

 彼女が細長い蛇の舌をちらつかせると唾を一滴、落した。アレンの服が焼ける。ジュッと鈍い音がしてとっさに歯を食いしばった。

 つんと鼻を突く肉が焼ける匂(にお)い。

 胸板に一点、紅い爛(ただ)れ。

 女が指を滑り込ませると、オレンジ色のマニキュアが付いた爪でアレンの服を切り裂いた。

 

「っ……!」

 

 女の顔を見据え、力なく首を横に振る。声が出ない。戦わねば。心が叫んでいる。

 だが、どうやって。

 思考が空転する。

 怯えた蒼瞳(そうどう)、

 命乞いする顔――

 女が黒い舌を出し、笑う。

 

「坊や。私とキスするとどうなるか、知ってる?」

 

 アレンは首を横に振った。無論、拒絶のために。

 白い胸板を滑る小麦色の指が、針金を縒(よ)り合わせたような躰(からだ)の、田に割れた腹筋を抜けて臍(へそ)をピンと弾く。

 

「硫酸を、口の中にぶち込まれるようなものよ。――どんな感じかしらね?」

 

 顔を白くする彼の前で、女は無邪気に唇をペロリと舐めた。その透明な、生温かい唾液がゆっくりと近づいて来る。石を溶かす、酸が。

 

 ――やめろ!

 

 彼の絶叫は吐きだされることはなく――厚い唇が、彼の音を喰い殺した。

 

 

 

 

 娘のカメオは自室で音を楽しんでいた。生前、妹がくれた未完の舞曲だ。カメオの屋敷はハガルで出来ているため、鼻歌を拾って遠く反響する。

 蛇は夜行性だ。

 人に比べて物はよく見えず、頭にあるピットと呼ばれる複数の穴を通して近くにいる動物の体温を感じ取る。ゆえに、少年がいくら息を潜めても、エーリカにはすべて筒抜けだった。

 カメオは妹の曲に合わせて、しなやかに舞う。

 気分が良い。

 ――今日屋敷に来た少年が、カメオが望んだとおりの穏やかな人間だったからだ。

 

(『あの男』の子どもだから、最初は私たちを殺しにきたんだろうって思ったけど……彼はきっと、そう言うのとは違うわ。今までどおり静かに暮していれば、あの男だって私たちを忘れるはず……。復讐なんてお父さまたちが望まないもの。お母さまはそれに気付いてないだけ――)

 

 カガチ人は基本的に争いを好まない。このように自分が気に入った曲に合わせて、舞うのが好きな種族だ。

 円舞のステップを終え、カメオは首を傾げた。そろそろ母が働き始める夜だと言うのに、一向に動く気配がない。近くに母の体温は感じられず、どうしたんだろうとつぶやきながら、部屋を出た。

 

(許嫁か……)

 

 少年の顔をふと思い出して、カメオは頬を赤らめた。五年前に一族を亡くして以来、カメオは恋愛をしていない。

 

 恋に恋する乙女、と言うのもあるだろう――。

 

 あの少年を見たとき、カメオは惹かれるものを感じた。

 

 

 

 

 血が飛ぶ。視界を覆うほどの大量の血。

 

「っ……!」

 

 歯を食いしばる彼の顔は、それまでとは明らかに変わっていた。

 紅い血が黒いカガチの血と交わる。

 目を見開いた女は、己の心臓に深々と突き刺さった千切れた刀を見つめていた。

 

「そん、……なっ……!」

 

 アレンは自分の指を斬り落とさんばかりの勢いで刃を握りこみ、女の胸に突き刺していた。怯え、焦り、恐怖――そう言った負の感情をすべて削ぎ落し、暗い瞳で女を睨んでいる。

 白い煙が立った。アレンの右腕が黒い血を浴びて爛(ただ)れていく。かまわず、彼は刃で女の心臓を十字に裂く、深く、抉(えぐ)るように。

 女の瞳がぐるりと回る、その腕が痙攣し、少年の全身を縛る蛇の力が抜け、だらりと床に落ちる。黒い血が噴き、床に広がった。

 

 アレンは相手が完全に事切れたのを確認するまで、千切れた刃を離さなかった。

 

「はぁ……、はぁ……っ、……はぁっ……!」

 

 肩でどうにか呼吸を整える。齧(かじ)られたチーズのようにボロボロになった刃を捨てた。両腕が、ささくれた竹のように細まり、見る影もない。

 

(あと、一人……)

 

 ぼやけた思考で、カガチの娘の姿を思い浮かべた。青い薄暗闇のなか、蒼瞳(そうどう)が静かに底光る。

 ――気配がした。

 客間の入口に駆けてくる気配。アレンはテーブルから燭台を手に取る。黄金の切っ先は月明かりを反射していたが、アレンの血にまみれるや闇に溶けてしまった。

 客間に現れた次の女は、斃(たお)れた母親を見るなり目を瞠(みは)らせた。

 少年は駆る。

 ――耳は、なんの音も拾わなかった。

 

 カガチ人の水――『ナダ』。

 それは地球人の神経を侵食する、毒。

 

 二人目の女は何事か泣き喚いたあと、ケラケラと嗤(わら)った。

 燭台を握り、女に向かって駆けながら少年は思う。――ああ、これか。先程から聞こえていた笑い声は、これだったのかと。

 女は――娘のカメオは、血の涙を流して笑った。

 

「どうしても……――どうしてもあなたがたが許せないのです!」

 

 ケラケラとけたたましい声を上げた娘は、太い蛇尾を出現させると、電光石火の速さで少年の首に巻き付けた――。

 

 

 

 

「リードさま」

 

 部下に呼び止められ、アレンの父は足を止めた。折り目正しく着こなした軍服の下に、引き締まった体躯(たいく)がある。人間の体脂肪率を極限まで擦り減らした男の眼差しが、鋭く部下をふり返る。

 

「先程、アレンさまが無事に戻られたようです」

 

「……ほぅ! ついにやりおったか、あやつめ!」

 

 父が口端を三日月状につり上げると、満足そうに喉を鳴らした。

 左手の窓から青空を見上げる。陽が昇ったと言うのに、まだ白い月が浮かんでいた。

 父は部下に問いかけた。

 

「人を喰うのはなにか、知っているか?」

 

 突然の問いに、部下は当惑しながらも答えた。――欲、でございましょうか? と。

 父は一層笑みを深くしながら、首を横に振る。

 

「鬼よ……。人を喰らうは、古来より鬼の所業。情けを捨てれば、鬼の道を行く一歩となる」

 

「……鬼の、道……」

 

「そう。そして人の上に立つ者も、鬼でなければ務まらぬ。だが、あれは甘い。剣の腕は一流でも、情けを捨てきれずに居る。人のままでは、世に跋扈する鬼どもとは渡り合えぬというのに。

 なれば、あれの人の部分を鬼に育て上げるのが親の務め。こたびは、そのための試練ぞ」

 

 父が喉を鳴らす。

 ――カガチ人は、銀河連邦軍がいまだ解析できない特殊な会話法にて意志疎通を図る。その術を戦場に持ち込まれては、父の率いる軍勢が、甚大な被害を受ける火種となるのだ。

 

 銀河最強は、『地球人』でなければならない。

 

 情を捨て鬼と成った父は、脅威に対して一切手を抜かない。

 ゆえに、

 父は視線を左に転じた。机に花を一輪、差してある。

 今日、これをやっと捨てられるのだ。

 

「蛇の生殺しは人を咬(か)む、か……。覚えておかねばな」

 

 

 

 

「どうして……?」

 

 アレンは問う。

 目の前に娘がいた。その場に蹲(うずくま)り、両手で顔を覆って泣き叫ぶ娘が。

 

「どうして俺を――」

 

 殺さない?

 

 彼の問いに答えず、燭台の突き刺さった、首に巻き付いた蛇尾がゆるりとほどけていく。くず折れたアレンは蛇尾から抜けた燭台を握りしめたまま、娘をじっと見据える。

 

「ふ、ふふ――」

 

 娘が喉を鳴らした。

 顔を覆っていた手を退けて、娘は静かに喉を鳴らす。

 アレンは床に手をついて、咳き込みながらも体を起こした。両腕は崩れて原型がなく、わずかな接触でも激痛を伴う。

 娘は嗤(わら)い――微笑んだ。

 はじめの怯えた目ではなく、タルジュの花のように密やかに、慎ましく。

 

「ねえ、お母さま。そろそろお夜食の時間ですよ、起きてください」

 

 娘は朗らかに、床に倒れた母の下へ歩み寄った。蛇尾は人の足へと姿を変え、アレンが屋敷を訪れたときの姿で、母に話し掛けている。

 物言わぬ夫人へ。

 

「今日はフレーズからジャムを作ってみたの。お母さまが好きなフレーズの実よ。シャモアが昨日採って来てくれて――あ、そうだ! お父さまにもおもてなししなくちゃね。遠出の狩りに出て行かれたから、きっとお腹がすいているわ。バルマーイのソテーなんかいいと思うんだけど、どうかな?」

 

 アレンはうすら寒いものを感じながら、娘に声をかけた。

 

「おい、その人はもう――」

 

 死んでいる。

 俺が、

 ――殺した。

 

 直接言えず、アレンは唇を引き結んだ。喉が熱い。ずっと悪寒に震えていたのに、今はとてつもなく熱い。

 なにも考えられなかった。

 

 娘は、妹が作った曲を歌いだす。流麗で穏やかな旋律。黒い血と、見開かれた琥珀の目と、肉塊と化した夫人の死体がなければ――きっと美しく響いた音。

 

 その姿を見て、不意に理解できた。

 なぜ、自分がこの屋敷に呼ばれたのか。

 なぜ、夫人があれほど怒り狂っていたのか。

 だれもいない屋敷のなか。五年前、父がここで、一体なにをしたのか――。

 いま彼女を見逃したところで、もはやカガチ人に逃げ場など、ない。

 

「――ねえお母さま、シャモアの新曲お聞きになった? すごく穏やかで流麗なの。きっと皆も気に入るわ」

 

 娘は終わらぬ地獄をまえに、心折れてしまった。

 拳を握った。

 アレンは強く、拳を握りしめた。

 彼女を壊し――狂わせ、失わせたのは――ほかでもない。

 

「ねえ、綺麗でしょう? シャモアはね、こんなの子どもっぽい曲だって言って、続きを作ってくれないの。でも、私はとても気に入ってるわ。――ねえお母さま、今度のお祭り、この曲はいかがかしら?」

 

 娘の弾む声を聞きながら、アレンは項垂れた。

 

(――すまない)

 

 謝っても無駄だ、殺した事実は変わらない。変えられない。

 彼女を壊し、

 彼女から母を、最後の家族を奪ったのは――

 

(――俺は、あなたの――)

 

 あのとき大人しくしていれば、こんな姿を見ずに済んだ。

 だが――なにも知らないまま、アレンは死を選べなかった。きっと――すべてを知った、いまでも。

 

「ねえ、お母さま」

 ――コ……テ、

 

 カガチ人は、銀河連邦軍がいまだ解析できない特殊な会話法にて意志疎通を図る。

 その存在を、父は決して許さない。

 アレンは視線を上げ、どこからともなく聞こえてくる『声』に耳を澄ませて――、顔を引きつらせた。

 

「庭のタルジュがね、少しずつ芽吹いてきたの」

 

(――出来ない、それだけは)

 

 彼は首を振った。

 

 ――コロし……テ、

 

 唇を噛んだ。 

 ――視界が滲む。

 

 

 

 ――情けを捨てよ。

 

 父の言葉が脳裡をかすめる。

 ここで見逃せば、べつの者が彼女を殺しにくる。彼女が斃れるまで、何度でも、何年でも、何人がかりでも。

 アレンは震える手で、燭台を握った。だが彼には、これを振り下ろす覚悟など――ない。

 

 

 

 ――オネガ、イ……

 

 

 『声』が言う。

 

「たたか、って……くだ、さい。あなたに、情けがあるのなら」

 

 次第に、娘の瞳が光を取り戻し始めた。

 その琥珀の瞳が合った途端、震えがぴたりと止まった。

 

(情けが――……)

 

 アレンは心のなかでつぶやき、燭台を握りしめた。蒼瞳が力を宿す。娘を見据え返した。

 娘はタルジュのように穏やかに微笑み、自分の足を蛇尾へと変える。

 

 そして――高く、鋭く威嚇の声を吐いた。

 

 迫り来る蛇尾を見据え、アレンも駆る。

 

 

 暗闇のなかに、黒い血が飛ぶ。

 心臓を貫かれた二人目の女が、どっと――石床に倒れて動かなくなる。

 

 女たちの遺体を見据えて――、アレンは拳を握った。固く、固く。

 月が薄く、青い闇を照らしだす。

 彼は月に向かって喉が割れんばかりに吼(ほ)えた。

 

 

 

 ――あリガ、とう……

 

 蛇の夜は、こうして終わりを告げた。

 惑星ウーアにのみ群生する花、タルジュ。

 エーリカの誕生祝いにアレンが渡したこの花自身は、『希望、慰め、逆境のなかの希望』の象徴だ。しかし、この花はある行為によって、その意味が大きく異なってしまう。

 

 アレンはタルジュを、どうあってもエーリカに贈るべきではなかったのだ。それはウーアの民のなかでは常識だった。

 なぜならこのタルジュを他人に贈った場合、

 

 

 

 

 

 

『あなたの死を、望みます』

 

 

 

 

 

 

「よくぞ情けを捨て斬った、アレン」

 

 父と立ち合う、いつもの道場で。 

 アレンが固く、拳を握りしめた。同時に振り切る。

 

 轟音が立った。 

 

 みしみしと音を立てる己の手。父が目を見開く。繰り出された息子の拳を、片手で握っていた。だが止めた父の掌から、白い煙が立ち昇る。肉を焦がすほどの衝撃。それほど鋭い、息子の正拳突きだった。

 

「なんのつもりだ、アレンよ」

「………………ゆえに斬ったのです……」

「なに?」

 

 震える声でつぶやく息子に、父が首を傾げた。

 途端。澄んだ蒼い瞳が、怒りを湛(たた)えて父を睨んだ。

 

「情けゆえに、斬ったのです!」

 

 圧倒的な剣気。

 アレンの気迫に押され、父がわずかに目を見開いた。凛と、道場に静寂が舞い降りる。

 汚れを知らぬ蒼の高潔さは、父にタルジュの花を想起させた。

 

 ウーアの象徴たるその花は、白く、清らかなユリ科の花。

 それは風にそよいで、月の下で可憐に咲く。

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