【SO3】聖王国の紅刃が堕ちるとき~背徳の淫紋から始まる英雄救済譚~【IF】 作:ばんどう
ネルは資料室に続く木製扉を両手で開けて、古びたオーク製の板張りを踏みしめる。
古書の甘く乾いた匂いと、年季の入った木と薬品の香りが鼻腔を満たす。
施術開発研究室、資料室。
その一角にある紙の墓場に身を沈めたエレナがゆっくり顔をあげてきて、アレンを見るや驚いたように口を丸くした。
「あれ~? アレンくん、もう戻ってきたの? それに、クリムゾンブレイドのおふたりまで連れちゃって」
「エレナ女史。すみませんが、ふたりの施文を診ていただけませんか?」
灰色がかった人懐こい瞳が、こちらを見てくる。いつも通りの眠たげな目許が、ネルの額と、クレアの右手首に刻まれた施紋を見るなり、きりりとつり上がった。
「…………これは、呪いね……」
「どういうことです?」
ネルたちの顔に緊張が走る。
エレナは神妙な面持ちで細い顎に手を添えると、研究職らしい生白い顔をうつむかせ、ネル、アレン、クレアを順に指さした。
「ネルさんは大丈夫。アレンくんと同じで、施文は『従』の立場だもの。けれど、クレアさんは……」
アレンとネルが視線を交わし、同時にクレアを見た。
クレアが不安を押し殺すように胸もとに固く手を置いたまま、一歩前に出る。その瞳は、エレナの言葉の真意を探るかのように鋭く光っている。
「具体的にどういった呪いが私にかかっているのか、教えていただけませんか。エレナさま」
「…………月の洞窟で異常があった、ってアレンくんから聞いているわ。そのときクレアさん、
クレアが無言のまま、唇を震わせる。心当たりがあるらしかった。
アレンが隣に立ち、クレアが彼を見上げる。アレンがわずかにうなずくと、クレアの瞳に冷静さが宿り、エレナをまっすぐに見た。
「ええ。洞窟を覆っていた海藻のようなものに襲われました。それがこの施文の、呪いの正体、ということですか?」
「そうよ。アレンくんが起動装置となる偽のご神体を壊しているから呪いの効力はなくなっているけどね。淫紋だけじゃなく、クレアさんの施文には『隷属の呪』が組み込まれていたみたい。相手の意志を奪い、操るためのものよ――とても、悪質な」
クレアが一瞬、不快げに眉をしかめた。無意識に、右手首の施文を握りしめている。
「…………つまり何者かが、クレアを施文で手籠めにしようと企てたってこと……?」
思わずネルがつぶやくと、エレナがうなずいてくる。背筋に、悪寒が走った。
アレンが考え込むようにうつむいたまま、エレナに問いかける。
「しかし、エレナ女史。あのとき洞窟内に我々以外の人間の気配はありませんでした。クレアさんの『発作』が起きてからはその、確実に追えていたとは言い難いのですが……。その前後の索敵で、見逃したとは考えづらい」
「おそらくクレアさんを一日放置してから、ゆっくり手に入れようとしたんじゃない? 隷呪は像に近寄ったとき、自動的に発動するようになっている。一緒に行ってよかったわね。アレンくん」
「……お父さまに洞窟の話をした者を追わないと……」
クレアが蒼白になった顔でつぶやく。
ネルは一も二もなくうなずいた。
「そうだね。封魔師団に任せて」
「待て、ネル」
「なに? クリムゾンブレイドに喧嘩を売った不届き者、一刻も早く捕まえたほうが世のため、ひとのためだろ?」
「それには賛成だが、まだ大きく動くな。俺とクレアさんが洞窟に行ったのは昨日のことだ。呪いを設置した人間が、これから洞窟に行くかもしれない」
「けど、クレアが王都に帰ってきてることは……」
言いかけて、ネルはハッとした。
今朝のクレアは体調が悪かった。
光牙師団はいま、アドレーが率いているのだ。
「呪いをかけたやつと、すれ違ってないことを祈りたいね」
「ああ」
前を見据えるアレンの蒼瞳は、恐ろしく冷え切っていた。
ネルは久しぶりに感じるこの男の殺気に冷や汗がにじむのを感じながら、口端をつり上げる。
(ホントに馬鹿なことをするやつがいたもんだ……。まさか
この男の容赦のなさは骨身に染みて知っている。
唯一、知らなさそうなクレアが、わずかに頬を染めて、心配そうにアレンの袖を引いていた。
「あの、アレンさん……。いまのあなたは施文も術も使えない状態です。無理をしては――」
「ご心配なく。この刀があれば、戦えます」
「私も行くよ。クレアをこんな目に遭わせたやつ、この手で殺らないと気が済まないからね」
「ああ」
意見がまとまって、ふたり、出ていこうとしたところでエレナが止めた。
「犯人探しも大事だけど、あなたたちは『月の紋章』を解くことも考えておきなさい。
それは聖なる祝福がゆがんだ呪い――魂の乖離を正し、三人の魂を共鳴させることで解けるわ。特にクレアさんの『主』の施文は、あなたたち『従』の施文が心から受け入れることで、はじめて正常になるのよ」
エレナはそう言って、クレア、アレン、ネルを順にみる。
アレンが尋ねた。
「具体的に、どうすれば?」
「月の洞窟の地下に迷宮がある。そこで『風の試練』を受けてみて。きっとあなたたちの間で真の絆が生まれるはずよ。……ただし、この試練は互いの心の奥底を暴かれる過酷なもの。くれぐれも気を付けてね」
「エレナ女史、それは途中で辞めることも可能ですか?」
アレンの問いに、エレナは首を横にふった。
「いいえ、アレンくん。途中で辞めても呪いは解けないわ。
この試練は感情の浄化と共鳴を促すための儀式。互いを傷つけ合うのではなく、魂を響かせ合うための対話――それが試練の本質よ。
だから、あなたが心配していることが起きるとは限らないわ。むしろあなたのトラウマは、ひとりで抱えるものじゃない。クレアさんやネルさんと真に共鳴し、互いを受け入れることで呪いを解く『鍵』になるの。そうやって、真の絆が生まれるのよ」
アレンが考え込むようにうつむく。すべてを語らずとも、みずからのトラウマが、ネルやクレアを傷つけることを恐れている、とネルもクレアも理解した。
「……エレナ女史の言う通り、俺のトラウマは、だれかに寄りかかられることを拒みます。だが、その弱さがクレアさんやネルを縛り続けるのなら、逃げるという選択肢はない」
アレンは顔をあげた。その蒼瞳に、迷いはなかった。
「……試練を受けます。この呪いを解くため、そして、あなたがたと真に心を通わせるために」
「アレン!」
ネルが驚きと安堵の混じった声を上げた。クレアもまた、アレンの覚悟に、そっと胸に手を当てる。
「エレナ女史、我々は月の洞窟に向かいます。そこに呪いをかけた当事者がいたなら討伐し、そうでなければ地下迷宮に潜ってきます。犯人探しは、この試練を乗り越え、力を取り戻してからでも遅くはない」
「まさか、あんたが先にそっちを選ぶとはね。しょうがない、私も付き合ってやるよ」
「私も行きます。三人の真なる絆、というのがどういうものかはわかりかねますが。当事者として事態をただ見守るわけにはいかないもの。ね? ネル」
「しょーがないね……。クレア、あんたも施術は使えないんだ。無茶するんじゃないよ?」
「ええ。ありがとう」
三人のやり取りを見て、エレナが優しく微笑んだ。
「三人とも、充分に気を付けてね。アペリスの加護があらんことを」
「アペリスのご加護がありますように」
クレアとネルが同時に答え、アレンもシーハーツ式敬礼を取る。三人は、決意を胸に研究室を後にした。
彼らが城を出て、月の洞窟へと向かう道のりは、もはや『魔物の調査』などではない。
己の魂の深奥を暴かれ、互いの全てを受け入れる覚悟を試される、真の『試練』へと向かうのだ。
その頃。
だれもいない白露の庭園に、甘く、そしてどこか耳障りな『歌』が響いていた。
城の尖塔に腰かけた女は、豊満な肉体を黒いレザースーツに包み、長い銀髪を風の赴くままにそよがせている。桜色の小さな唇が、歌をつむぐ。その旋律は、洞窟で流れた忌まわしい儀式の残響だ。女は楽しげに、それをなぞっていた。
彼女の琥珀色の瞳はただまっすぐに、城を出ていく青年の背中を追いかけている。
その目には、アレンの手首に刻まれた『従』の施文が、奇妙な光を放っているのが、遠くからもはっきりと見えていた。