【SO3】聖王国の紅刃が堕ちるとき~背徳の淫紋から始まる英雄救済譚~【IF】 作:ばんどう
エレナの導きに従って、アレンはふたたび月の洞窟に足を踏み入れた。
かつて足許を絡め取った海藻は消え失せ、床には荒れた岩場だけが残る。
「だれも、いないね……」
ネルが辺りを見渡してつぶやく。
祠の破壊跡もそのままだ。倒れた男神像の顔は砕け、こちらを睨むような角度で横たわっていた。
アレンが破片に手を伸ばしかけたそのとき――指先に、風が触れた。
紋章力の流れだ。
男神像が載っていた台座を手で押して、ずらしてみると、下から一枚の石板が現れてきた。石板全体に描かれた紋章陣は古く、アレンの知識をもってしても読めない文字で覆われている。
アレンがふたりを見上げた。
「……これが地下迷宮への入口だ。準備はいいか?」
「ずいぶん凝った仕掛けだね」
「ええ。アレンさん、行きましょう」
ふたりのうなずきに応え、アレンは左手首の月の紋章を石板にかざす。
その瞬間、紋章陣が静かに脈動し始め、石板は低い音を立ててゆっくりと沈み込んでいく。
そこから現れたのは、漆黒の通路だ。奥から、冷たい風が吹きつけてくる。まるで人肌を模したような、生暖かさをはらんだ風だった。
「施術が使えないと、こういうとき不便だな」
「行くよ。クレア、アレン」
灯火が、黒い通路の先を淡く照らす。その先にあるのは、まだ『名前すら持たぬ感情』たちの迷宮である。
通路を抜けると、アレンたちは薄暗い石造りの部屋へとたどり着いた。人工的に削り出された壁面は、かつては装飾が施されていたであろう痕跡をわずかに残している。部屋の中央には、三つの石の台座が三角形を描くように配置されていた。それぞれの上に、淡く光る結晶の心臓が、宙に浮かんでいる。
心臓の核には淡く揺れる光が宿り、脈打つたびに淡紅、蒼白、金色と、その輝きの色をわずかに変えている。
ふと、部屋奥の壁に刻まれた、碑文が目に入った。長い年月を経て風化したその文字は、しかし読む者の胸に直接響くような、強い力を持っている。
――名を与えよ。汝が胸に灯るものに、明確な名を。
「こいつは……?」
ネルも碑文を読み、要領を得ずに首をかしげている。
アレンは碑文の続きを視線で追った。
――名を与えよ。汝が胸に灯るものに、明確な名を。
――曖昧なるは弱きを招き、無名は汝を迷わせる。
――己が感情の源流をたどり、その真の姿を言葉にせよ。
――言葉は力を生み、力は道を拓く。
碑文の下には、横一列に六つの言葉が刻まれていた。
『愛』『信頼』『執着』『憧れ』『責任』『欲望』
アレンが指でなぞると、それぞれの言葉が淡く光りを放つ。
「これは……私たちが心臓に与えるべき『名』ということでしょうか?」
「おそらく。そして、この三つの心臓に、それぞれ適切な『名』を反映させる必要がある、ということでしょう」
クレアに答えながら、アレンは考え込んだ。
ネルが「だったら悩むことはないね」と言って、結晶の心臓に手をかざす。彼女の額の紋章が共鳴するように輝き、『信頼』の文字が光った。しかし、それ以上はなんの反応もなく、心臓に反映させようと近づいた文字は跳ね返され、輝きを失って元いた位置に戻っていった。
「なんだい、これ? 選んだはずなのに、なんで跳ね返されるんだよ」
ネルがいぶかしげに心臓と台座を見る。
クレアが首を横にふった。
「みずからの心の奥底を覗いたうえで選べ、ということね。……私の施文が、それぞれの台座に触れろと語りかけてくる」
「大丈夫ですか、クレアさん」
『主』の施文と言われただけあって、一番強い共鳴を起こしているらしいクレアに問いかけると、クレアはこちらを見て微笑んだ。
「……ええ」
はにかんだような彼女の表情に、つられてアレンも破顔すると、クレアが唇を引き結んで目を伏せる。
「もし……」
ささやく彼女の言葉を聞こうと、わずかに屈む。遠慮がちに見上げてくるクレアが、右手を口許に当てて耳打ちしてきた。
「もし、なにかあっても……、アレンさんが助けてくれますよね……?」
くすぐったいほど遠慮がちな声で、当たり前のことを聞かれて目を丸くした。反射的に「もちろん」と答えようとしたアレンは、薄暗がりから見上げてくるクレアの瞳に、湿り気を帯びた熱を感じて、思わず息を呑んだ。
心臓が、音を立てる。
「……もちろんです」
平静を装って答えた。
暗がりで助かった、と思った。頬が熱くなっている。これくらいのことに動揺している自分に驚く。
クレアが嬉しそうに笑って、ネルに台座に手を置くよう、指示を出す。
ネルは不服そうな顔のまま、「わかったよ」と気だるげに一番左の台座に手をついた。
「こんなことで、なにがわかるっていうんだろうね?」
「さあな。だが、たしかにこの台座から――施力を感じる」
「ふたりとも、目を閉じて。精神を集中させて、この施文に応えるの」
クレアが言いながら、一番右の台座に手をつき、目を閉じる。アレンとネルもうなずいた。
やがて、左右の台座から光があふれだす。クレアの右手首とネルの額に刻まれた施文が、呼応するように輝きだしたのだ。
(精神感応の紋章術か……。あまり得意じゃないな)
アレンは小さく息を吐き、中央の台座に左手を置いて目を閉じる。
紋章が脈動し始め、力が流れてくる。
自分の意識が――深く、静かに落ちていくのを感じた。