【SO3】聖王国の紅刃が堕ちるとき~背徳の淫紋から始まる英雄救済譚~【IF】 作:ばんどう
目を閉じたはずなのに、まぶたの裏が明るい。
光が流れ込み、全身をふわりと持ち上げられるような浮遊感が走った。
そして、落ちる――。
足元に感触が戻ったとき、ネルはあの忌まわしい場所にいた。惑星ストリーム。荒廃した土地と砂塵に包まれた不吉な場所。
「ぐっ……!」
傍らでうめき声が立ち、すばやくふり返るとアレンが肩を押さえてうずくまっていた。
「アレン、どうしたんだいっ!」
呼びかけると、いつもは強い光を宿した蒼瞳が、濁ってこちらをすがるように見上げてくる。
闇が彼の周りを渦巻き始め、沈んでいく彼にとっさに手を伸ばした。
「アレンっ!」
だが、霧と化したアレンの腕をかすめただけで、つかめない。
その間にアレンは闇の渦に沈みゆく。取り返しのつかない深みに達してもなお、ネルは彼を引きずり上げようと、懸命に手を伸ばしていた。
(――あのときと、同じだ。)
ネルは思った。これはまさに、アレンが世界の敵『エクスキューショナー』に堕ちた瞬間の記憶である。
「こんなもの、いまさら一体なんだっていうんだい……!」
目の前の苦しむアレンが幻影であると気付くや、ネルは空に向かって吼えた。
ふと、碑文の文字が脳裏をよぎる。
――名を与えよ。汝の胸にあるものに――名を。
六つの言葉が、彼女の前に並ぶように現れてくる。
『愛』『信頼』『執着』『憧れ』『責任』『欲望』
ネルが忌々しげに舌打った。
「だから、何度も言わせんじゃないよ! 『信頼』。私はアレンを信頼してる」
声にした瞬間、『信頼』の文字が淡く光る。
だが――次の瞬間、その光は砕けるように散り、霧に溶けた。
「……たくっ、なんだってんだい……!」
クレアの言葉が脳裏をよぎる。
『みずからの心の奥底を覗いたうえで選べ』。
ネルは唇を噛みしめる。これでは彼への信頼が偽りだと言われているようで不快だった。
そもそもアレンとネルは『従』の施文を刻まれ、クレアが『主』であるのに、なぜネルの心を向ける先がクレアではなくアレンなのか? と疑問と不満がふつふつ湧いてくる。
仕方なく、ゆっくり息を吐いて集中する。
最初にあの男と衝突したのは、フェイトをめぐってのことだ。
「たった一人の人間と国民全体の命。単純な計算だろ? どっちが大事かは子どもでも分かるさ」
「俺は
兵士であるからこそ、個人を見捨てない――そう言い切り、実行したアレンの強さに、ネルが感じたもの。
頭のなかに、あの旅の日々がよみがえる。
アレンの背中。戦う姿。危険なときに差し伸べられた手。
――強く、頼もしく、いつもみんなの先を示す彼。
「憧れ……かな……?」
自然と口をついて出た言葉に呼応し、『憧れ』の文字が光り、また砕けた。
ネルは押し黙って考え込む。
「だとしたら、責任……だね。あのとき、私が助けられなかったから――」
砕ける。
ひとつ、ひとつ、選んでは拒まれ、ネルの胸がざわめいていく。
残る感情の言葉が不穏だった。
『愛』『執着』『欲望』
アレンは、クレアの想い人だ。
どれも抱いてはならない想いであり、ネルが知らなくていい感情だった。
(仲間で良いだろ……。私はそれで、なんの不満もない……っ!)
心臓が嫌な音を立てる。
この試練で淫紋が解けたとて――その先は、考えたくもない未来だ。
いつしかストリームの荒野は霧に覆われ、ネルは水溜まりのなかに立ち尽くしていた。雨が降っている。頬を涙が伝う感触が、ネルの意識を現実に引き寄せる。
「じゃあ、私の感情が……愛だとでも?」
皮肉気に笑って、愛の言葉を持つと、言葉はあっけなく砕けていった。
「……ネル」
背中から抱きしめられて、ネルは諦めたように「ああ」とつぶやいた。
これは幻だ。すぐにわかった。それでも覚えのある香りに包まれて、強く安心した自分がいる。幻のアレンは、本物と寸分違わぬ温もりで頭を撫でてきて、目尻に溜まった涙を優しく払った。
心臓が、とくんとくんと音を立てている。
ネルがごまかすようにぼやいた。
「ほんとさ……。この試練、わけがわかんないんだよ」
「そうだな。お前はいつだって『仲間想い』なのに」
アレンが苦笑してくる。時折見せる、やわらかい微笑みだ。嬉しい。
この苦しみを、彼ならわかってくれる気がした。大戦中ネルが抱えた苦しみを、すぐに見抜いた彼なら――。
そこまで考えて、ネルは、はた、とまたたいた。
(もしかして――)
喉の奥が乾き、息が詰まる。
「……欲望?」
遠慮がちにささやく。言葉にするだけで、頬が熱くなる。
しかしその言葉も、砕けて消えていった。
思わず安堵の息がもれる。
しかし、ネルは残った言葉に再び緊張して、首をゆるく振った。
「違う、違うよ……。こんなの、私じゃない」
「それでも、お前は俺を追った。闇に沈む俺を、引き戻そうとした」
「そんなの、当たり前だろ……」
「なら、なぜいま、この手をふり払わないんだ?」
問われて、ネルが後ろをふり仰ぐ。
幻のアレンと目が合った途端、反射的に息を呑んだ。
「……あんた、幻のくせに本物に似て、意地が悪いね。クレアの嫉妬にも気付かない鈍感クソ悪魔のくせにさ」
思わず軽口がついてでる。本物のアレンなら、きっとネルの心をこんなに的確に察してこないだろう。
小さく笑って、ネルは目を閉じる。
(けど、もしあのとき――仲間が私を止めなかったら……こいつと一緒に、私はあの闇のなかに、落ちようとした……? アレンを追って……)
首許に巻き付いたアレンの腕に手をやる。失いたくない、とあのとき思ったのは真実だ。
アレンがもたらす安心感に、寄りかかっていたかった。
「これが、執着……?」
口に出した途端、霧が揺れる。
まるでその言葉だけが、霧の中に確かな輪郭を持っていたかのように。
『執着』の文字が、深い紅に輝く。
――名を与えよ。汝が胸に灯るものに、明確な名を。
まぶたの裏に浮かぶ碑文に、ネルは目を閉じて小さくうなずいた。
「……私はアレンに、執着してたんだ」
その瞬間、霧が音を立てて崩れ落ち、世界が光に包まれる。
重くのしかかっていた何かが、すっと抜け落ちた。
額の紋章が、脈動しながら淡く輝き、そして静かに鎮まっていく。
ネルは目を開けた。
そこにはもう、アレンの幻影はいなかった。
ただ、静けさと、少しだけ軽くなった心だけが残っていた。