【SO3】聖王国の紅刃が堕ちるとき~背徳の淫紋から始まる英雄救済譚~【IF】 作:ばんどう
小鳥のさえずりが、意識を浮上させる。
馴染み深い絹の感触が、全身を包み込んでいる。実家の寝台だ。どこよりも安心できるぬくもりと香りに、クレアは全身を預けている。
「んぅ……」
意識は覚醒してきているが、まどろみをふり払うには至らない。仰向けから体を右に向けて背中を丸めると、ふたたび眠りにつこうとして、つー、と頬を撫でられた。
枕元のマットが沈み込んでいく。
「……?」
「おはよう。今日はずいぶんお寝坊さんだな」
(誰?)
ラーズバード家のメイドにしては低い声。けれど安心する香り――とぼんやり考えていたクレアは、ふいに上掛をはねのけて起き上がった。
「ア、ア、アレ……さっ……!?」
寝起きの髪を整えんと、暴れる心臓をそのままに、両手で頭を押さえつける。
クレアの枕元に腰かけたアレンは、目を丸くして微笑んだ。
「どうしたんだ、クレア。怖い夢でも見たのか?」
「え? ……え?」
状況を呑み込もうと思考を空転させている間に、抱きしめられる。
こめかみに頬を寄せられ、アレンがささやいてきた。
「――それとも昨日、無理をさせすぎたか?」
背中にまわった彼の指先が、そーっとクレアの細いウエストから引き締まった丸いヒップをさすってきて、背筋がぞくりと粟立つ。彼女はそこで初めて、自分が布ひとつまとっていない姿であることに気づいた。
胸元を見下せば、まっ白なふっくらと張りのある乳房に、小さな鬱血痕があちこち散りばめられている。彼女の乳首はあきらかにいつも色濃く、尖っており、彼の指先がもたらす快楽に自然と力が抜けて、甘い声が洩れた。
(え、えぇええっ?)
焦りと混乱と喜びで、クレアの頬が急速に染まっていく。
耳元で、アレンが小さく笑った。
「朝食ならできてる。ここに持ってこようか?」
こめかみに口付けられ、アレンが少し離れてクレアの顔を覗き込んできた。
クレアは声にもならない声をもらすまいと両手で口許を押さえて、アレンを見る。――どこか雰囲気が違う。愛おしむような視線を送ってくることもそうだが、彼の顔つきが大人びている。服装もラフだ。
極めつけは彼の指と自分の指に、
――名を与えよ。汝の胸にあるものに、名を。
ふと、この寝室にくるまえに見た碑文が脳裏をよぎる。
(な、なるほど……! ここは風の試練のなか、目のまえのアレンさんは幻ということ……)
「クレア?」
(はうっ!)
不意打ちで名前を呼ばれて、クレアは思わず口許を押さえた。にやつきをこらえ切れず、ぷるぷる全身を震わせている。
ネルのように親しく呼んでほしくてあれこれ遠回しに催促しても『クレアさん』の位置から逃れられない現実は一旦、脇に置いた。
(……これって、試練に応えてしまったら、このアレンさんとはもう会えないのよね……?)
二、三年後くらいの姿だろうか。
いまよりさらに顔も体つきも精悍になった彼をまじまじと見つめて、頬の火照りを抑えるために両手を当てる。
結婚指輪までして、クレアの寝室に堂々と来たということは、――
絶対口に出しては言えないが、『無理をさせすぎた昨日』とやらが気になって仕方がないクレアは、愛想笑いを返しつつ、こほんと咳払いして幻のアレンを盗み見た。
「そ、その……。朝食を、ここでアレンさんと食べてもいいですか……?」
緊張をまぎらわせようと、両手の人差し指を突き合わせる。
アレンが察したように笑って、クレアの顎先に触れてきた。上向けられたクレアの唇に唇が重なって、さらに何度も食まれ、クレアがぼうぜんと見つめている間にアレンが離れていく。
「了解、お姫様」
(はぅぅっ!)
予想外のときめきに、クレアはアレンが寝室を出ていくのを待ってから、寝台に突っ伏し、手足をばたつかせた。さすがに裸は恥ずかしくなって、上掛をかぶりこむ。
きょろきょろと周りを見渡せば、いつものナイトガウンが目に入った。
「な、なんて恐ろしい試練なの……! ……抜け出せる気がしない……っ」
両手で顔を押さえて、悶絶する。
その際、指輪の感触が頬に当たって、彼女はそれをあらためて見た。武骨なシルバーリングだ。さすがにアレンに理想を重ねすぎているからか、装飾ひとつない。それでも宝物のように握りしめて、クレアは目を伏せた。
ナイトガウンを羽織る。
少しして、アレンが朝食を手に戻ってきた。
寝室の丸テーブルに朝食を広げて、ふたりで囲む。幸せだった。
「ふふっ」
「今日はずいぶん機嫌がいいな」
「……それって、いつもは機嫌が悪いということですか?」
ふと、クレアが不機嫌になると怯えた顔をする現実のアレンを思い出して、唇を突き出した。
幻のアレンはクレアの指先に指を絡めて、首を横にふる。
「いつもはかわいい」
(ぐぅぅぅっ……! ……もう、こんなの。……本当に、なんなの、このひと)
幻のアレンをまえに、クレアはまったく平静でいられる気がしない。
本当にこんな一面があるのか疑わしいアレンの甘い言葉を、全力で欲しがっている自分を自覚する。
――汝の抱く感情を選べ。
『愛』『信頼』『執着』『憧れ』『責任』『欲望』
どれかひとつをはっきり選ぶには、感情がぐちゃぐちゃだった。――決して、試練を長引かせたいわけではなく。
だれにともなく言い訳をして、クレアはこほんと咳払いしてからアレンを見上げた。
「そ、そういえば……ネルはどうしているかしら?」
試練には三人で入ったのに、この幻のなかにネルはいない。
場所がクレアの寝室なのだから、それは当たり前のことだが、このアレンがなんと答えるのか興味があった。
アレンはネルの名前を聞くと、それまで温もりのあった視線を急にそっけなくして、こともなく言った。
「ネル? 彼女はアーリグリフの漆黒団長に嫁いだだろう」
「え? でもマリアさんが……」
「マリアもフェイトもソフィアも、先日、星の外に帰ったばかりじゃないか。忘れたのか?」
仲間のことを特に関心も寄せずに語る男をまえにして、クレアは胸の奥底が冷えるのを感じた。
(……これは、幻だわ……)
クレアの心に、たしかに彼を独占したい気持ちはある。異性に優しくする彼を見て、やきもきしたことは一度や二度ではない。
だが同時に、仲間たちに惜しみない愛情や優しさをふりまく彼が、好きだった。
こんな冷たい顔は、見たくない――そう思った。
――汝の抱く感情を選べ。
『愛』『信頼』『執着』『憧れ』『責任』『欲望』
(わからない……。『信頼』は――ある。けど、それだけじゃなくて。『憧れ』てはいた。けれど、そんな遠い存在で、いてほしくはない……)
本当の感情を口にするには、クレアは臆病だった。
アレンに近づきたいと思う一方で、嫌われたくないと強く思い、それでも自分の意図と異なる反応が返ってくると拗ねてしまう。不安定な感情に押し流される。
(ふたりを巻き込んだ『責任』は感じてる……。私がどうにかしなくちゃいけない。けど、アレンさんへの気持ちは、そういうのじゃない)
クレアはもう、目のまえの幻を見ていなかった。
思い浮かぶのは、洞窟の一件のあと、視線が合うたび、深く見つめられて頬を染めるや、すぐ視線を外してしまう、照れた本物の反応だ。
(これは『執着』かもしれないけど、きっと違う。私はアレンさんに、ずっと同じままでいてほしいわけじゃない。その先も、ずっと――)
『愛』と『欲望』のふたつが、クレアの目に留まる。
この感情を、『愛』と名付けるには勇気がいった。そして『欲望』と名付けてしまうのは敗北のように感じる。
クレアは眉をひそめて、苦しげにつぶやいた。
「……わからない。でも……わたしは、あなたに触れてほしい、ずっと一緒にいたいって、思ってる。それだけは、嘘じゃない……!」
幻の指輪を握りしめる。
碑文と、クレアの右手首の施文が輝き、景色が揺らいでいく。
光があふれる。まるで朝焼けのような、けれど熱も影もない純粋な輝きが、寝室を包み込んでいく。
幻のアレンが、光のなかでこちらに手を伸ばす。けれど、どこか寂しげに笑った。
「……クレア」
その声に、胸が痛んだ。
だが彼女はもう、目をそらさなかった。揺れるまなざしで、まっすぐ彼を見返す。
「さようなら……私の、願い」
幻の彼が微笑んで、うなずいた。
ふと指輪が、指からこつりと落ちる。銀の輪が床で小さく転がる音が、やけに澄んで聞こえた。
すべてがほどけていく――光とともに、優しい幻は音もなく崩れていった。
目を開ければ、そこは石造りの地下迷宮。
クレアの視線の先には、精神世界に向かう前に見た台座と、そのうえに浮かぶ水晶の心臓がある。
透明だった水晶の心臓はいま、感情を与えられ、鼓動を打つようにきらめていた。
それはただ純粋な白の光を放つかと思えば、その奥底から燃えるような橙の炎が揺らめく。二つの色が混じり合い、時に琥珀のように温かく、時に桃色の霞のように繊細に、あるいは力強い脈動を伴って輝いていた。
クレアは、その光景をじっと見つめる。それは彼への想いが昇華して、ひとつの光となったようだった。
「クレア!」
ネルの切迫した声が、薄暗い石室内に響く。彼女の瞳は、まるでクレアが死の淵から生還したかのように、安堵と、わずかな動揺で揺れていた。
クレアは自分の右手に目をやる。そこには、まだあの武骨なシルバーリングの感触が残っている気がした。幻影の指輪は、確かに指から落ちたはずなのに、彼女の心の奥にはその重みが刻み込まれていた。
(私は……もう、嘘はつけない)
胸に宿る熱はまだ消えていない。
迷いも未練も残っている。けれど、試練を受けるまえとは違っていた。
言葉にしたことで、もう目をそらせないのだ。
こつ、とクレアの近くで靴音が響いた。
クレアはそちらを見やり、口許にうっすら笑みを浮かべる。
「ふたりとも、無事だったのね」
彼らがどの感情を選び、どんな試練を乗り越えたのか、興味があった。
この先、彼らを待つものが、彼女自身が乗り越えた試練よりもさらに深く、そして避けられない「真実」へと続く道であることに、クレアはまだ気づいていない。