【SO3】聖王国の紅刃が堕ちるとき~背徳の淫紋から始まる英雄救済譚~【IF】 作:ばんどう
――もしも、あのとき。
すがりついてくる淫魔の蜂腰を抱きかかえ、重なる体ごとゆるやかに起き上がる。鼻腔をかすめる香りは、あのときの総司令官そのものだ。やわらかで繊細な銀髪も、すいつくような肌の感触も、洞窟での出来事が己の内でいかに深く焼き付いているかを思い知らされる。
人肌の温もりを味わいながら、体勢を入れ替え、淫魔の体をベッドに沈めた。驚きに目をみはっているその顔を見下しつつ、ウエストを飾る黒紐に指をかけて、ひとつずつ丁寧に解いていく。
「…………アレンさん……?」
揺れる淫魔の瞳に、視線を送った。体の一つ一つを確かめているアレンに、戸惑っているような顔だった。頬を赤らめ、期待に潤んだ琥珀色の瞳をこちらに向けながら、小首をかしげている。記憶の中の仕草と同じで、胸の奥に痺れが走った。
天蓋付きベッドを囲う燭台の灯りが、桜色の唇を照らしている。ほの暗い室内に浮かぶ、白い顎先に指を添えて、導かれるように唇に吸い付く。
「んっ、ふっ……」
やわらかな肉感を確かめるように、唇同士を撫で合わせた。じわじわと互いの唇を食みあい、やがて舌先を絡ませ合う。女の甘い唾液を味わいながら、アレンは解いた黒紐の合間に指を滑り込ませる。すべらかなウエストの中心で、小さなへその縦割れが指にかかる。なだらかな稜線。皮膚の薄い脇腹をたどれば、淫魔が悩ましげな吐息を洩らした。
彼女のレザージャケットがはらりと白い肌のうえを滑り落ちて、黒いホットパンツに包まれた無防備な腰回りが、燭光のなかに照らし出される。
(――エリクールに、革はなかったな……)
赤いベルトに手をかけながら、アレンはぽつりと思った。正確にはシーハーツ周辺のヒューマン文化圏にレザー製の服がないだけなのだが、それがクレアらしからぬ雰囲気をまとわせている。ベルトを解きつつ、もし彼女が連邦に来たなら、こんな風になるのだろうか。そんなとりとめのない思いが、指の動きとともに流れていった。
「アレンさん、…………好きです……」
ふいに口付けの合間にささやかれ、鼓動が高鳴った。見れば、淫魔の瞳がきらきらと輝き、細く形のいい眉がハの字に垂れ下がっている。彼女の恥じらう表情をまえに全身が総毛立った。
「俺は――!」
胸に鋭い痛みが走る。つっかえて、そのさきは言葉にならない。淫魔相手なのはわかっている。本人ではない幻に、胸の奥底の願望を言わせているのかと思うと、苦しさがこみ上げてくる。
「おれは……」
とっさに淫魔から離れて、うなだれた。熱を帯びた彼女の肌が名残惜しく、指先にじんと痛みが残る。それでも、寝台の縁に腰を下ろし、背を向けた。背後に、淫魔のかすかな吐息だけが漂っていた。
声が震える。堰を切ったように、胸の奥から言葉がこぼれ落ちた。
「……まもれなかったんだ……。みんなを、おれがっ」
――そうやってすべてを分かったような口で、なにもかも見下してりゃ楽しいかっ!?
――いままで自分が護ってきたもんを、自分で踏みつぶしておもしれえかよ!
――アレン! 目ぇ覚ませっ!
クリフの叱咤が、まだ耳に残っている。
自分をすくいあげてくれた憧れの軍人、ヴィスコム。彼の旗艦『アクアエリー』が破壊された瞬間、自分がテトラジェネシス旗艦『ソレイユ』を破壊した瞬間が、気を抜くと脳裏を駆け巡る。
戦っているときは、よかった。
『いま』だけに集中すればいい。
だが、力を失った『いま』は――?
身体の奥底から冷たい雫が広がっていくような感覚が、アレンを襲った。生きている意味が、薄れていく。己の存在理由が、足元から崩れ去るのを、ただ呆然と見つめることしかできない。
――情けを捨てよ。
父に言われ、父に認められたうえで母に会うために剣を振り――斬ってはならない者でさえ斬り殺した。
皆殺しのガード。
銀河連邦に歯向かうものをことごとく処断する始末屋。連邦軍大将という地位にありながら、政治的権力をも有する父は冷酷を極め、政敵の追放や財産没収を始め、『敵』とみなした相手を皆殺しにする。あらゆる手段を使う政略は、敵も味方もなく、『鬼神』と恐れられた。
一方で、その知略とカリスマ性で連邦の組織規模の拡大を十年早めた逸材でもある。アレンはその尖兵だった。
勝つことでしか己の存在を許されず。また、勝ち続けるだけの才能をもって生まれたアレンは、ヴィスコムと出会って初めて『護るための戦い』を教えられたのだ。
だが、その護るための戦いですら、己がエクスキューショナーとなったことで果たせなかった。
滅びた地球の心象風景のなかに、取り残されたままだ。
「――だったら、護ってよ」
「ネル……?」
凛とした、やわらかな声が耳に触れてくる。背中から抱きしめられて、ふり返るとネルがいた。
その声が、まるで遠い記憶の残滓のように、アレンの凍てついた心を微かに揺らす。護れなかった後悔に押しつぶされそうだった己に、微かな熱が戻ってくるのを感じた。
相手は本物ではない。淫魔同様、ネルの赤頭の左右には、黒い巻貝のような角が生えている。表情もどこか物憂げで、目尻に朱が引かれており、本物の精悍さより儚さが際立つ。
「お願いだから、私のことも護って。アレン……」
その言葉が、アレンの深い絶望の淵に、小さくも確かな灯りをともした。護る――その途方もない重みと、再び失敗するかもしれない恐怖が、胸の奥でせめぎ合う。それでも、護りたいと願う、抗いがたい衝動が、身体を奮い立たせる。
オレンジ色のみずみずしい唇が近づいてくる。
ネルも月の紋章に巻き込まれているのだから、この『風の試練』に現れてくることに疑問はない。だが『護って』と彼女が言うのは意外だった。黒い翼をもつ堕天使の姿をしたネルは、淫魔と違ってひかえめに唇に触れてくると、すぐに離れて目を伏せた。
どこか悲しみに暮れた表情だった。
(……これは、本当に俺の煩悩なのか?)
だが、ネルやクレアの心象を模した姿と言うには、あまりに目の前の幻影たちはエリクールに馴染まない。淫魔のレザースーツもそうだが、堕天使の白いミニドレスも、シーハーツには存在しない。
ただ『護って』と言われたことが、アレンの心を奮い立たせる力を持っている。
――もし、なにかあっても……、アレンさんが助けてくれますよね……?
試練のまえ、クレアがかけてきた言葉が、恥じらう顔が脳裏をよぎる。
砕けかけたおのれを、奮い立たせた。
「ネル、なにがあった? 『護る』とはなにから? どうして、そんな顔をしている?」
「アレン。……ずっと隠してたんだ。……本当は、あんたに触れたいって思ってた。ずっと前から」
思わぬ幻影の告白に目を見開く。
堕天使は目を伏せたまま、続けた。
「だけど、あんたが選ぶのはクレアでしょ? わかってるの。わかってるのに、来てしまった……。ごめんね」
「アレンさん」
幻影のネルに答えようとすると、反対側から淫魔の手が伸びてきて、唇を押さえた。すがるような瞳で、見つめてくる。
「お願い。行かないで、アレンさん」
――名を与えよ。汝が胸に灯るものに、明確な名を。
『愛』『信頼』『執着』『憧れ』『責任』『欲望』
アレンの脳裡に、石の台座に彫り込まれた碑文が思い浮かぶ。
(これは……クレアさんだけじゃない。ふたりをどうするのか、己の感情を辿れ、ということか)
間違えれば片方か、もしくは両方ともに傷つけてしまう。
淫魔と堕天使の潤んだ瞳を見据えて察したアレンは、固唾を呑み込んだ。
(……わからない。『愛』と言うには、感情がおぼつかない。ふたりにはいつも通り、元気に笑っていてほしい。ただそれだけでいいんだ。俺の、この感情は――)
『責任』の文字が目に留まる。己の心のみを想えば、もっともしっくりくる言葉だ。
だが、ふたりの顔を見るに、これを選べばどちらも傷つける。そんな気がした。
アレンが思考を深くめぐらせるそのとき、背後から抱きしめていた堕天使ネルが、そっと背中に顔を埋めてきた。
「……無理しないで、アレン。あんたは、いつもそう。最善の選択肢以外は無価値だって、自分を追い詰める。……だけどここでは、もう少しわがままになってもいいんだよ……」
儚いその声は彼の耳に、まるで遠い子守歌のように響いた。アレンの全身の力が、少しだけ抜ける。その刹那、アレンの顔を覗き込んでいた淫魔クレアの瞳が、さらに蠱惑的な輝きを帯びた。
「アレンさん、私を見つめて……? ちゃんと、私を感じてください……」
淫魔の唇が、アレンの唇に吸い付いた。その口付けは、先ほどよりも深く、そして熱く、アレンの意識を奪い去ろうとする。彼の舌が、ためらう間もなく彼女の口内へと引き込まれ、甘美な戦慄が全身を駆け巡る。同時に、背中の堕天使の抱擁が、まるで彼を慰めるかのように、しかし確実に、その身体を締め付けた。
堕天使の指先が、アレンの太ももをゆっくりと撫で上げる。
「……ねえ、アレン。あんたの『渇き』は、本当にそれだけ? 私が、もっと深く満たしてあげるのに……」
堕天使の冷たい囁きが、彼の耳に触れる。彼女の白い指は、アレンの腰から下腹部へとゆっくりと滑り込み、熱を帯びた肌に触れた。淫魔の熱い口付けと、堕天使の冷たい指の感触が、同時にアレンの感覚を掻き乱す。
(くそっ……! なんだ、この感情は……!)
ふたりの異なる誘惑が、彼の理性と本能を同時に攻め立ててくる。アレンは身動きひとつ取れないまま、その甘美で背徳的な『試練』の渦へと引きずり込まれていく。
彼が選ぶべき感情を、見つめる暇もなく。
体は、すでに二人の幻影に囚われていた。
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クレアとアレンの関係性が刺さる
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政争の深掘り
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