【SO3】聖王国の紅刃が堕ちるとき~背徳の淫紋から始まる英雄救済譚~【IF】 作:ばんどう
地下迷宮の石室内。
意識を取り戻したクレアとネルは、互いの無事を喜び合い、中央の台座に向かうアレンへと視線を向けた。
彼はまだ目覚めていない。台座に寄り掛かり、ずるりと床に座り込むようにして意識を失っている。呼吸は穏やかだが、その顔には深い精神世界に沈み込んでいるかのような、微かな苦悶と安堵が混じり合っていた。
彼の右手首に刻まれた月の紋章が、精神に呼応してほのかに輝いている。
台座に浮かぶ水晶の心臓も、透明なままだ。
(なら、さっきの足音は?)
クレアが周囲を見渡す。ふと、ネルが鋭い声を上げた。素早くふり返る。
「……こいつはっ!」
「ネル?」
ネルは自身の両手足を見て、絶句していた。無事だったはずの施文が、すべて消え失せている。
「そんな……っ」
クレアもつられて絶句した。これでは施力を失った者が三名。地下迷宮にくる前より、状況が悪化してしまっている。
――名を与えよ。汝が胸に灯るものに、明確な名を。
――曖昧なるは弱きを招き、無名は汝を迷わせる。
台座の碑文がふと目に入る。ネルも同じことを考えたらしく、蒼白な顔で唇を震わせていた。
「そんな……。私が、ためらったから……?」
ネルの水晶は紅色の輝きを放っている。彼女らしい、美しい色だ。それがどの感情に起因するのか、クレアにはわからない。少なくともクレアが選んだ、『愛』や『欲望』ではないことはたしかだった。
くすくすと笑い声が聞こえてきて中央の台座を見やると、意識を失ったアレンに寄り添うように、ネルと自分に似た『なにか』が、彼にまとわりついていた。
「なんだい、こいつはっ!?」
「アレンさんから離れなさいっ!」
ネルとクレアが、腰の短刀を油断なく引き抜く。
黒いレザースーツを着たクレアの幻影と、白いミニドレスを着たネルの幻影は、ふたりを挑発するように横目見て、それぞれ、アレンの左右の頬に口づける。
アレンがかすかに呻いた。
「行くよっ、クレア!」
「ええ! ネル!」
クレアが迷わず、幻影の自身の胸元目掛けて短刀を投げつけた。乾いた金属音が立つ。短刀は虚空を切り裂き、幻影の体をすり抜けて、背後の石壁に虚しく突き刺さったのだ。
「そんなっ……!?」
ネルが繰り出した短刀も、同じように虚しい音を立てて床に落ちた。刃は幻影の肌を一切傷つけることなく、風を斬るだけだ。
「私たちの刃が、通らない!?」
ふたりはいま、施力も気功も使えない。
幻影たちは、そんな二人の動揺を嘲笑うかのように、さらにアレンの体に深く身を寄せた。黒いレザースーツの幻影クレアがアレンのシャツをはだけ、その肌の感触を楽しむように腹筋に指を這わせる。白いミニドレスの幻影ネルが彼のひざ元に身を寄せ、まるでそこが自分の居場所だとでも言うように、彼の太腿を頬で撫でる。アレンの身体がかすかに震え、苦悶とは違う、快感に似た吐息を漏らした。
「アレンさんっ……!」
クレアが悲鳴に似た声を上げた。このままでは、アレンが何かの贄になってしまう。そんな悪寒が走る。
「ふふっ、そう慌てないで。彼は、ただ試練を受けているだけですよ」
幻影のクレアが、諭すように言ってくる。妖艶な微笑み。その琥珀色の瞳は、本物のクレアの奥底にある、最も深く秘めた欲望を映し出すかのように挑発的にきらめいている。
「さあ、見届けましょう? アレンさんの真実を。そして、あなたの知らない、あなた自身もね」
幻影のクレアがそう言って、彼の胸板に頬を寄せ、愛おしそうに指先で撫でる。
幻影のネルは冷たい微笑を浮かべていた。その手が上向けられると、中央の台座に浮かぶ透明の水晶が彼女の手許にやってきた。彼女のオレンジ色の唇が軽く口付けられると、石室の空気が軋んだ。
水晶が、白と黒の禍々しい輝きを放ち始める。
「月の紋章は、いまやみっつでひとつ。このアレンの魂には、あんたたちも関わっている。だから、あんたたちは見届けなきゃいけない……。それが次の試練だよ」
「見届けるだって? ふざけたことぬかしてんじゃないよ。アレンを離しなっ!」
ネルが怪訝な表情のまま、怒声を上げる。
そのとき、クレアとネルの足元から、黒い靄が立ち上り、一瞬のうちに二人の体を飲み込んだ。
「なっ……!?」
「きゃあっ!」
抗う間もなく、二人の意識は闇へと引きずり込まれていく。ふたりの脳裏には、幻影たちの蠱惑的な笑みが、意識を失ったままのアレンの顔が、最後の光景として焼き付いた。