【SO3】聖王国の紅刃が堕ちるとき~背徳の淫紋から始まる英雄救済譚~【IF】 作:ばんどう
廃教会のひんやりとした空気の中、クレアの荒い呼吸だけが響いていた。痛みの残滓に震える彼女を抱きしめ、アレンは目を閉じる。肌に触れるクレアのぬくもりと、自分を満たす充足感に浸っていたその時――司祭室の扉から、わずかな気配が動いた。
ネルだ。
わずかに開いた扉の隙間から、怯えた紫色の瞳がこちらを覗いている。その視線と目が合った瞬間、アレンは静かに微笑んで手招きした。しかし、ネルは息を呑んで目を見開く。強張った顔は動揺に震え、次の瞬間、扉が乱暴に閉まる鈍い音が響き渡った。
物音を立てて気配が去っていく。
絶頂後のまどろみのなかにいたクレアは、アレンにまたがったままハッとして背後をふり返った。
「ネルっ!?」
窓の外で、ネルが廃教会から走り去っていくのが見える。その姿は夜の闇に吸い込まれるように小さくなっていった。
「ネル!」
呼び止める声も、虚しく夜に散っていく。クレアの頬が震え、見る間に血の気が引いていく。
アレンは、一瞬だけ目の合ったネルの表情を思い出す。あれは試練で見た、堕天使の顔だ。あのネルが、なりふりかまわず逃げるとは――思っているより事態は深刻かもしれなかった。
「すこし、時間を置く必要がありますね。追いかけるにしても」
「それじゃあダメです!」
「え?」
クレアの声は涙に濡れ、息も上ずっている。胸の奥に溜め込んだ焦燥が、堰を切ったようにあふれ出していた。彼女は胸もとで拳を握りしめ、震える足腰でゆっくりとアレンから降りると、うるんだ瞳で必死に見上げてきた。
「アレンさん、お願い……。いますぐネルを追って」
「……いまは逆に追い詰めかねませんよ」
「それでも! あなたがいないとネルはっ……!」
涙混じりのクレアの叫びに、アレンはわずかに目を細める。この張りつめた顔には見覚えがあった。
精神世界でネルと交わる寸前に淫魔が見せた、押し殺したような、祈るような瞳。
紋章術で乱れた衣服を整えると、アレンの瞳に精悍さが戻る。
「わかりました。……行ってまいります」
長年、付き合いのあるふたりだ。アレンの知らない一面があるのかもしれない。
親指の腹でクレアの頬を拭うと、微笑んでみせた。
荒い呼吸が、夜の帳に溶けていく。ネルはただ、がむしゃらに駆け出していた。
足元の小石が跳ね、息苦しさが胸を焼く。冷たい土の匂いが鼻を突き、背後にある廃教会から、遠く離れた草むらに身を投げていた。
胸が痛い。走ったせいではない。
喉の奥がひどく軋んで、全身が鉛のように重い。
(どうして……私は、逃げたんだ)
わかっていた。クレアとアレンが結ばれることなど。
ただ目の当たりにした瞬間、心が耐えられなかった。胸を引き裂かれ、叫び出しそうになって――逃げだしていた。
逃げるしかなかった。
両腕で膝を抱え、冷たい土に額を押しつける。
自分でも信じられない。隠密である自分が、こんなにも無様に感情をかき乱されるなど。
情けなさがこみ上げてきて、肩が震えた。
(私なんか、いらない……最初からわかってたのに……どうして)
涙をこらえても、嗚咽が喉を突いてくる。
そのとき、背後の草がわずかに揺れた。気配が近づく。ネルは素早く座り直したものの、顔を上げられなかった。ただ、耳が勝手にその足音を拾ってしまう。
落ち着いた、聞き慣れた歩調。胸の奥がぎゅっと跳ねる。安堵と苛立ちが同時に押し寄せ、呼吸が乱れる。
「……こんなところにいたのか」
アレンの声だった。
「来ないで!」
反射的に鋭く叫ぶ。アレンがゆっくりとため息を吐いた。隣に腰かけてきながらつぶやいてくる。
「俺も少し待ったほうがいいって言ったんだが、クレアさんがどうしてもと」
いつも通りの調子だ。ネルの激情など、素知らぬ風だった。涙がじわりとあふれて、両腕にうずめた顔をさらに押し付ける。
「悪かった、ネル」
「……どうして、あんたが謝るの」
「お前の怖れに気づかずに、ことを進めてしまったから」
ぐっと喉が震えた。心のやわらかい部分を突き刺されているような気になる。
「…………あんたは、クレアのところにいなよ」
「だから、そのクレアさんに追い出されたんだ」
本当に困ったように言う彼の、場違いな反応に思わず、すこし笑った。
「…………ばか」
アレンが「ネル」と静かに呼びかけてくる。答えずにいると、しばらく待った彼が突拍子もなく言った。
「抱きしめてもいいか?」
「……いや。触らないで」
「……うん」
めずらしく弱った声でつぶやいたかと思うと、次の瞬間にはそっと抱きしめられていた。
言葉とは裏腹に、両腕で囲まれた体がびくりと震える。拒んだはずなのに――胸の奥は、安堵に似た熱で溶かされていく。
(やだ……どうして……)
涙がにじんだのを気取られたのか、頭を抱き寄せられる。硬く厚い胸板が、震える自分をすっぽり受け止めた。耳元で鼓動が響く。
「私なんか、いらないでしょ……」
こぼれた弱音に、アレンが小さく笑った。
「博士がいないと俺はだれに翻訳を頼めばいいんだ」
「……アンタ、ほんとにバカ」
涙声のまま顔を上げさせられる。目が合った瞬間、唇を奪われた。
短い口づけ。けれどその熱は確かで、胸を突き上げる。
「こういうのは、やっぱり夢の中だけか?」
囁いたアレンの瞳が、不安げに揺れている。
強くて、揺らがないはずの男の眼差しに――ネルは息を呑んだ。
(……夢じゃない。夢じゃないのに……)
言葉が喉まで上がりかけて、唇を噛んで飲み込む。胸が熱く、視界が滲んでいく。
肩を抱き寄せられ、背中をさすられる。長い指先がネルの背筋をなぞるたびにじんわりと熱を残す。
しばらくなにも語らず、硬い手のひらは、ネルの鼓動に合わせてゆっくりと動いた。その温もりは、冷え切った胸の奥まで染み込んでくるようで、全身のこわばりがとけていく。体が勝手に、彼に身を預ける。
胸に顔を埋めると、鉄と革の匂いにまぎれて、陽だまりの香りがした。不思議と安堵させられるアレンの香りを、無意識に深く吸い込んでいる。
「クレアは……決めたの?」
「月の紋章を解こうと言ってくれた。俺が無力では困る、と」
――それだけじゃない。
ふと脳裏に浮かぶ、クレアの真剣で切なげな瞳。アレンに抱かれて震える親友の姿を思い出して、胸がずきんと痛んだ。美しいと思うとともに、敵わないと悟ってしまった。
「…………アレン、こわいよ……」
視線を合わせられなかった。ただ胸元をぎゅっと掴む。人肌の奥から伝わる脈動が、やけに大きく響く。
アレンが小さく息を吐いた。微笑んだ気配が伝わる。背中を撫でる手は、なにも言わずに「わかった」と告げるように優しい。抗えない心地よさに、隠していた本音が喉元までせり上がってくる。
喉がつかえて、うまく発声できない。
「私は、どうしたらいい……? 風の試練でも言われた通り……たぶんアンタが好きなんだ。……けど、そのせいでクレアを傷つけたくない」
「俺を独り占めしてくれるんじゃなかったのか?」
「そんなの……無理だよ。だって私は……」
アレンがゆっくりと手を伸ばし、指を絡めてくる。長く旅をしてきたが、彼の手がこんなに大きいことを初めて知った。その手の大きさに包まれると、逃げ場がなくなるようで、喜んでいる自分がいる。
それが苦しい。
「私はクレアほど、強い想いなんか抱いてない……」
「…………なら、どうして逃げたんだ?」
「え……」
「お前らしくなかった。動揺して、こんな見つけやすい場所でうずくまって」
「っ……」
思わぬところを突かれて、息が詰まる。
アレンがじっと見つめてくる。
「……ネル。俺は、自惚れていたか?」
「……やめて」
「この手も、離すべきなのか?」
「……っ!」
泣きそうになりながら、首を横に振る。自分の矛盾が悔しいのに、それでも離れたくはないのだ。
「こわいの……アレン。おねがい、わかって……!」
そのまま引き寄せられて、震える体を抱きしめられる。腕のなかで、アレンの心臓の音がどくんどくんと耳に響く。
「わかってる。けど、離れたくない」
「っ……」
「俺を、頼ってくれ」
真っ直ぐな瞳が、自分を捕えて離さない。
「……馬鹿」
涙まじりにそう呟いた瞬間、力が抜けて、アレンの胸へしなだれかかっていた。
アレンの肩に額を押し付ける。硬い感触と体温に、どうしようもなく安心させられる。
ゆっくりとした呼吸。
アレンの体温を感じようとネルは目を閉じた。
そのときだ。
「ひゃうっ!?」
耳に生温い感触が走り、思わず甲高い悲鳴がこぼれた。背筋を電流のような快感が駆け上がり、全身が固まる。
(な、なに……今の……!)
羞恥と戸惑いが渦巻くのに、得体のしれない熱で体が動かない。胸の奥がざわざわして、呼吸の仕方すら忘れそうになる。
思考が追いつかずに呆然としていると、すぐ傍らで低い笑い声が落ちた。
「とりあえず、チャンスがあるのか見ておこうと思って」
耳の奥までじんじん痺れている。羞恥で顔を覆いたいのに、彼の胸に押さえ込まれて逃げられない。
「ば、馬鹿! あんた、ほんと馬鹿!」
震える声で叫ぶしかなかった。
「ハハッ、そうだな」
ネルの声に力がこもったのが嬉しいのか、アレンは悪びれもせず笑っている。彼から不安の影は、もう消えていた。
抱きしめられたまま、大きな手が背中をゆっくりと上下する。時折、背筋が震えて、妙な声が洩れそうになって、慌てて口許に手を当てた。アレンを仰ぎ見る。
「……あんた、なんか触り方変だよ」
「どこが変だ?」
「……っ、そういう言い方やめて」
――こんな声、出したくないのに。
そう思いながらも、髪をかき上げられ、首筋に唇が触れてくる。
ひやっとして、次の瞬間、体が跳ねた。
耳元を、彼の吐息がかすめていく。ふーっ、とやわらかく温かな空気が触れてきたかと思うと、耳の裏を軽く口付けられた。背中にぞくっと何かが走る。
服をぎゅっと握ってしまうのを止められない。
「嫌か?」
「……わかんない」
「なら、もう少し」
背中から腰へ、手がゆっくり滑り降りてくる。布越しなのに、指先が熱を残す。骨の稜線をなぞられた瞬間、腹の奥がきゅっと熱くなった。
(――あ……そこ……)
その手付きの妖しさに、精神世界で交わった感覚が蘇る。
無意識に太ももをすり寄せる。
だがそれ以上は下がらず、アレンの指は腰骨で止まった。
(ぅっ……)
安心したのに、物足りないと残念がってしまう。
知らない感情をまえに戸惑うネルを見て、アレンが静かに笑った。
「俺の予想だと、もうすぐクレアさんがここにくる」
ビクリと体が強張る。
「……やめておくか?」
腰をなぞる指先。もう少し、とは言えなかった。
答えられないネルに、アレンがこめかみに口づける。
無意識に、その唇を追いかけている。数ミリ近くまで顔を合わせて、アレンが驚いたように目を丸くして頭を引く。
「……ネル?」
「アンタ、ほんとずるい……」
キス、したい。
心が震えている。
衝動のままに奪うと、アレンがかすかに呻いて舌を絡ませてくる。ふたりの呼吸が溶け合い、ちゅぱっ……と音を立てて離れたふたりの間に銀色の糸が引く。
視線のあったアレンが、ネルを抱きすくめて押し倒してきた。
アレンの息が、早い。
「ネル、好きだ」
耳元でささやかれて体が痺れる。体だけでなく、心までいたるところまでが、すべて。
(ダメ……クレアのこと……)
頭ではわかってるのに、止められない。触れてくるのが嬉しい。指の動きに合わせて体をくねらせてしまう。
「アレン……」
「ネル……」
互いの名を呼び合いながら、また口付け合う。
ネルの頬を、静かに涙が伝っていく。アレンはそれを視界の端でとらえると、ネルの髪をゆっくりと撫でて、抱擁をほどいていった。
「悪い。お前を見てると、ついイジメたくなるらしい……」
離れた体温の寂しさに、思わず声が洩れる。
アレンはネルの背中を支えて抱き起すと、目を合わせて言った。
「今度、ちゃんと落ち着いた場所でやろう。こんな草むらじゃなくて」
「ぅ、っぁっ……」
ひゅっとさらに息を呑んで、張りつめていた空気の塊をようやく吐きだした。彼女の頭を撫でているアレンが、ネルの額に口付ける。
「クレアさんとのことも、心配ない。俺がどうにかする。だから、信じてくれ」
「…………うん」
震える声は小さくとも、それはたしかな返事だった。
ゆっくりと、寄り添うようにアレンに身を預けると、静かな抱擁が返ってくる。
夜気の冷たさも、胸を締め付ける痛みも、その温もりの前には遠いものになっていた。
ネルの瞳に、絶望の色はもう見えない。