※この作品はR-18です。

【SO3】聖王国の紅刃が堕ちるとき~背徳の淫紋から始まる英雄救済譚~【IF】   作:ばんどう

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36.草むらの抱擁★

 廃教会のひんやりとした空気の中、クレアの荒い呼吸だけが響いていた。痛みの残滓に震える彼女を抱きしめ、アレンは目を閉じる。肌に触れるクレアのぬくもりと、自分を満たす充足感に浸っていたその時――司祭室の扉から、わずかな気配が動いた。

 ネルだ。

 わずかに開いた扉の隙間から、怯えた紫色の瞳がこちらを覗いている。その視線と目が合った瞬間、アレンは静かに微笑んで手招きした。しかし、ネルは息を呑んで目を見開く。強張った顔は動揺に震え、次の瞬間、扉が乱暴に閉まる鈍い音が響き渡った。

 物音を立てて気配が去っていく。

 絶頂後のまどろみのなかにいたクレアは、アレンにまたがったままハッとして背後をふり返った。

 

「ネルっ!?」

 

 窓の外で、ネルが廃教会から走り去っていくのが見える。その姿は夜の闇に吸い込まれるように小さくなっていった。

 

「ネル!」

 

 呼び止める声も、虚しく夜に散っていく。クレアの頬が震え、見る間に血の気が引いていく。

 アレンは、一瞬だけ目の合ったネルの表情を思い出す。あれは試練で見た、堕天使の顔だ。あのネルが、なりふりかまわず逃げるとは――思っているより事態は深刻かもしれなかった。

 

「すこし、時間を置く必要がありますね。追いかけるにしても」

 

「それじゃあダメです!」

 

「え?」

 

 クレアの声は涙に濡れ、息も上ずっている。胸の奥に溜め込んだ焦燥が、堰を切ったようにあふれ出していた。彼女は胸もとで拳を握りしめ、震える足腰でゆっくりとアレンから降りると、うるんだ瞳で必死に見上げてきた。

 

「アレンさん、お願い……。いますぐネルを追って」

 

「……いまは逆に追い詰めかねませんよ」

 

「それでも! あなたがいないとネルはっ……!」

 

 涙混じりのクレアの叫びに、アレンはわずかに目を細める。この張りつめた顔には見覚えがあった。

 精神世界でネルと交わる寸前に淫魔が見せた、押し殺したような、祈るような瞳。

 紋章術で乱れた衣服を整えると、アレンの瞳に精悍さが戻る。

 

「わかりました。……行ってまいります」

 

 長年、付き合いのあるふたりだ。アレンの知らない一面があるのかもしれない。

 親指の腹でクレアの頬を拭うと、微笑んでみせた。

 

 

 

 荒い呼吸が、夜の帳に溶けていく。ネルはただ、がむしゃらに駆け出していた。

 足元の小石が跳ね、息苦しさが胸を焼く。冷たい土の匂いが鼻を突き、背後にある廃教会から、遠く離れた草むらに身を投げていた。

 胸が痛い。走ったせいではない。

 喉の奥がひどく軋んで、全身が鉛のように重い。

 

(どうして……私は、逃げたんだ)

 

 わかっていた。クレアとアレンが結ばれることなど。

 ただ目の当たりにした瞬間、心が耐えられなかった。胸を引き裂かれ、叫び出しそうになって――逃げだしていた。

 逃げるしかなかった。

 両腕で膝を抱え、冷たい土に額を押しつける。

 自分でも信じられない。隠密である自分が、こんなにも無様に感情をかき乱されるなど。

 情けなさがこみ上げてきて、肩が震えた。

 

(私なんか、いらない……最初からわかってたのに……どうして)

 

 涙をこらえても、嗚咽が喉を突いてくる。

 そのとき、背後の草がわずかに揺れた。気配が近づく。ネルは素早く座り直したものの、顔を上げられなかった。ただ、耳が勝手にその足音を拾ってしまう。

 落ち着いた、聞き慣れた歩調。胸の奥がぎゅっと跳ねる。安堵と苛立ちが同時に押し寄せ、呼吸が乱れる。

 

「……こんなところにいたのか」

 

 アレンの声だった。

 

「来ないで!」

 

 反射的に鋭く叫ぶ。アレンがゆっくりとため息を吐いた。隣に腰かけてきながらつぶやいてくる。

 

「俺も少し待ったほうがいいって言ったんだが、クレアさんがどうしてもと」

 

 いつも通りの調子だ。ネルの激情など、素知らぬ風だった。涙がじわりとあふれて、両腕にうずめた顔をさらに押し付ける。

 

「悪かった、ネル」

 

「……どうして、あんたが謝るの」

 

「お前の怖れに気づかずに、ことを進めてしまったから」

 

 ぐっと喉が震えた。心のやわらかい部分を突き刺されているような気になる。

 

「…………あんたは、クレアのところにいなよ」

 

「だから、そのクレアさんに追い出されたんだ」

 

 本当に困ったように言う彼の、場違いな反応に思わず、すこし笑った。

 

「…………ばか」

 

 アレンが「ネル」と静かに呼びかけてくる。答えずにいると、しばらく待った彼が突拍子もなく言った。

 

「抱きしめてもいいか?」

 

「……いや。触らないで」

 

「……うん」

 

 めずらしく弱った声でつぶやいたかと思うと、次の瞬間にはそっと抱きしめられていた。

 言葉とは裏腹に、両腕で囲まれた体がびくりと震える。拒んだはずなのに――胸の奥は、安堵に似た熱で溶かされていく。

 

(やだ……どうして……)

 

 涙がにじんだのを気取られたのか、頭を抱き寄せられる。硬く厚い胸板が、震える自分をすっぽり受け止めた。耳元で鼓動が響く。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「私なんか、いらないでしょ……」

 

 こぼれた弱音に、アレンが小さく笑った。

 

「博士がいないと俺はだれに翻訳を頼めばいいんだ」

 

「……アンタ、ほんとにバカ」

 

 涙声のまま顔を上げさせられる。目が合った瞬間、唇を奪われた。

 短い口づけ。けれどその熱は確かで、胸を突き上げる。

 

「こういうのは、やっぱり夢の中だけか?」

 

 囁いたアレンの瞳が、不安げに揺れている。

 強くて、揺らがないはずの男の眼差しに――ネルは息を呑んだ。

 

(……夢じゃない。夢じゃないのに……)

 

 言葉が喉まで上がりかけて、唇を噛んで飲み込む。胸が熱く、視界が滲んでいく。

 肩を抱き寄せられ、背中をさすられる。長い指先がネルの背筋をなぞるたびにじんわりと熱を残す。

 しばらくなにも語らず、硬い手のひらは、ネルの鼓動に合わせてゆっくりと動いた。その温もりは、冷え切った胸の奥まで染み込んでくるようで、全身のこわばりがとけていく。体が勝手に、彼に身を預ける。

 胸に顔を埋めると、鉄と革の匂いにまぎれて、陽だまりの香りがした。不思議と安堵させられるアレンの香りを、無意識に深く吸い込んでいる。

 

「クレアは……決めたの?」

 

「月の紋章を解こうと言ってくれた。俺が無力では困る、と」

 

 ――それだけじゃない。

 ふと脳裏に浮かぶ、クレアの真剣で切なげな瞳。アレンに抱かれて震える親友の姿を思い出して、胸がずきんと痛んだ。美しいと思うとともに、敵わないと悟ってしまった。

 

「…………アレン、こわいよ……」

 

 視線を合わせられなかった。ただ胸元をぎゅっと掴む。人肌の奥から伝わる脈動が、やけに大きく響く。

 アレンが小さく息を吐いた。微笑んだ気配が伝わる。背中を撫でる手は、なにも言わずに「わかった」と告げるように優しい。抗えない心地よさに、隠していた本音が喉元までせり上がってくる。

 喉がつかえて、うまく発声できない。

 

「私は、どうしたらいい……? 風の試練でも言われた通り……たぶんアンタが好きなんだ。……けど、そのせいでクレアを傷つけたくない」

 

「俺を独り占めしてくれるんじゃなかったのか?」

 

「そんなの……無理だよ。だって私は……」

 

 アレンがゆっくりと手を伸ばし、指を絡めてくる。長く旅をしてきたが、彼の手がこんなに大きいことを初めて知った。その手の大きさに包まれると、逃げ場がなくなるようで、喜んでいる自分がいる。

 それが苦しい。

 

「私はクレアほど、強い想いなんか抱いてない……」

 

「…………なら、どうして逃げたんだ?」

 

「え……」

 

「お前らしくなかった。動揺して、こんな見つけやすい場所でうずくまって」

 

「っ……」

 

 思わぬところを突かれて、息が詰まる。

 アレンがじっと見つめてくる。

 

「……ネル。俺は、自惚れていたか?」

 

「……やめて」

 

「この手も、離すべきなのか?」

 

「……っ!」

 

 泣きそうになりながら、首を横に振る。自分の矛盾が悔しいのに、それでも離れたくはないのだ。

 

「こわいの……アレン。おねがい、わかって……!」

 

 そのまま引き寄せられて、震える体を抱きしめられる。腕のなかで、アレンの心臓の音がどくんどくんと耳に響く。

 

「わかってる。けど、離れたくない」

 

「っ……」

 

「俺を、頼ってくれ」

 

 真っ直ぐな瞳が、自分を捕えて離さない。

 

「……馬鹿」

 

 涙まじりにそう呟いた瞬間、力が抜けて、アレンの胸へしなだれかかっていた。

 アレンの肩に額を押し付ける。硬い感触と体温に、どうしようもなく安心させられる。

 ゆっくりとした呼吸。

 アレンの体温を感じようとネルは目を閉じた。

 そのときだ。

 

「ひゃうっ!?」

 

 耳に生温い感触が走り、思わず甲高い悲鳴がこぼれた。背筋を電流のような快感が駆け上がり、全身が固まる。

 

(な、なに……今の……!)

 

 羞恥と戸惑いが渦巻くのに、得体のしれない熱で体が動かない。胸の奥がざわざわして、呼吸の仕方すら忘れそうになる。

 思考が追いつかずに呆然としていると、すぐ傍らで低い笑い声が落ちた。

 

「とりあえず、チャンスがあるのか見ておこうと思って」

 

 耳の奥までじんじん痺れている。羞恥で顔を覆いたいのに、彼の胸に押さえ込まれて逃げられない。

 

「ば、馬鹿! あんた、ほんと馬鹿!」

 

 震える声で叫ぶしかなかった。

 

「ハハッ、そうだな」

 

 ネルの声に力がこもったのが嬉しいのか、アレンは悪びれもせず笑っている。彼から不安の影は、もう消えていた。

 抱きしめられたまま、大きな手が背中をゆっくりと上下する。時折、背筋が震えて、妙な声が洩れそうになって、慌てて口許に手を当てた。アレンを仰ぎ見る。

 

「……あんた、なんか触り方変だよ」

 

「どこが変だ?」

 

「……っ、そういう言い方やめて」

 

 ――こんな声、出したくないのに。

 

 そう思いながらも、髪をかき上げられ、首筋に唇が触れてくる。

 ひやっとして、次の瞬間、体が跳ねた。

 耳元を、彼の吐息がかすめていく。ふーっ、とやわらかく温かな空気が触れてきたかと思うと、耳の裏を軽く口付けられた。背中にぞくっと何かが走る。

 服をぎゅっと握ってしまうのを止められない。

 

「嫌か?」

 

「……わかんない」

 

「なら、もう少し」

 

 背中から腰へ、手がゆっくり滑り降りてくる。布越しなのに、指先が熱を残す。骨の稜線をなぞられた瞬間、腹の奥がきゅっと熱くなった。

 

(――あ……そこ……)

 

 その手付きの妖しさに、精神世界で交わった感覚が蘇る。

 無意識に太ももをすり寄せる。

 だがそれ以上は下がらず、アレンの指は腰骨で止まった。

 

(ぅっ……)

 

 安心したのに、物足りないと残念がってしまう。

 知らない感情をまえに戸惑うネルを見て、アレンが静かに笑った。

 

「俺の予想だと、もうすぐクレアさんがここにくる」

 

 ビクリと体が強張る。

 

「……やめておくか?」

 

 腰をなぞる指先。もう少し、とは言えなかった。

 答えられないネルに、アレンがこめかみに口づける。

 無意識に、その唇を追いかけている。数ミリ近くまで顔を合わせて、アレンが驚いたように目を丸くして頭を引く。

 

「……ネル?」

 

「アンタ、ほんとずるい……」

 

 キス、したい。

 心が震えている。

 衝動のままに奪うと、アレンがかすかに呻いて舌を絡ませてくる。ふたりの呼吸が溶け合い、ちゅぱっ……と音を立てて離れたふたりの間に銀色の糸が引く。

 視線のあったアレンが、ネルを抱きすくめて押し倒してきた。

 アレンの息が、早い。

 

「ネル、好きだ」

 

 耳元でささやかれて体が痺れる。体だけでなく、心までいたるところまでが、すべて。

 

(ダメ……クレアのこと……)

 

 頭ではわかってるのに、止められない。触れてくるのが嬉しい。指の動きに合わせて体をくねらせてしまう。

 

「アレン……」

 

「ネル……」

 

 互いの名を呼び合いながら、また口付け合う。

 ネルの頬を、静かに涙が伝っていく。アレンはそれを視界の端でとらえると、ネルの髪をゆっくりと撫でて、抱擁をほどいていった。

 

「悪い。お前を見てると、ついイジメたくなるらしい……」

 

 離れた体温の寂しさに、思わず声が洩れる。

 アレンはネルの背中を支えて抱き起すと、目を合わせて言った。

 

「今度、ちゃんと落ち着いた場所でやろう。こんな草むらじゃなくて」

 

「ぅ、っぁっ……」

 

 ひゅっとさらに息を呑んで、張りつめていた空気の塊をようやく吐きだした。彼女の頭を撫でているアレンが、ネルの額に口付ける。

 

「クレアさんとのことも、心配ない。俺がどうにかする。だから、信じてくれ」

 

「…………うん」

 

 震える声は小さくとも、それはたしかな返事だった。

 ゆっくりと、寄り添うようにアレンに身を預けると、静かな抱擁が返ってくる。

 夜気の冷たさも、胸を締め付ける痛みも、その温もりの前には遠いものになっていた。

 ネルの瞳に、絶望の色はもう見えない。

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