【SO3】聖王国の紅刃が堕ちるとき~背徳の淫紋から始まる英雄救済譚~【IF】 作:ばんどう
パルミラ平原を行く馬車内。
クレアとアレンは向かい合わせに座っていた。
クレアの怒った声が、からから回る車輪の音を引き裂いて車内に響いていく。
「まったく、お父さまは勝手すぎます! 洞窟の調査なんてそんな話、私は部下から一度も受けていないというのに、勝手に光牙師団を数日あずかるだなんて!」
馬車は、聖殿カナンのほど近くにある『月の洞窟』に向かっている。
クレアの父、アドレー・ラーズバードは熊のような恵体の持ち主で、昔から華奢なクレアと較べて本当に親子か、と問うてくる者は少なくなかった。父は性格も豪快で、理知的な戦略を好むクレアとは反りが合わないことも多いのだ。
クレアが握った両拳をぶんぶん振っていると、アレンが戸惑いながらも尋ねてきた。
「……たしかにアドレーさんなら、本当に危険な調査はご自分で向かいそうなものです。場所が特殊なのか……? クレアさんは、魔物が現れたという月の洞窟とはどういう所か、ご存じですか?」
冷静な質問を投げられて、クレアがハッと息を詰める。総司令官として常に冷静沈着を心がけていたはずが――よりにもよってアレンの前で取り乱してしまうとは、と内省し、慌てて乱れてもいない髪を整える。
気を取り直すと、ふと『月の洞窟』がもつ逸話を思い出して気が重くなった。
「クレアさん?」
「…………出ると聞いています……」
「……………………出る」
アレンが神妙な顔をつくってうなずき返してくる。。シーハーツの風習に馴染んできたとはいえ、まだ一年も経っていないのだから、彼が要を得ないのも無理はなかった。
クレアがぴんと立てた人差し指に、アレンの視線が吸いこまれてくる。彼女はくすりと微笑むと息をひそめ、少し前かがみになって声を落とした。
「月の洞窟には月と風の女神イリスの加護を受けた精霊が宿っています。しかし旧シーフォート王国がグリーテンに敗れたのをきっかけに、洞窟の精霊は輝きをくもらせてしまい、いまでは夜な夜な美しい歌声が聞こえてきては通りがかったひとを閉じ込めてしまうとか……」
「アドレーさんは最近、魔物が棲みついた、と言っていましたが」
アレンが現状を確かめんとたずねてくる。
クレアは首を横にふった。
「おそらくシャールの村人たちの鎮魂祭に、支障がでたのでしょう。けが人の報告は受けていませんが、月の洞窟は施力の高い場所なのでアレンさんは気を付けられたほうがよいかと」
アレンがゆっくりと瞼を伏せていくのが見えた。わずかに影が差しただけで、彼の顔に静かな悲哀がにじんだ。
アレンはセフィラに触れて心身に異常をきたしたことがあるのだ。大陸全土を襲った『卑汚の風』の当事者として、苦虫を嚙みつぶしたような心地になったのかもしれない。
クレアが慌てて言いつくろった。
「ですが、アレンさんはもう
「…………俺も、二度もあなたを傷つけたくはありません」
アレンの声音が落ちる。
『卑汚の風』――数か月前の大事件を思い返すと、クレアが気を取り直したようにぎゅっと胸もとで拳を握りしめた。
「あのときのことは、そう気になさらないでください。私は、あなたならきっと帰ってきてくださると信じていましたから」
アレンがわずかに顔をあげてクレアを見る。どこかすがるような視線に、クレアは努めておだやかに微笑み、ひとつうなずいた。
「そもそも二国間大戦のときのアレンさんの活躍を思えば、あれがあなたの本意でなかったことはすぐにわかりました。だから、こうしてアレンさんが戻ってきてくれて、私もネルも喜んでいるんですよ? 私が思うのはそれだけです」
「…………」
アレンはひらいた両膝の上に肘を置き、手を組むと額を押し当てた。しばらくうつむいて、なにも話さない。
乾いた木の車輪が、草原をこすりながら回る音が遠くへ溶けていく。
自分の言葉が、気休めでもいいから響けばいい、とクレアは思った。
長い沈黙だった。
やがてアレンが顔をあげてくる。クレアを見てほっとしたような、いまにも泣きそうな複雑な表情を浮かべていた。
「……俺はずっと、あなたに嫌われていると思っていました……」
「それは、その…………」
クレアが所在なく視線をさまよわせて言葉を濁した。たぶん、アリアス村でやってしまった、つんけんした対応のせいだろう。自分でも抑えなければ、とわかっているのに、アレンが異性に優しくしているのを見ると、心がささくれて自分を止められない。
クレアの戸惑いをどう取ったのか、アレンが首を横にふった。
「無理もないことです。…………だから、あのことをあなたにそう言っていただけるとは考えもしませんでした。許されないことだとは、いまも承知しています。でも――」
(……『無理もない』って、なに?)
クレアはアレンを見て、眉を寄せた。だが口を開くまえに、アレンに制される。
「ありがとう。クレアさん」
アレンは心底安堵したような、それでいて深く諦めているような、複雑な微笑みをしていた。
クレアはなにも言えず、ただ唇を震わせる。総司令官として、長きにわたる大戦を率いてきたクレアとて、尋常でない涙の数を乗り越えてきた人間だ。
それでもアレンの、生きていることにさえ許しを請うような――絶望の片鱗を見せつけられると、かけるべき言葉が見つからない。
(アレンさん……まさか、私があのとき倒されたこと、セフィラを奪われたことを恨んで、それが私の態度に現れているとでも思っているの――?)
歯痒い。
クレアはただ、この男とふたり出かけられるだけでも、すこし気分が浮ついているのに、向こうはそれどころではないのだ。
(……私は、どうしたら、このひとの力になれる……?)
アレンの安堵したような、痛々しい微笑みを見て、クレアは馬車の客室の対面に座ったことをすこし後悔した。
卑汚の風の恐ろしさは、クレアも体感したことである。街道のモンスターが突然、強力狂暴化してひとびとを脅かした。
その当事者となったアレンの苦痛は、クレアには推し量れない。
「…………アレンさん」
月の洞窟についてしばらく。
一歩先をいくアレンを呼び止めた。アレンがふり返ってくる。もういつもの覇気に満ちた顔だ。さきほど見せた弱音の陰はない。この顔は――クレアにとって、自信と力に満ちた絶対的な男の顔だった。だがアレンにとっては仮面なのかもしれない、とふとクレアは思う。
この男が本音を隠せば、おそらくネルたちですら見抜けないだろう。それほどアレンという人間の意志は強固だ。
「アレンさん……さきほどの話。あなたは
クレアには、仮面の剥がし方はわからない。
アレンが『馬車の話の続き』と悟って小さく笑った。
「フェイトが為したことです」
「アーリグリフとの終戦協定についてはちがいます!」
じれったくなって詰め寄る。見上げた男は意外そうに目を丸めている。
「その……私があなたを嫌っていると誤解させてしまったことは謝ります。ですが、アーリグリフに食糧栽培の技術を教え、星の船襲来時にシーハーツ・アーリグリフ両軍関係なく、多くの命を救ってくれたのはアレンさんでした!
……私、以前に言いましたよね? 『命は等価である』。このアペリスの教えに背いて部下の命に優先順位をつけること、アーリグリフ兵の命を奪ってしまうことに抵抗があると! あなたは
ひといきに言い切ると、動悸が激しくなってクレアは肩で息を切っていた。
クレアがアレンを目の敵にしたそもそものきっかけは、カルサア修練場に単身突入したネルと、人質にされた部下の救出を成功させた件だ。それから間もなく、ネルが大戦前のようにほがらかに笑うようになり、アレンと親しくしているのを見て『親友を取られる』と焦ったのである。
友人としても、指揮官としても、アレンを傍で見て『勝てない』と悟ったころにはアレンに対する嫉妬と憧憬が入り混じっていた。
なぜ自分はこの男のようにできないのか。自問する日々だった。
「星の外でも大変だったことは聞いています。アレンさんにとっては小さな国の戦いにすぎなかったのかもしれません。ですが、それでも――」
アレンはじっとクレアの話を聞いている。
クレアは頬にしびれが走るのを感じた。泣くまいと口許に力を込めるも、ぴくぴくと目尻が震えてしまう。
(どうして…………)
アレンは隣にいるのに、遠く感じる。そのときだ。
「さがって」
アレンがクレアを後ろにまわすと同時、練られた施術の紫電が洞窟の暗闇を切り裂いていった。轟音。甲高い魔物の断末魔が洞窟内に反響していく。
アレンの視線の先を追うと、三体。ゼリー状の球体に光核をもつモンスター『レインボーコア』が、ゆっくりと光の核を崩れさせ浄化されていくところだった。
「…………すごい……」
クレアが思わずつぶやく。施術詠唱が「さがって」で終わっていたのだ。
索敵範囲も尋常ではない。
(お父さまはこれを見せたくて、わざわざアレンさんと私を……?)
出立前、鍛えなおしてもらえ、と父にさんざん言われたことを思い出した。そういえばファリンも、彼に詠唱短縮の訓練をほどこされたころは「もういやだ」と毎日泣き言をもらしていた。
「あれがアドレーさんの言っていた、洞窟に棲みついた魔物ならいいのですが。クレアさん、先に進めますか? もし苦しいようでしたら、ここで待っていてください。俺が行ってまいりますので」
気遣わしげに尋ねてくる。クレアの目尻にたまった涙を見たのだろう。アレンの香りがする。不思議と安心させられる、あたたかい香り。
うつむいたクレアが答えずにいると、アレンが目を丸くしてこちらを見てきた。知らぬ間に、彼の上着の袖をつまんでいる。
クレアは頬が熱くなるのを感じた。
「…………クレアさん?」
答える代わりに一瞬で思考をまとめて、きっとアレンを見上げる。
「……私、幽霊が苦手です」
「えっ?」
「ですから……このまま進ませてください」
我ながらめちゃくちゃな論理だったが、アレンは数秒の沈黙のあと「はい」と微笑んだ。
ここにくるまえより、やわらかい笑みを見た気がした。
洞窟の奥深くへと進むにつれて、遠く、どこかで水滴が絶え間なく滴っている。風の音のような、間延びした洞窟の反響音が腹から脳天まで伝わり、カタカタと奥歯を震わせる。
勢いで言ったはずの『幽霊』が本当にでてきそうで、クレアの背筋が震えあがった。
アレンの服の裾をつかむ手に力を込める。暗く、湿った空気。足元は滑りやすく、視界がどんどん狭くなっていく。
施術の松明をもつアレンの足取りは力強い。たまに所在なく揺れる裾をつかんだクレアの手を、しっかりと握ってきた。硬い手のひら。大きな手にクレアの細い指が包まれる。
(うぅっ……!)
嬉しさと『幽霊』が出そうな恐怖で、クレアが声にならない声をもらす。
「ここで」
ふとアレンがつないだ手とは逆のほうで、クレアの歩みを止めた。青黒い岩石でてきた洞窟の床が、あと一歩踏み出せば分厚い海藻に覆われた地面に変わっている。
ここから海はほど遠いというのに、潮風が鼻先をかすめていった。
「これは……旋力でしょうか?」
「おそらく」
アレンと視線を交わして、うなずき合う。
海藻マットがひろがるフロアはこれまでの細く入り組んだ構造と違って、ひらけていた。そこかしこに浮かんだ翡翠色の光の玉は施力の塊だろう。星の欠片を散りばめたようにフロアに広がり、洞窟内を照らしている。
洞窟の奥から吹く風にも、セフィラと似た旋力を感じる。最奥がほど近いのだ。
「きれいですね…………!」
視界が開け、明るくなると、恐怖心もやわらぐ。
クレアが頬をゆるめて海藻マットを踏みしめると、よほど本来の地面は下にあるのか、ずぶりと足許が沈みこんだ。沼のなかを歩かされている気分になる。
『ここからは危険』と判じ、ふたりはつないだ手をほどいた。
アレンがひとつ息を吐いて、海藻マットに手をつく。しばらくその態勢のまま動かず、うなずく。
「この種類の施力なら、問題なさそうです」
卑汚の風の支配から解放されたとはいえ、クレアが言ったことを気にしていたらしい。
クレアも無言でうなずいた。
「急ぎましょう。……と言っても、こう足を取られてはなかなか進むのが大変ですが……」
「燃やしますか?」
「神聖な場所なんですよ! アレンさん!」
「…………冗談です」
たぶんアレンは本気だった。
同行してよかった、とクレアはここであらためて思いつつも、ふたりは洞窟の最奥を目指して海藻フロアを進んでいく。
ひざ下まで沈む海藻の床は、しばらく続いた。
最奥のフロアは、石造りのアーチをくぐった先だった。
アペリス教には珍しい、木製の祠が鎮座していた。その足許は小さな石畳でできており、神を示す石像は、たくましい裸身をさらす男性神だ。古代シーフォート王国の名残だろう。
柔和な微笑みを浮かべた男性神は、八つある手をすべて合わせている。彼の傍らには貝殻や星形動物の飾り物があり、古くは周辺一帯が海であったことを想起させた。
「とくに異常らしい異常は認められませんね…………」
クレアが祠をあらためながら、つぶやいた。そのときだ。
「クレアさんっ!」
アレンの鋭い声が走るとともに、視界がぐるんっと回った。
手が触れた男性神の石像が歌いだし、これまで地面に過ぎなかった海藻が、すさまじい勢いでクレアに絡みつき伸びあがったのだ。
「きゃああっ!」
悲鳴が喉を裂く。そのとき、アレンの剛刀『兼定』が、フロアまるごと叩き切らんと巨大な銀弧を描いた。海藻はあえなく両断され、された端から再生して、クレアの両手足をしばりあげる。
くぐもった息が洩れた。
「…………なに?」
いぶかしげなアレンの声。
空中に縛り上げられて、両手足をばたつかせても海藻はびくともしない。
「う、ううっ……!」
ぬるり、と気味の悪い感触が柔肌をすべった。見れば、洞窟の床面をびっしりと覆う海藻が、柔肌を舐めるようにヌメヌメと光り、這いまわって彼女の両腕を背後にまわし、両脚を完全にくるんでフロアに縫い留めている。
背筋が凍り付く。
一方で、アレンは拳に焔を宿す。――宿す、はずだった。
(気があつまらないっ!?)
ならば氷漬けんと陣を描く。だが空中にはなにも生じず、アレンの動きをも封じんと海藻が両足首にまとわりついてくる。紋章術が、使えない。
「味な真似を……」
結論付け、宙吊りにされたクレアを見上げたそのときだ。
「っふ、ぁ……んんっ! ……アレンさ……、ぁぁっ……!」
真っ白なクレアの喉が大きくのけぞる。アレンの鼻先で、たわわに実った彼女のバストが円を描くように揺れ、弾んだ。その乳肉を包む軍服の黒いサーコートがはちきれんばかりに引き伸ばされる。サーコートの編み目模様まで見えるほどアレンのすぐ傍で胸を突き出し、クレアは縛り上げられた。彼女がうめき声を殺し、涙目になってわずかにうつむく。
そのクレアの涙を視界の端で捉え、アレンの声音が落ちた。
「クレアさん、すこし手荒になりますがご容赦ください」
「んんっ……!」
海藻は魔獣の舌のようにねっとりとうねり、クレアの両腕から肩、さらに伸びあがって両脇と横乳の間の柔肌をじゅるりと舐めては透明な粘液をつけ、服のなかにまでも侵入しようと先を尖らせている。
キン、と甲高く鍔鳴りの音が立った。直後、クレアが目を丸くして空中に
「っっ……!」
もっとも衝撃の少ない受け止め方をされたもののクレアの頬がぱっと染まった。いまの衝撃でサーコートのスカート部がめくれあがり、まるいお尻がわずかにアレンの耳に触れている。さらにクレアのバストはアレンの背中で押しつぶされているが、動転したクレアはめくれあがった裾にしか気づかなかった。
「あ、あのっ! ア、レンさんっ!?」
「黙って!」
アレンが全力で駆ける。海藻フロアを危険と判じ、祠の足許にある石畳に跳び乗ったのだ。
神聖な場所、
歌っている石像が台座から倒れ、落ちて粉々に割れていく。
割れた破片が光を放って飛び散っていった。同時に、フロアを照らす紋章力の塊らしき翡翠色の光の玉もいくらか一斉にしぼみ、はじける。
「くっ…………!」
アレンが右肩を突き出し、刀を押し出す形で光のシャワーをやり過ごした。抱き込まれたクレアが、すこしでも体積を縮めんとアレンの胸もとをぎゅっと握りしめる。
光がやみ、いくらか光源が消えて仄暗くなった洞窟に、霧が立ち込めた。四散した光の玉が空間に飛び散り、霧化したのだろう。
「熱っ!」
クレアが呻くや、アレンもまた左手首に焼かれたようなひきつれた痛みを感じた。クレアを解放して自分の手首をあらためる。青白く光る紋章陣が刻まれていた。紋章は蝶の片翼のような、波か海藻にも見える曲線が複雑に絡み合った、ハートの左半分を描いたような形をしている。
クレアは右手首を抑えていた。見れば、アレンと対をなすような半円の紋章のようだ。ふたりの手首を合わせて、おそらくひとつの陣が完成するのだろう。
(わからない…………。俺から、完全に紋章力が消えたのか?)
普段なら、これがどんな属性の紋章か、効力はなにか、喰らった時点である程度特定できる。だが、いまはなにも感じない。
「っ…………! 施文が!」
クレアのつぶやきに、アレンにも、まさか、と嫌な予感が走った。予感は的中し、彼女の四肢に描かれているはずの赤い施文が消えているのが見えた。クレアの両手足はいまや、街のひとびとと変わらない、真っ白な柔肌となってしまっている。
「これは、こんなことがっ……!」
絶望的なクレアの声を聴きながら、アレンはぐっと息を呑んだ。