本日、武田書店は絶賛休業中。都会で営業している大手ならありえないゆるさで、利益度外視の積極的休養に勤しんでいる。
風が吹いたのだろう。八分ほど閉まっている入り口のシャッターが、軋んだ音を鳴らす。それに合わせて、読んでいた本のページをめくる。書店を営んでいるひとりとして、リサーチは欠かせない。
そう。これは決して趣味への没頭などではなく、職務の一環。それでいて、自分の内に眠る欲求も満たしてくれるのだから、読書はどうしてこんなにも素晴らしいのか。
「諏訪原さーん。諏訪原太陽さんに、お届け物でーす」
もう一度、今度は、シャッターが無視できないような音をたてる。声が流れてきたのは、その時だった。
どうやら、自分宛の荷物があるらしい。さっぱり思い当たる節がないのだが、太陽はひとまず出てみることにした。
「はーい。すぐいきまーす」
開いた状態の本を、ちゃぶ台に伏せて置く。
羽織っているのはどてらで、髪も寝癖がついたまま。自由気ままに生きる。表現するなら、服装からだろう。
一応お店を預かる身なんだから、格好くらいちゃんとしなよ。リンからのお叱りの声が、どこかから聴こえてくるようだった。それで、ちょっと身震いしながら、太陽は草履を履く。
消灯中の店内を抜け、シャッターを持ち上げる。ほの暗い洞窟から抜け出した放浪者。そんな感想が、湧き上がってくる。
白い光が走る。立っていたのは、小さな影だった。影が、顔を上げた。手には、なにやら紙袋を提げている。
「あれ、リンちゃん」
「お兄さん、完全に休みモードだ。まさか、まだ寝てた?」
「いやあ。ボクって、これでも仕事熱心だからね。朝からずっと、これ」
本のページをめくる仕草をしてみせると、リンが小さく笑う。
今日、会えるはずのなかったあの子との出会いに、顔がだらしなく綻びそうになる。伸びそうになった腕だけは、一枚残った理性で、どうにか堪えた。
ほんの一瞬できた無言の間。冷たい風。吹き抜けていく。肩でぶつかってきたリンが、その流れでしれっと敷居をまたぐ。どうやら、今日はまだ終わりではないらしい。
黙って追従した太陽が、隙間なくシャッターを降ろした。リンは、見向きもせず居住スペースに上がり込む。
「寒かったでしょ。とりあえず、お茶どうぞ」
「ありがと、お兄さん。ずずずっ、ふはぁ……」
マフラーと上着を脱いだリンが手を洗いにいっている隙に、熱いお茶をすかさず用意しておいた。
ちゃぶ台の上で逆さまになっていた本にはしおりを挟んでおいたから、セーブは万全。業務の続きは、また次回だ。
一息ついたリンが、持参した紙袋をあさる。現れたのは、手のひらサイズのパッケージ。それも、真ん中にわかりやすく『湯』と書いてある。
「いつも写真見せるばっかりだから、お土産買ってきた。お兄さん、外出たがらないし、温泉の素なんかちょうどいいかなって」
「あ、これはどうも。どこかで、お礼しなきゃね」
「むっ……。い、いいよ、お返しなんて。その、お兄さんには、普段からいろいろともらってるし」
自分で言って恥ずかしくなったのか、そっぽを向いたリンが、慌ただしくお茶を飲み干した。あちっ、と控えめな悲鳴が聴こえる。
「き、今日はもう帰る。バイトでもないし、遅くなったらいけないし。お兄さん、お茶ごちそうさまっ」
「あははっ。待って、リンちゃん。せっかくだから、ボクのわがまま聞いていかない?」
「やっ、せっかくの意味がわからないんだけど。おっと、わっ、おおっ……」
立ち上がりかけたリンの肩を、そっと抱き寄せる。抵抗はなかった。ただし、目線だけは合わせてくれようとしない。
仕方がないから、赤くなった耳たぶに唇を寄せる。ほんの戯れ。だけど、リンのドキドキがこれ以上なく伝わってきてもいる。
「お風呂、一緒に入ろうよ。温泉の素、試してみたくなっちゃった。だめ、リンちゃん?」
「おお、お風呂っ!? お兄さん、なに言って……。んっ、ひゃぁっ……♡」
「あったまるの、きっと気持ちいいよ。外の施設みたいに、全身ゆったりとはいかないけどね」
リンを抱きしめていると、想像が急速にふくらむ。
昔ながらの狭い浴槽だ。どう頑張っても、密着は免れない。今までは、なんだかんだと理由をつけて、個別に使うことしかしてこなかった。そういう意味でも、これはふたりの関係性を一歩前に進めるチャンスなのかもしれない。
「はあ、んっ……。わ、わかったから。耳、あんまり焦らさないで。恥ずかしくて、死にそうになる」
「やった。リンちゃんと温泉、楽しみだなあ」
「温泉っていっても、所詮は素だけどね。ああもう、こうなったらヤケクソだ。混浴だろうがなんだろうが、相手になってやる」
「その意気だよ、リンちゃん。お湯ためてくるから、少し待ってて」
どこか名残惜しそうなリンの頭を一度撫でてから、ゆっくりと身体を離す。
それではいざ、お風呂場へ。去来する感情を処理しきれていないのか、リンはしばらく畳の上でのたうち回っていた。