第一章:奪取
天正14年(1586年)の秋、14歳の周姫は杉元宣の妻として穏やかな日々を送っていた。2年前に周姫を娶った夫は筑前へと出陣し、彼女は一人屋敷に残されていた。その夜、闇を切り裂く馬蹄の音が響いた。輝元の家臣・佐世元嘉率いる一団が屋敷に押し入ってきたのだ。
「これは主命である。」
留守居を預かる者たちも、毛利輝元の指示と知ると抵抗する気を失った。周姫は逃げる間もなく捕らえられ、輝元の待つ城内へと連れ去られた。
周姫の父である児玉元良は、五奉行の1人を務める毛利氏の重臣であった。美少女で知られた周姫は幼少の頃から主君である毛利輝元に目をつけられていた。周姫に会いたさに、毛利輝元は児玉元良の屋敷を頻繁に訪れるようになる。主君のそのような行いを、児玉元良は嫌悪した。その為、娘を輝元から遠ざけようと家中の杉元宣に嫁がせたのだ。しかし主君である毛利輝元を制止できた周姫の父の児玉元良は1年前の天正13年(1585年)秋に死亡していた。
周姫を守っていた父・児玉元良は死に、周姫を守る筈の夫・杉元宣は豊臣秀吉の九州征伐のために小早川隆景の配下として遠く離れた筑前に出陣している。その隙を、毛利輝元は待っていたのだ。九州の戦陣から口実を作って一時帰国した。そして周姫を襲ったのだ。
男たちの手で輝元の前に引き出された周姫は、恐怖に震えながらも夫への忠義を胸に秘めていた。だが、輝元の瞳はその抗いを嘲笑うかのように輝いていた。
「そなたは我がものだ」
低く唸る声で毛利輝元は言い放つと、周姫の細い腕を掴んだ。抵抗する周姫の着物は容赦なく引き裂かれ、白い肌が冷たい空気に晒された。
「まだ、子を成していないのは幸いであった」
輝元の手は彼女の胸元を荒々しく開き、まだ膨らみきっていない乳房を握りつぶすように揉みしだいた。
「おやめください」
周姫は叫んだが、その声は虚しく響くだけだった。ここは毛利輝元の本拠であり、毛利領内で当主である彼に逆らえる者はいない。彼の意見できる重臣たちでさえ、今はそのほぼ全員が九州征伐に駆り出されていた。
毛利氏は豊臣秀吉の無二の同盟者である。九州征伐という大事を前に、戦況は捗々しくない。今回の一時帰国も、秀吉の無理な要請に応えて病を押して九州に出陣した吉川元春の葬儀の為である。重臣中の重臣である吉川元春を祖国に連れ帰り弔いたい。そして遠征の為の手配を整える。自分の言い出した我儘の始末だけに、秀吉も輝元の一時帰国には文句は言えなかったのだ。帰国の理由はまだある。足利義昭を動かして島津に講和を薦める使者を出すためである。九州の王者である島津と全面対決中の情勢下では、秀吉でさえ中国を抑える毛利輝元にたかが家臣の妻を弄ぶこと位で意見することは憚っただろう。
毛利輝元の指は周姫の内腿を這い、秘部へと侵入した。夫以外に触れられたことのない場所を汚され、周姫の身体は羞恥と恐怖で硬直した。よもや夫の主君が、このような不埒な真似をするとは思わなかったのだ。
「家臣の妻に横恋慕する、それは亡国の主君の所業よ。だからこそお諌めせねばならん。」
それは父の児玉元良が、常々周姫に言い聞かせてきた言葉である。だが、現実は恐れていた通りになってしまった。
(父上がご健在なら、なんと悲しまれる事か。)
周姫は毛利輝元を愛してはいない。夫との平凡な生活を望んでいるだけなのだ。しかし輝元の執拗な愛撫に、彼女の意志とは裏腹に蜜が溢れ始めた。
「お許しください」
周姫がわずかに絞り出した言葉も、輝元には届かない。
「今宵こそ、本願を遂げるのだ」
彼の剛直が彼女の中に押し入った時、周姫は鋭い痛みと共に夫への裏切りを感じて涙を流した。
(輝元様は天下を制するのではなく、戦場を離れ家臣の妻を寝とる事を本願というのか。)
父が健在ならどんなに憤っただろうか。いや、泉下にあっても自分が使え育てた主君の有り様に湯気を立てて怒っているに違いなかった。
(父上、旦那様。申し訳ありません)
周姫は輝元に玩弄されて悲鳴を上げながらも、心の中で二人に手を合わせて詫びた。そんな周姫が抵抗できぬ事を良いことに、輝元は彼女の悲鳴を愉しむかのように腰を激しく動かした。その動きに合わせ彼女の身体が激しく揺さぶられた。彼女の貞操は権力者の欲望によって無残に穢された。
「お前の夫のことなど忘れろ、いや忘れさせてやる。これからは我が側室となるのだ。」
輝元は彼女の耳にそう囁いた。周姫は屈辱に耐えながらも、その熱に抗えず思わず喘ぎ声を漏らしてしまった。
「お前を孕ませる、必ずな。」
人形のように輝元の猛威に耐えるほかない周姫を、毛利輝元は終夜にわたって玩弄し続けた。
第二章:夫の死
天正17年(1589年)、周姫は17歳になっていた。ある夜、周姫は輝元の陣で衝撃的な知らせを受けた。小早川隆景の手により、夫・元宣が大島の船隠で殺害されたとの知らせだった。覚悟していた事ではある。主君と女を取り合って、3年も無事でいられたのは奇跡に近い。
それでも兄からの知らせを聞いた彼女の膝は崩れ落ち、心は絶望に塗り潰された。輝元の意向であることは明白だった。
その夜、輝元は再び周姫を求めた。周姫は、夫を死なせた事で輝元をなじった。
「これは約束が違います。私の身はどうなってもいいのです。その代わり、あの方を殺さないとそう約束されたではありませんか。」
「お前を完全に我が物とするためだ」
輝元は冷たく言い放ち、彼女の顎を掴んで顔を上げさせた。諸大名からは温厚篤実と称えられる毛利輝元だが、周姫の前でだけは戦国大名らしい顔を覗かせる。
夫の死を知ったばかりの彼女は、もはや抵抗する気力すら失っていた。輝元は彼女を畳の上に押し倒し、慣れた様子で着物を剥ぎ取った。彼の唇が彼女の首筋を這い、乳房を激しく吸った。周姫の身体は震えながらも、これまで幾度も行為を重ねた彼女の身体が彼女の意思を裏切った。彼女の秘部はすでに濡れており、輝元の指がそこを弄ぶと抑えきれぬ吐息が漏れた。
「お前は、もうすっかり我が女だな。」
輝元が指に彼女の秘所に指を這わせ、その反応を嗤いながら言った。遂に輝元が強引に彼女の中に押し入ると、周姫の心は砕け散った。これまでの輝元への彼女の性的な奉仕は無駄であった。どれほど輝元と約束しても、夫を守る事はできなかった。それは彼女の父の諫止も無駄であった事と同じだった。
夫の死を悼む思いと、輝元の熱に屈して悦びの声を上げる自身の身体。その二つの相反する感情の間で、彼女は自らを完全に汚れきった存在と認めざるを得なかった。
これまでの逢瀬で強引に結ばれた関係で身体はすっかり馴染んでいる。彼女の腰が無意識に輝元に合わせて揺れる。
「もう、どうとでもしてください。」
周姫はそう呟いた。その瞬間、輝元は彼女を完全に支配したと勝利を確信していた。
第三章:二の丸へ
天正19年(1591年)に広島城が完成した。19歳となった周姫は広島城の二の丸へと移された。輝元の側室として生きることを受け入れざるを得なかった彼女は、もはや抗う意志を失っていた。輝元は、夫を亡くした周姫を公然と側室として扱うようになっていた。
それに憤ったのは輝元の正室・南の大方である。毛利元就の娘を母に持つ南の大方は、輝元の従姉妹にあたる。家中の有力武将の宍戸隆家の娘で、毛利元就直々に仲人しての婚姻だった。輝元の祖父毛利元就こそが現在の毛利の基盤を築いている。
つまり南の大方こそが、自他共に認める毛利の本家本流の堂々たる正室なのだ。世子は南の大方が生むと期待されていた。しかし輝元との間に子を為す事はできず、輝元は話し合いの末に養子を迎えている。輝元の叔父穂井田元清の子の秀元が、輝元と正室の子として毛利の跡取りとなっていた。
しかし秀元を養子として迎えた翌年から、輝元は周姫を攫った。そして自分の女としたのである。陰の関係である間は、周姫の存在は黙認された。最初の頃の南の大方には、周姫の立場に対する同情さえもあったかもしれない。
しかし輝元の情熱は一時の気の迷いなどではなかった。遂に広島城の二の丸を彼女に与えた時、女として周姫に敗北したと知った南の大方の嫉妬は凄まじいものがあった。正室としての彼女の地位は、輝元と彼女自身の祖父である元就の定めたものである。南の大方はそれを絶対の正義として掲げた。
夫である毛利輝元の事を何度もなじった。そして周姫の事を許すまじと付け狙った。南の大方の嫉妬に怯えながらも周姫は輝元の子を宿すことで自らの運命に意味を見出そうと決意していた。輝元は周姫に執着している。二の丸の主として公然と地位が認められた今なら、毛利の世継ぎを生む事も可能だった。
ある夜、二の丸の寝所で、輝元は彼女を求めた。薄暗い灯火の下、彼の手が彼女の身体を這い、乳房を強く握りつぶすと、周姫は目を閉じて耐えた。だが、彼の指が秘部に触れ、巧みに愛撫されると、彼女の身体は熱を帯び、甘い声が漏れた。輝元は彼女の着物を緩やかに剥ぎ取り、白い肌を露わにすると、貪るように唇を這わせた。首筋から胸元へ、そして柔らかな腹部へと、彼の熱い息が彼女を包み込む。周姫の身体は震えながらも、彼の指が秘部を優しく撫で上げるたびに蜜が溢れ、彼女の意志を裏切るように反応した。輝元は彼女の両脚を大きく開かせ、その間に身を沈めると、低く唸る声で囁いた。「そなたの全てを我がものとする」。彼の剛直が彼女を貫き、激しく腰を打ち付けられると、周姫は夫の記憶を塗り潰すように喘いだ。輝元の動きは執拗で、彼女の細い腰を掴みながら何度も深く突き上げ、そのたびに彼女の身体が波打つ。汗に濡れた肌が互いに擦れ合い、部屋には二人の吐息と湿った音だけが響き渡った。周姫は屈辱と快楽の狭間で喘ぎ声を抑えきれず、輝元の欲望に飲み込まれていくのを感じた。
「お前は我が子を産むのだ」
輝元が囁く、その言葉を遂に周姫は受け入れた。
「はい。殿との間に子を為せば、毛利の家を継がせるとお約束頂けますか。」
輝元は頷いた。南の大方を焚き付けたのも、彼の策略である。女を競わせる、それは秀吉の得意技を真似たのだ。その効果はあった。遂に周姫が心から輝元を受け入れるようなった。イヤイヤ応じる女を楽しめるのは最初だけである。やはり自ら悦んで相手を楽しませる心がなければ行為も長くは続かない。
ついに、輝元と周姫の道が一つに交わった。彼女の心は輝元に屈服し、輝元の欲望を受け入れ彼の子を産むことで自らを保とうとした。果てぬ快楽を追い求めた行為の果てに、彼女は子を身籠る決意を固めた。そして二の丸殿としての新たな生を歩み始めた。
文禄4年(1595年)、周姫は輝元との間に待望の男子を授かる。後に毛利本家を継ぐ初代長州藩主の秀就である。それは周姫が世継ぎの母親という盤石の地位を得た事を意味していた。周姫は、南の大方との争いに勝利したのだ。
第四章:涙
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで毛利輝元はろくに戦場に立たぬうちに敗北した。天下を狙う輝元の無謀な企ては、徳川家康と直接対峙する前に終わっていたのだ。足掛け12カ国、170万石の石高を誇る毛利家には意外な結末だった。
毛利の両川と名高い小早川と吉川の二家。吉川元春も小早川隆景もとうにこの世を去っている。小早川家は豊臣秀吉の縁者を養子として受け入れて、とうの昔に毛利から独立させられていた。隆景の養子の小早川秀明は家康に味方をして、関ヶ原の合戦の後もその地位を確かなものとしていた。
毛利本家を取り仕切ったのは吉川元春の子広家である。輝元と折り合いの悪い彼は、輝元の野望を危険と見て家康と内通した。関ヶ原では毛利全軍の指揮者として南宮山を動かず、吉川広家もまた徳川家康の勝利に貢献したのである。
しかし家康は、広家とのこの密約を守らなかった。毛利輝元の所業に、守る必要を認めなかったのだろう。家康は功績を吉川広家個人のものとし、彼にだけ周防長門のニカ国を与えるとした。宗家の為に尽くした吉川広家の思いは複雑であったが、たまらず毛利宗家の存続を家康に願い出た。家康は、吉川広家の願いを受け入れる形で毛利宗家の存続を認めたのである。
輝元は無謀な賭けの果てに、本拠として整備した広島城を失った。長門周防の人カ国が残ったのも、西軍を主導した立場からすれば破格の処置である。それは臆面もなく、輝元が石田三成ら奉行衆に全ての罪を被せた為である。毛利本家の為に最善を尽くす吉川広家に対しても、輝元は臆面もなくその所領を差し出す提案を受け入れた。
自分が生き延びる為に醜く足掻く、大名としての毛利輝元の声望は地に落ちた。知恵もなければ君主としての能力が高くはないと露呈した。しかしそうであるからこそ、輝元は独自の嗅覚で生き残り続けている。
メッキが剥がれ落ち、輝元が無能と認めたからこそ、家康は毛利本家の存続を認めたのかも知れなかった。毛利が大人しく所領削減を受け入れなければ混乱は長引く。毛利輝元は怖くなくとも、その家臣団と吉川広家が牙を向く。しかし輝元を当主に据えている限り、毛利には諸大名を統率するだけの声望はもう戻らない。その事を家康は見抜いていたのだ。
所詮は毛利輝元は、夫の留守にその妻を盗み取るような行為を望む欲深い小人なのだから。
周姫は輝元と共に新たな本拠地となる萩城へ移ることを期待した。輝元との第二子となる女児竹姫を関ヶ原と同年に産んだばかりだったのだ。
しかし正室である南の大方はそれを拒絶した。吉川広家の情けで大名として存続した毛利輝元は、もはや家中の独裁者ではなかった。所領が大幅に削減され、家臣が路頭に迷う寸前である。溢れる不満を鎮める為に、今は家中の結束を図らねばならない。輝元の子を産み三十路が近づいた周姫には、かつての美少女の面影は薄れていた。周姫は周防国山口の覚皇寺へと追いやられた。覚皇寺の静寂の中で彼女は子を育てながら、輝元の訪れが途絶えた孤独な日々を過ごしていた。
慶長6年(1601年)の冬のある日、輝元が覚皇寺を訪れた。関ヶ原の戦後処理のゴタゴタがようやく落ち着き出していたのだ。
久方ぶりに輝元が再び周姫の元を訪れた。三十路に入って輝元の訪れは激減していた。
「そろそろ、竹姫も乳離れする頃だろう。赤子の世話も落ち着いた頃だろうと様子を見にきた。」
周姫はその言葉に唖然とした。なんということだろう。竹姫を産んだ後、産後の体調が回復するのを輝元はただ待っていただけなのだ。ここに来たのも、再び周姫と関係を持つ為である。どこまでも彼女の存在に固執するのか。それは薄気味悪いほどである。新しい女を侍らせようともしないのだ。いや、試しているのかもしれないが、周姫ほど好みに合致する女子がいないのだろう。
周姫には別に輝元に対する愛情はない。周姫は彼に玩弄されたに過ぎなかった。毛利本家を息子に継がせるという野心さえ、輝元の失敗によりその規模を大幅に縮小していた。
久しぶりに彼の姿を見た周姫の胸に、抑えきれぬ恨みが湧き上がった。彼女は震える声で訴えた。
「あなたは私の夫を殺し、私の人生を砕いた。後継を産んでも、毛利の領地は長門周防ニカ国にまで減りました。私はどこまでもあなたのおもちゃでしかなかったのですね」
目に涙を溜めながら言葉を絞り出した周姫に対して、輝元は不思議そうな顔をした。彼にとって周姫は、何か言い分があるような存在として見られていなかったのかもしれなかった。輝元には何か言い分があるのだろうか。周姫は輝元の反論を待った。輝元は冷たく笑うと言い放った。
「恨むなら運命を恨め。お前は我が女として生きるしかなかったのだ」
その夜、輝元は周姫を再び求めた。彼女の抗う声を無視し、再び彼女の着物を剥ぎ取った。赤子の寝る横でも輝元は一切躊躇しない。輝元の唇が彼女の首筋を這い、乳房を荒々しく貪ると、周姫は悔しさで身を震わせた。彼の指が秘部に侵入し、かつてのように彼女を弄ぶと、彼女の身体は裏切るように反応してしまった。輝元の剛直が彼女を貫き、激しく腰を打ち付けられると、周姫は屈辱と快感の狭間で喘ぎ声を上げ、涙が頬を伝った。
「お前は最後まで我がものだ」
輝元が嗤いながら動きを早めると、周姫は自らの無力さに打ちひしがれた。行為の果てに彼が去った後、彼女は畳の上で一人泣き崩れた。輝元に犯され続けた人生への悔しさが、止めどなく溢れる涙と共に彼女を呑み込んだ。
1602年の秋に周姫は第三子を授かった。竹姫が乳離をした頃に、再び訪れるようになった輝元に抱かれた時の子に違いなかった。輝元の次男となるその子は、後に毛利就隆として分地された三万石余りの所領を治める事となる。
慶長9年(1604年)の夏のある日、周姫は覚皇寺で病に倒れた。就隆がそろそろ乳離れして、輝元が再び周姫を抱く日を心待ちにしていた最中である。
その後まもない慶長9年8月1日、周姫は静かに息を引き取った。西方寺に葬られた彼女の墓は後に香山公園に移され、歴史の片隅でひっそりと眠る。輝元に玩弄され続けた周姫の生涯は、権力と情欲の狭間で儚く終わりを迎えた。しかし長州藩の藩祖として、彼女の血統が続いたのである。
南の大方は輝元より6年長く生きた。毛利輝元の正室である彼女の墓は、沙麓山天樹院跡に、輝元の墓と並んで建っている。
あとがきに変えて
毛利輝元と周姫を取り上げて、その周囲の人物に幾つか発見がありました。
児玉元良:
周姫の父である彼が輝元に素直に娘を差し出していれば、杉元宣は死ななかったかもしれません。
ただ、輝元の婚姻は毛利元就の決定したものです。輝元の横恋慕を嫌ったという面は確かにありますが、毛利元就の定めた正室の邪魔を自分の子にさせてはいけないという考えもあったのではないかと感じました。
毛利輝元:
家臣の妻を横取りする行為は、古代中国でも典型的な暗君の行いとされています。(あくまでも輝元の中では)純然たる愛の発露だった可能性はあるのかもしれません。
周姫の夫の杉元宣が殺害されたのは、輝元直々の命令ではありません。小早川隆景の忖度の結果です。
どちらかといえば輝元は杉元宣を生かしたていた側であり、小説の中で取り上げたようにそれが周姫との約束だったから守っていたという理由も考えられます。
小早川隆景:
豊臣秀吉の治世では賢人と称えられる隆景ですが、今回は意外な役どころでした。輝元の悪を補助するような役回りです。
吉川元春没後、大毛利家を文字通り支えたのは小早川隆景です。その苦労は(特にこんな輝元の補佐だと)並大抵ではなかったでしょう。
また杉元宣は小早川隆景と上司と部下というべき関係性があり、真面目な隆景は周姫を巡る問題で主君と部下の板挟みにされたのも想像に難くありません。
隆景は本当に気の毒な役回りです。毛利元就が偉大なだけに、残された子供たちは生き残れば生き残るほど苦労をしたのかもしれませんね。