Everlasting Flower 作:オールデイハッピーデイ
――――どこか遠くで、風が花を揺らす音が、聞こえた気がした。
その微かな響きが耳の中を優しく撫でていく感覚で、俺はゆっくりと目を覚ました。
ベッドの上で横になったままぼんやりと、部屋の隅の明るい方へと視線を向ける。
カーテンの間から差し込む陽射しは柔らかいのに、どこか冷たさを感じさせた。
窓の外側では、澄んだ青空の下で中庭の木々が細い枝を震わせ、散り残った枯葉は地面で不格好なダンスを踊っている。
ガラス越しに見える世界は、静かに、冬の訪れを告げていた。
「…………」
その風景を見た俺は、過ぎ去っていった時の流れについて考えずにはいられなかった。
あの冬の日――白銀の世界で俺が心臓発作を起こし、何もかもが全て変わってしまったあの日――あれからもう、一年が経とうとしているのだ。
俺は深く息を吐きつつ、瞑目する。
それから、この一年間に起きた色々なことについて、思いを馳せる。
変わってしまったこと、変わらなかったこと。
諦めてしまったこと、諦めきれなかったこと。
忘れてしまったこと、忘れられなかったこと。
そして生まれて初めて、身体と心を重ね合わせた大切な恋人のこと――そうだ。
彼女のことを考え始めて、俺はふと現実に引き戻される。
すぐに枕元に置いていた携帯で時刻を確認する。
9時30分。
「やばい」
思わず声が漏れた。
感傷に浸っている暇など、どこにもなかったのだ。
俺は大慌てで身体を起こす。その拍子に、ベッドの角に勢いよく左足の小指をぶつけてしまう。
「っ……っ!!」
悶絶級の痛みだ。
しかし悠長に悶絶してなどいられない。
『Time waits for no one』という格言がある。
つまり時は誰も何も、小指の痛みが引くのも待ってはくれないということだ。
激痛でかえって冴えた脳からの指令に従い、俺は支度を進めていく。
財布・携帯・ICカード・エマージェンシーカード――これは俺が万が一外出中に心臓病の発作を起こした時の対処法が記されている紙で、ちょっとしたお守り替わりだ――それら外出時に必要なものをウェストポーチに突っ込む。
パジャマを脱ぐ。上も下も。ブリーフ一丁になる。
そしてクローゼットから、素敵な女の子の横を並んで歩いても恥ずかしくならないような服を引っ張り出す。
姿見の前に立つ。縦に刻まれた胸元の傷が鏡面に反射するが、それは今気にすべきことではない。
取り出したフランネルシャツとデニムパンツを、まるで服屋でするみたいに、素肌の前に掲げてみる。我ながら中々かっこいいんじゃないだろうか。少なくともダサいってことはないと思う。
まずボトムスから履こうとして、ふと自分の顔の油が気になり始める。別に些細なことだ。
少し普段より油分が多い気がしなくもないというだけで、それはほとんど思い違いだ。恋人とデートに行く前でなければ気にも留めないだろう。
ただ今日は普通の一日とは違うのだ。
それに、そういったことは一度気になりだすと止まらないもので、まるで部屋を飛び回る厄介な蚊のようなものだ。潰さずにはいられない。
ついでに寝ぐせ直しにもなるし、俺はシャワーを浴びることに決める。
シャワールームには先客がいた。わざわざ名前を挙げるまでもない。究極のアンチ・フェミニストの男だ。
彼は当然のごとく全裸で、俺を見るやメガネのフレームを指で挟んでしたり顔を浮かべてみせる。
「おう、また今日も女様優遇社会で行われる茶番という名の一日が幕を開けたな。クソッタレグッモーニンだ」
「よう、朝だな。おはよう」とだけ俺は軽く挨拶する。
「今朝のニュース、見たか? もうあれは女を枢軸国にした第三次世界大戦の勃発は不可避ってことだよな。ああそうなれば女はきっとああいう兵器や戦略を使ってくるだろうな。例えば――」
『無視』という名の盾を使い、健二の口から放たれる電波から身を守る。
なんだかんだでいつも健二の妄言に付き合ってやっているから、フルシカトというのは少し不憫な気もするが……そうも言っていられない。悪いが今は時間に余裕がないのだ。
バスタオルや着替えを棚に置く前に、俺は蛇口をひねり、すぐに温水を浴びられるようにする。
「なあ、お前、今日はどっかに出かけるわけ?」と健二が訊ねてくる。
「ああ。彼女とデートだ。今日は夜遅くまで帰らない。いや遅くになっても帰らないかもしれないな」と俺は返事をする。
「……ゴムは付けろよ」と健二が感情の読めない表情で言う。
「文明の利器様様だ」と下着を脱ぎながら俺は軽口を叩く。
ささっとシャワーを浴び終えた。
たっぷりと、2日分くらいのシャンプーを使って身体中を洗った。
まず入念に洗顔し、髪を洗い、それから首や脇やペニスを重点的に洗った。
いざって時、好きな相手に臭いとか汚いとか思われるのは本当に耐えられないことだろうからな。
更衣室に戻ると健二の姿は既に消えていた。
ひとりきりの更衣室で、俺は急いで身支度を済ませた。
すべての用意が完了した。
時刻は9時50分だ。
待ち合わせまであと10分。
諸事情で起床時間が遅れてしまったけれど、なんとか、普通の学校よりも厳しく定められた『廊下は走ってはいけません』という規則を破らずとも時間に間に合いそうだ。
男子寮を出て、中庭を通り、俺は待ち合わせ場所――裏門の前へと向かう。
今日は11月の上旬にしては肌を刺すような中々の寒さで、自室を出る直前にデニムジャケットを羽織っていくことに決めて正解だった。
しかし幸い天気は予報通り快晴で、デートをするには絶好の日だ。
朝の澄んだ空気を味わいながら通路を歩いていると、前方から、金色のポニーテールが目立つ女の子がこちらへ向かって歩いてくるのが見えた。
「おはよう、リリー」
「……あら、久夫さん? 奇遇ですね、おはようございます」
俺に挨拶されると、リリーはすっと歩みを止めて、品のある仕草でぺこりと頭を下げた。
休日なのに彼女は山久の制服を着ていた。
白と緑を基調とした制服を身にまとう彼女は本当に儚げで、アンティークドールのような精巧な美しさを誇っていた。
「制服を着てるけど、今日も委員会関係の仕事?」
「まあそんなところですね。クラスメイトからちょっとした頼み事をされていまして」
「なるほど。いつも通り働き屋さんだな」
「それほどでもありませんよ。困っている人がいたら手を差し伸べようとするのは、委員長として、人として、当たり前のことです。ところで――」
リリーは一旦言葉を切って、それから、ふっと笑う。
それは普段彼女がよく浮かべる類の微笑みではなく、もっとラフな、こちらをドキッとさせるような、いたずらっぽい笑みだった。
「久夫さん……いえ、彼氏さんの方は、今日はとても重要な用事がありましたよね?」
「……まあ、な」
俺は途端に自分の顔が熱くなるのを感じる。
突然そういう話を持ち出されるのは、正直言って恥ずかしい。
「うふふ。実は華ちゃん、昨晩私の部屋を訪ねてきたんですよ。明日の久夫さんとのデートが楽しみでどきどきそわそわして眠れないから、少し一緒にいてくれないか、と」
「……ほう」
「昨日の華ちゃんはすっごくふわふわしていて、話を聞いている私の方までなんだか夢見心地でした」
……なるほど、女子同士の秘密の恋バナって訳か。
俺は昨晩の二人の密会でのやり取りを想像する。
例えその内容が100パーセント自分にとって好意的なものであろうと、俺自身がいない場所で俺のことが主な議題に上がっていたと考えると、すごくむずがゆい感じがしてすぐに想像をやめる。
ただ……眠れなくなるほどに俺のことで頭が埋め尽くされていたパジャマ姿の華子のことを想うと、愛おしさのあまり胸が張り裂けそうになる。
「今日は私の分までいっぱい華ちゃんのことを甘やかしてあげてください」
リリーは杖を持っていない方の手で俺の右手をそっと握り、そう言った。
「ああ、任せてくれ。だけど、俺の方だって最近は受験勉強やら何やらが立て込んでて色々と溜まってるし、むしろ華子にたくさん甘やかしてもらおうと思ってる」
「それが良いですね」とリリーは安心したように笑う。
心の底から安心しているように、リリーは笑う。
俺は彼女である華子のことを甘やかしたいし、時には甘やかされたいと思う。
華子も彼氏である俺のことを甘やかしたがっているし、同時に同じくらい、甘やかされたいと思っている。
一方がもう一方に奉仕するだけの間柄は、恋人とは言えない。
それはただの片思いであり、ひとりよがりな感情の押し付けだ。
だから俺は、華子と結ばれてから今に至るまでずっと、『こちらから華子を助けるのではなく、華子の方から助けを求められるような男になること』を意識してきた。
そして俺自身も変に遠慮せずに――これはあらゆる意味で――華子のことを、求め続けてきた。
自立的な共依存、とでも言うのだろうか。
人間関係・恋人関係に明確な正解はないけれど、少なくとも俺たちにとっては、そうして築き上げてきた今の関係性が限りなく最適解に近いのではないのかと思う。
また、その『最適解』を誰よりも近く第三者の立場で見守り続けてくれているのは、他でもないリリーだ。
リリーは間違いなく
周囲と比べずば抜けて大人びている彼女には、他の大多数の同年代には『盲点』になりがちなことが、『視えている』のだろう。
何にせよリリーにはいつも助けられっぱなしだ。
「いつもありがとうな、リリー」
「いえいえ。こちらこそです」
待ち合わせの時間が切羽詰まっていることを察してか、リリーはそれ以上長話をしようとはせず、早々と杖を持ち直して場を後にしようとする。
「華ちゃんとのデートがどうだったか、また今度じっくりと聞かせてくださいね。それじゃあ、さようなら」
「ああ。リリーも仕事頑張ってね。じゃあまた」
別れの挨拶を交わし、改めて俺たちはそれぞれの目的地へと足を進める。
はずなのだが――
「ああ、久夫さん」
言い忘れたことがあると、踵を返したリリーが俺を呼び留めた。
「ん?」
くるりと振り返り、訝しむ俺。
彼女は含みを持たせた風に、くすりと笑う。
「色々と溜まっているからといって、羽目を外し過ぎないようお気をつけを」
「っ……」
また自分の顔が熱くなるのを感じた。
リリーに赤面しているのを見られるのが情けなくてすごく嫌だったから、俺はまるでいつぞやの華子のように、アスファルトの地面とにらめっこを始めてしまう。
いや、あるいは『視透かされて』いるだろうから、顔を隠しても仕方がないのかもしれない。
リリーみたいな清楚な女の子の口からそういうことを聞くのはあまりにも意外だった。
そんないやらしいこととは無縁の女の子だとてっきり……
待てよ。
……俺が邪推しているだけか?
あらぬ方に憶測してしまった自分が変態みたいでむしろ逆に恥ずかしくなって、それならば堂々と顔を上げてやろうと、俺はリリーの方を見やる。
しかし彼女は、既にどこかへ行ってしまっていた。
『あらあら、ウブですね』と幻影のリリーが俺をからかった。
「はー!」と俺はわけのわからない声を出す。
やれやれ。
俺はちらりと腕時計で時間を確認する。
次の瞬間俺は駆け出していた。
流石に道草を食い過ぎた。
持ってくれよ、心臓。
そんなことを頭の中で呟きながら、本当の本当に、一直線に約束の場所へと急いだ。
どうも、最近初めてかたわ少女をプレイし、華子をもっと幸せにしてやらなくちゃいけないという謎の使命感に駆られている男です。